切っても切り離せない私と文章について
書けない。そう自覚した瞬間、涙があふれた。ありきたりな表現だが、身体の一部がぽかっと空いたようだった。それは大きな喪失だった。
ふらりと本屋に立ちとると必ず「文章の書き方」の本を探してしまう。受けてみたいなと思うウェビナーは「文章の磨き方」がテーマだったりする。頭の中は書きたい文章だらけで、常に言葉を紡いでいたのに。
書けなくなったのは、いや、書けないと気が付いたのは今年の2月。ぬいぐるみ病院に我が子を入院させていたのだが、そのことをレポにして書こうとしていたことだった。
文と文の流れが悪い。全てがぶつ切りで、リズムを刻めない。カタコトで話しているかのような感覚。気持ち悪くてすぐに書くのを止めた。そこで気が付く、私、もう書けないのかもしれない。いつからこうだったんだろう。普通に、泣いた。
結果今こうやって書けているから当時の感覚は杞憂だったんだけど、じゃあなんで書けなくなったんだろうと考えてみた。加えて書けなくなった前、多分11月ぐらいから書くことへの熱は下がっていたのはわかってた。さて、数ヶ月前の私、何があったんだろうか。
1.生活や精神が安定した
今まで文章を書こうという気持ちは、自分の魂が削られ、燃え、衝動にかられた瞬間に訪れた。怒り、悲しみ、寂しさ、そして喜び。思春期から20代という青い自分は度々外的要因に揺さぶられ、激しい感情の揺らぎが私を突き動かした。そこから紡がれる文章は慟哭にも近くて、あとから読み返すと胸が痛むこともあった。
昨年は転職もし、環境が大きく変わった。30歳になって、結婚なんてしがらみもほとんどなくなった。するとどうだろう。それまでついていたものがスコンと落ちたかのような、荒れ狂う海域からただ凪いでいる海域にたどり着いたかのような、ただただ穏やかな時間が流れていた。
コンプレックスにまみれていた20代。20代ラストイヤーに、それらと全て向き合って、傷を可視化、文章にして、何に私は傷ついていたのか、向き合って、大切に、包んであげたら、静かにそれは消えていった。自分を愛することを知ったのだ。
生活も心もがらっと変わった今、衝動自体が減ってしまった。これは寂しいようで、穏やかな生活はどうしても捨てられない。まあプロの作家さんは衝動なんて関係なく書くんだろうから、これは書かなくなった理由には含まれないのかもしれないけれど。
2.ストレスがかかりすぎて心がしんでいた
前項で言っていた話と真逆になるので矛盾が生じるように思えるかもしれないが、今年の1月からはストレスで心がしんだ。きっかけは在宅勤務。誰とも会話できない孤独、そんな中仕事で大きいミスをした。この瞬間から、上司に目をつけられた。ここには書かないが、ものすごい圧をかけられていた。久々に何も考えられなくなった。私を突き動かすものにも動じない私の心は、完全に石化していた。書こうとして、手が止まり、涙が止まらなくなり、何もできず眠りにつく。
その後同僚に話を聞いてもらえたおかげで固まった心は溶けた。感情を久々に感じたのだけど、その表層にあったのが「怒り」だったのは笑ってしまった。まだまだ私は元気だ。感情が現れたらあとは私のターンだ。私は体に染みついた「執筆」を取り戻した。
3.私の文章なんて誰が読むの?
これは、ずっとずっと考えていたことだった。一時期はサイト投稿でエッセイを掲載してもらって、その読者とSNSでつながって、自分の文章が求められているかのような感覚があった。だけど投稿ができなくなってから、気付いてしまった。
何も後ろ盾のない私の文章なんて誰が読むの。
サイトに掲載されているあの人のエッセイだから、とちやほやしてもらっていた自覚はあった。SNSやコミュニティで人と絡んで、認知してもらって、仲良くなって、それで褒めてもらって。打算的打算的打算的打算的。わかっていた。離れたら終わると。そして、終わった。そこに残ったのは、無駄に上がった承認欲求と、二度と満たされない承認欲求だった。いいねなんて全然つかなくなった。サイトに掲載していただいた過去は、とても自分にとってもプラスになったから本当に感謝している。だけど、
本当につまらない。これが本音である。
誰かのための文章を書きたかった。あなたのために書きたかった。私が誰かの文章で救われたように、私が自分自身の文章に救われたように。狙ってPV数やいいねの数を取りにいく文章ではなく、フラッと目にした誰かの心に刺さればいいと思っていた。だけどもう、数字や目に見える感想がないと、本当の意味で満たされない。過去の栄光にしがみついた愚かな虫である。
変わってしまった。もう元には戻れない。
私がサイトに載せてもらっていたペンネームを捨てたのも、これが理由だ。私が過去にすがるような女でなければ、本当は捨てたくなかった。だけど、一からやり直したい。だけど、一からやり直せるほど筆力がない。
かろうじて、時に「文章が好きだよ」と声をかけてくれる友人の声で、ぎりぎり保っていられる。見てくれている”かもしれない”ごくわずかな希望を頼りに生きている。
この希望を広げるには、書き続けるしかないのか。
だれかに、みつけてもらうまで
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