人生十八年を振り返る

まえがき

2022年9月30日、高校時代からのとある友人と久々に連絡が付いたので話をした。大学に入ってから初めての彼との語らいだった。近況報告から入り、大学生活について、そして大学に入ってからの人間性の変化について語り合った。彼が床に就くということで話は終わった。午前4時、昼夜逆転のせいでいまだに冴えた頭の中で話した内容を振り返る。変化や成長の話が主だったということもあり、話を整理していくうえで自分の自己形成が如何なるものかに気づかされた。このnoteは、何者でもない18歳の人間が、人生を振り返り、自分がどのようにして今のような人間になってしまったのかをTwitterにテキトーに呟いた独白をひとつの文章にまとめたものである。そのため、他人に理解してもらうことは二の次(一応配慮はしたつもりであるが、如何せん私の作文力が拙いが故に、実際に読者の方々が理解できるかは不確かである。ただ、もう一度言うが配慮はしたつもりである。)であることをご理解いただきたい。


勘違いの18年

 幼い頃から人の目を気にする人だった。恐らく、幼稚園児の頃「恰好つけ」と言われ虐められた経験故だろう。
 「恰好つけ」という異常者のレッテルを貼られ過ごした幼少期や少年期、私は普通を演じようとした。チャイムが鳴る五分前には着席し、つまらない先生の話も笑顔で聞く。小学校低学年にして空気を読むことを知った。人の求める自分像でいることを、自己を確立する前に学んでしまった。
 高学年になる頃には虐められることはなくなった。普通になれた気がしていた。
 人の期待に応えること、これが私の人生の使命だと悟った。そうすれば友人もでき、何よりも腫物扱いされずに済む。そう盲信し生きてきたおかげで人一倍に周りを客観視し、空気を察知し、そこに適応することができるようになった。人は客観視できる自分を褒めた。自分は正しいのだと勘違いした。
 そして、多少無理することはあっても私は人が思う私を演じ続けて数年、2020年4月。コロナによる初の緊急事態宣言が発令された。自分を演じずに済む最高の機会だと思っていた。確かに数日は自分を演じることの疲れを癒すことができ、幸せであった。しかし、暫くすると他人の存在を求めていた。とはいえ反芻するに、このときの感情は友に会えぬ孤独さというよりも、生き甲斐への渇きというべきものであった。それ故に、私はまず夢を疑った。理系分野は滅法苦手な自分とゲームプログラマーになりたいという現実とはかけ離れた夢。小学生の頃からの夢ということもあり、大変浅はかなものだった。ただ私は語れる夢欲しさにそれを目指していたが、本心そうなろうとは全く思っていなかった。そうして私は夢から醒めた。夢から逆算して考えた志望校も悉く消えた。自分にとってはそれだけでも大きな進展であったが、それでも渇きをまだ感じていた。その渇きをに私は知らないふりをした。
夢と志望大学をなくしたまま、私は高2の冬を迎えた。何としても志望校だけは確保したかった。そして、お世話になった予備校のアドバイザーさんへの相談をきっかけに私はSFCを目指した。
その方とは音楽のことで話すようになり、予備校に友人の一人もいなかった私にとってはある意味特別な存在だった。何よりその方は私に期待を寄せてくださっていた。これがSFCを志望した理由の全てだったように思う。本当に期待してくれている人だと確信していたから、この人に志望校を委ねた。だから、私のSFC志望に自主的な理由などひとつもなかった。強いて言えば、夢がなくてもここなら迷う余裕がありそうだと思ったから、という程度のものである。結局私にとって、大学受験すら人の期待に応えるための演技の場でしかなかったのだ。
あのとき、自分のことを知るより先に人の期待に応えることを学んでしまったこと、そして自分の中にあった渇き、違和感に蓋をしてみて見ぬふりをしてしまったこと。これらの取返しのつかない失態によって私は、本当に好きなこと、したいことすらもわからぬ、つまらない人間になってしまった。
好きなファッションも食べ物もわからない私は、値段でものを見る。無難なモノトーン調でなるべく安いものを着、差し出されたメニューの中で一番安いものを注文する。好きな食べ物を聞かれたときは、テキトーに「ラーメン」なんて言っておけば、「何味派?」と勝手に話が弾むので楽だ。
期待に応えるために生きていたはずだが、自分がこんなにも出来損ないの人間であることを自覚した今、人からの期待ほどに恐ろしいものは存在しない。

ではなぜ俺はこれをネットに投稿するのだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?