見出し画像

正しい自殺とは

既に年が明けて半月ほど経ってしまったが改めて昨年を振り返ってみると、新興感染症により世界中の人が亡くなり、芸能界にいた方が何人か自殺をしたりと、自分の中で生き死にについて考えることが多くなった。そこで自分の中での自殺の在り方について、備忘録としてこのnoteに書き留める。

先に述べておくが、これらの内容は一個人の一思想であって、遺書でもなければ自殺を推進するものではないことを了承願いたい。

私は自殺というものを、自分で自分の最期を決めることのできる唯一の手段であり、決して否定も非難もされるものではないと考えている。

昨年ある俳優が自殺した時、Twitterには「順風満帆」なんていう言葉がトレンドにあがり、「早すぎる死」「何も死ぬことは」なんて反応も散見された。心底気持ち悪いという感情しか出てこなかった。

芸能界という特殊な環境で抱えていた地獄はその人にしか分からないし、自分で選んだ最期のタイミングに誰が早いも遅いも判断できるのだろうか。今までの人生で死にたいなんて思ったこともないような人達の歯の浮くような薄っぺらい綺麗事が一番残酷な言葉のように感じた。

過去に報道された「いじめや家庭環境に問題はない。楽しいまま終わりたい。」と遺書を残し校舎から飛び降りた女子中学生のニュースを見た時から、この遺書の事記憶に残っている。亡くなった以上この遺書の真偽は分からないが、文面の内容が本心だったとしてこの子の選択は間違っている、早すぎる死だと誰が言えるのだろうか。

自分はこの少女のような自殺はもっと受け入れられ、様々な人がこのような選択をしても良いのではないかと思っている。「人生で一番楽しいときに死ぬ」「定年退職して老後に資産を使い切ったら死ぬ」とか、何でもよいから自分の人生の目標を決めそれが達成されたら自殺するというものだ。もちろん目標が達成されたときにやりたいことがあればまだ生きる選択を取ることも自由だし、それより前に障害にぶつかりもっと早く自殺する事となるのもその人の自由だ。本質はタイミングでなく、「自分で自分の最期を決める」「自殺≠マイナスの事」ということだ。

現在の日本は平均寿命が男女ともに80歳を超える長寿大国とともに年に3万人自殺する自殺大国である。しかし長寿といっても健康寿命とは大きな乖離がある。つまり皆が皆五体満足のまま最期を迎えるわけではなく、病院で様々な機器につながれ「生きている」というより「生かされている」という状態であったり、自分で食事も排泄もできず、治療の程度や延命措置の程度も自分で決められずに過ごしている人が多くいるということである。

個人的にはそこまでして生きたいとは思わない。自力での食事と自力での排泄処理ができなくなったらいかなる病気だろうと一切の治療をせず死にたいと考えている。だからと言って前述した処置をして生きている人の事を非難するわけではない。どんな形であれできるだけ家族と長くいたいと望んだ結果の人もいるだろう。むしろ「自分で自分の最期を決める」というスタンスの私の信条に即しているため正しい判断だとも思っている。

このまま長々と活字を並べてもキリがないのでこの辺りでまとまらない思考を無理やりまとめに入るとするが、要は人間誰しもいつどうやって死ぬか分からないからこそ、いつどうやって死ぬか自分で決める選択肢もアリなのではないかと思っている。
日に日に新型コロナが猛威を振るう世の中で、1日に数万人感染しました4桁人が死亡しましたなんてニュースが流れるのはそう遠くない未来かもしれない。その死亡者の中に自分が入ってるかもしれない。けれどそれがいつなのかは分からない。
死ぬという事は必然的に起きる事なのにそれがいつなのかはあまりにも不確定過ぎる。自分は死ぬ事そのものよりもいつ死ぬのかというその不確定要素そのものが怖くて仕方ない。
それなら死ぬタイミングを自分で確定要素に出来る自殺というのは、とても合理的で立派な選択肢の一つでは無いだろうか。少なくとも自殺が不幸な選択だとは思わない。
欲を言えば、一刻も早く安楽死制度が認められないかと思っているが、それはまた長くなりそうなのでここでは割愛。

繰り返しになるが、これはあくまでも個人の極端な思想の垂れ流しであり自殺を扇動するものでも同調を得ようとするものでもありません。ただここまで読んでくれた方々が、少しでも人間の生き死にについて、自分の人生のあり方について考えるキッカケになればと思いました。

ろくな推敲もせずに投稿した書き殴りの駄文にお付き合い頂きありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?