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文化の寿命

こんな話を聞いたことは無いだろうか?

大衆文化の寿命はおおよそ50年程。文化として根付いて50年の辺りから説明無しには受け入れられなくなる。

聞いた事あるなって人はきっと、昭和元禄落語心中を見たことある人だね。僕もそれで聞いた。

この言葉は昭和元禄落語心中に登場する小説家の先生が言ったものだ。ここでは落語心中のストーリーについては語らない。めちゃくちゃ良いので、実際に見て。

僕はこの言葉がとても印象に残っていて、聞いた時に出典を調べてみたんだけど、落語心中以外の出典は見つけられなかった。これを書くに当たって再度調べてみたけど、結果は同じ。原作者の雲田はるこ先生の自論なのかな。

原作者の自論でもなんでも構わないのだけれど、今まさにその言葉が重くのしかかってくるのを感じている。

僕は珈琲店で働いている。自家焙煎店で、豆の焙煎度のレンジは深め寄り。注文を受けてから1杯ずつハンドドリップするような店だ。エスプレッソは取り扱わない。軽食メニューも無い。最近流行りのパンケーキだのなんだのを出すカフェとはまた違った形態の店だ。店の景観は古くは無いが、やってる事自体は昔ながらのスタイル。

やってくるお客さんもやはり、おおよそ1970年代までの喫茶店全盛期を経験している人が多い。(田舎の店だから、周りに若者が多くない事も少なからず関係しているだろうが)

当時のスタイルというのは深めの焙煎の珈琲豆を丁寧に1杯ずつ淹れるのが主流だったらしい。僕は95年生まれだからよく知らんけど。

その頃はスマホどころか携帯電話すら登場してない頃だから、良く待ち合わせ場所として喫茶店が利用されていた。待ち合わせに遅れる様な事があれば、喫茶店の電話に連絡が来て、マスターがお客さんに伝える事もあったとか。

ゆったりと時間の流れる落ち着いた雰囲気の店内で、コーヒーを飲みながら待つ。それが当たり前の時代だった。喫茶店は決して敷居の高い場所じゃ無かった様に思える。

時は変わって2021年。全盛期の終わり頃から50年が過ぎた所だ。喫茶店のマスターに遅れる言伝をする必要も無い。スマホですぐに連絡が取れる。待ち合わせ場所としての喫茶店は完全に死に、コーヒーを飲むための場所になった。

昨今のカフェブームはその「コーヒーを飲むための場所」のイメージを払拭する為の戦略だと思っている。主役はあくまでスイーツやランチ、華やかな内装。コーヒーはオマケ。そういう体で居ないと、間口が狭すぎる。

以前お酒の話をした時にも語ったが、嗜好品は慣れるまでが鬼門なのだ。待ち合わせ場所というのは、その慣れる機会を自然と持たせる為に都合のいい属性だったのだろう。

そして、深煎り派閥に追い打ちをかけるコーヒー業界に訪れた大波、サードウェーブ。味の個性が際立ったトレーサビリティの高い珈琲豆を浅煎りで飲む。このムーブメントはコーヒーの間口を広げるという意味では大成功だった。

浅煎りであれば苦味鳴りを潜め、代わりに爽やかな酸味が際立つ。もちろん、焙煎上手くいっていればだけど。従来のイメージと違うコーヒーは若者に受けた。飲みやすいからね。豆の質と焙煎の質と両方高いと、本当にレモンティーでも飲んでいるかのような味わいにだってなる。びっくりするよ。

要は今の若者達のコーヒーに対するイメージは浅煎りに固定されつつある。これを深煎りにシフトさせるのって、めちゃくちゃ難しいと思うよ。本当に。

心理学とかマーケティングで語られるアンカリング効果ってものがある。基準が1度決まってしまうと、なかなかその基準は変わらないよってやつ。消費税が変わって、自販機の120円のジュースが130円に変わったの、みんな慣れるまで時間かかったと思うし、僕は未だに慣れていない。それと同じ事。

浅煎りが嫌いな訳じゃないけど、僕は落ち着いた雰囲気の店内で丁寧にドリップされた深煎りのコーヒーの方が好きなんだ。トロっとした舌触り、苦味とコクの奥に仄かに感じる甘さ、鼻から抜けていく香ばしい香り。スっと身体に入っていた力が抜けて、ゆったりと流れる時間と同期する。そんなお店が少しずつ減っていくのは寂しい。

これから先、喫茶店全盛期世代は確実に減って行く。高齢化が進めば致し方のない事だ。新しい波に飲まれて深煎りの文化は説明無しには受け入れられなくなっていくのかもしれない。

それでも、いずれは僕もそういうお店を自分で出したいな、なんて思ってるし、50年なんて言わず、どうか生きながらえて欲しい。

僕はまだ自分の武器で戦えないけれど、それまでは微力ながらも何か書くから。

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