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珈琲淹れた?それがなにか?・・・と猫に言われた件

6年前にやってきた黒猫まめは、老人ホームにひとり、母猫に置いてけぼりにされた女の子。どういう状況だったのかは詳しく聞かなかったけれど、うちにやってきてすぐにテーブルにのぼり、人間が使っている箸の先を、知ってるわよとばかりに狙って舐めてくる、という様子から、彼女は母猫の代わりに老人たちに可愛がられていたことが分かった。

急須も舐めてた、多分・・・。

その可哀想な生い立ちや以前、私がこよなく愛していた黒猫のもぺおさんにそっくりなこともあって、まめを溺愛し、クルマがほとんど通らない、家の後ろは山という環境を安全に過ごしてもらうため、まめと散歩することを開始した。

それから6年。
彼女は散歩の催促をする猫となった。
時間は夕食(猫の)まえの夕暮れとき。
寒い冬は陽の射す暖かな午後を選ぶときもあるけれど、田舎道とはいえ、農作業に従事する近所の人たちはいて、
「あら、あそこの嫁さん、猫連れて歩いてるわー」
「猫って散歩できるの?へえ〜」
といった、好奇の目を避ける意味もある。
ちなみに、避けていてもいづれは知られてしまうのが「自然豊かな散歩に最適な道は、人が歩けば好奇の目で見られる田舎」の定めであり、「田舎ほど車社会で徒歩で歩く奴はいねぇ」というのが現実。
すっかり、日常さんちの嫁は黒猫を連れて散歩してるってよと知れ渡った。

ま、もうそんなことは気にしていない。
むしろ、うちの猫が野良猫と思われ、ぞんざいな扱いを受けるぐらいなら好奇の目に晒される方がまだマシだ。田舎は、いまだに猫や犬を「家畜」というお年寄りもいるのでその辺は要注意だ。

猫の散歩は夕暮れが基本。
なので、散歩のことなどすっかり忘れ、家事を終えた午前10時。お気に入りのエチオピア産の豆で珈琲を淹れた。
冷えやすい体質の私は、1日に1杯を飲むのが限度だから、午前中の1杯の珈琲は特別なドリンクになる。だから楽しみだし、ここぞとばかりに少し高価なチュコレートなどを用意する。
挽きたての珈琲豆の香りは特別だ。お湯を注いだときに泡立つ感じも楽しい。
豆は中煎りの少しの酸味とフルーツを思わせる爽やかな香りのものが好みだ。
それをお気に入りのカップに注ぎ込み、動画なんぞを観ながら昼までのんびりしようと思っていた矢先、

「にぁあぁぁん」

と、まめに呼ばれた。

早朝から自ら家から脱走し、近所の畑を散策。
その後、人が起きだす頃から朝寝を貪り、ぼんやり起きてきた黒猫がこちらを向いて鳴いている。

鳴き声とその雰囲気で、飼い主は猫が何を求めているかが分かったりするもの。
うちにやってきた時から、彼女の専属召使いとしてやってきた者の勘が「散歩だ」と囁く。

テーブルには淹れたばかりの熱々の珈琲が湯気をたて、リラックスを促すアロマを部屋中に広げている。
小皿には、高カカオのほろ苦チョコレート。
動画を観る準備も整い、ちょっとしたことをメモするノートと万年筆も完備。

このタイミングでか!

しかし、ここは人間。
経験と脳の大きさでは黒猫に負けてはいない。

「さあさあ、庭で遊んでおいて。今日は風が気持ちいいよ。ピッピ(鳥のことをそう呼んでいる)がいるかもよ」

庭へと誘導した。

庭は昨日、手入れをしたばかり。きれいに整っているし4月に巣をかけたツバメが朝からピュンピュン飛んでいる。

黒猫は窓から庭に出ると、数歩進んだところで座り込んだ。
尻尾を緩やかに揺らし、つと私を見上げる。

「散歩だ」

そう言っているに違いない。

数秒の葛藤のあと、珈琲をひとくち飲んでから私は召使いとしての仕事を果たすことにした。

召使いは安全を確認しながら猫の横をゆっくり歩く

昨日の猫にはもう会えないから

今まで、いろんな猫を保護してきた。
すべて、捨てられ保護された子たちだ。

田舎の情報網というのは侮れないものがあって、うちに流れてやってきた人懐こい、「にゃん」と名付けた雌猫は、家から少し離れた家の人が飼っていた猫だ、とわかることもあった。ニャンの生い立ちは、飼い主が離婚をし家を出て行ったことからご飯をくれる人がいなくなり、うちへ流れ着いたというもの。家には夫やその両親もいたようだけど、猫は「家畜」だから、ろくにご飯をもらっていなかったと思われる。

ちなみに、このにゃん。
まな板に置いたとんかつ用のお肉を嬉しそうに咥えていて、サザエさんの歌の如く、追いかけたことがある。にゃんは、なぜ追いかけるのか?ふしぎそうな顔で、私から逃げていったよ。追いかけてくるから逃げるね、みたいな顔をして。

そういった訳ありの猫を数十年と保護し、育てていると、当然のように死という別れも飼った数だけやってくる。
どの猫も忘れられない終わりを見せてくれた。

臨終の際になって、目も見えなくなっている状況の中で私を切なく呼んだ猫。
病気が進み、意識が朦朧とする中で私の手を舐めてお別れを言ってくれた猫。
老衰でガリガリに痩せた子に美味しい缶詰を与えたらそのあと、足元もおぼつかない足取りで私のところにやってきて、そのお礼とばかりに身体を撫でさせてくれた猫。(この子は、姑たちの家に住む子でなかなか懐いてくれない三毛猫だった)

猫との別れを幾度となく繰り返し、私自身も体に老いを感じる年齢になってきて、肉体といういづれ朽ちる運命を持っている器でできている私たちには、流れる時間が永遠ではないという事実が、リアルなものとして感じられるようになってきた。

家族(人間)と過ごす時間も、猫たちと過ごす時間も、どの一瞬も永遠ではない。
その瞬間に見せた表情、会話、一緒に過ごした柔らかな空間に日常のどれもが、何よりも大切で仕方なくなった。

黒猫まめの幼少期、老人ホームにて

特に、まめは私が以前、愛してやまなかった黒猫のもぺお(牡)の生まれ変わりと私は思っている。黒い毛並みを持っているというだけでなく、顔つきが本当によく似ている。ただ少し違うのは、ボスとして君臨していたもぺおと違い、まめは女の子だからか気は強いが弱い(苦笑)。家の中では女帝として先住猫のはるみを従えてはいるが、知らない人がくると怯え、近づけば威嚇をし、私に助けを求める(抱っこしてーと鳴く)。

もぺおとは実は、死別の挨拶ができていない。
彼は年寄りでも病気をしていたわけでもないのに、春のある日、ふと消えてしまった。
私が留守をしている隙にいなくなってしまい、次の春が再び巡ってくるまで近所を探し回った。
でも結局、もぺおの行方は知れず、悲しむことすらできずに、ただただ落ち込んだ。

だから、老人ホームの子猫の里親を探しているという知人からのメールに添付された写真を見たときは、すぐに保護を決めた。

まめを迎えに行き、まだまだ小さい身体を抱いたとき、いなくなったもぺおが帰ってきたと確信した。

そして、まめとの時間は、どんな時間でもたいせつにしていこうと決めた。

なので、散歩もその一環、ということになる。
たとえ、具合が悪かろうともまめが散歩といえばお付き合いをする。仕事の前でもそうだ。あと30分でクライアントが来る(かつては自然療法サロンを自宅でしていたので)というタイミングでも、雨でも(!)傘をさして歩いた。

珈琲を淹れたばかり?
ふん、珈琲よりも猫だろうが!

と思うのは、自然なこと。
とはいえ、淹れた手が飲みたかったなぁ、と思いつつ、きょうも山道をお散歩です。

私の横で安心して毛繕いをする女帝まめ

冷めても、珈琲はおいしかったよ。
でも次は、珈琲を淹れるまえに、お誘いくださいませ。

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