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【短編小説】蟹と玉座

 大璃帝国は、天人を祖に持つ皇族の女子が天后と呼ばれる帝として民を統治する国である。虞霜葉ぐ そうようはその帝国で軍事に従事する家系の出身であり、天后を守護する女武官として生きていた。

 天后は神聖で清明な存在であるので、天后である帝が政務を行う皇宮で働く武官は全員女である。対外的な戦争や辺境の防衛では男子も戦うが、聖域である皇宮で帝に仕える役目は未婚の女子にしか許されていない。
 代々武官を務めてきた虞家の娘である霜葉は、武芸や軍事以外のことについては関わるべきではないと教えられている。男であるか女であるかは関係なしに、虞家の一族は皆余計なことには興味を持たないように育てられるのだ。

 だから霜葉は、自分が衛兵として立っている荘厳な楼門を輿に乗ってくぐっていく帝の顔が、いつも冠から垂れた薄絹の面紗で覆われていても、その下の素顔のことはまったく気にならなかった。

「天后聖帝の御出である」

 近習の文官の甲高い声が響く。

 帝は金色の歩揺や翡翠の佩玉を煌めかせ、猩紅色の龍衣に身を包んで輿に胡坐していた。色彩に乏しい鎧を着込んだ武官の自分たちと同じ人間とは思えないほどに、帝は美しく華やかだ。

 霜葉は隣の衛兵と同じように手を組み顔を伏せて礼をし、帝が門を通り過ぎるのを待った。
 帝は帝であり、個人としての名前を霜葉は知らない。人柄や生年を聞いたこともなければ、玉顔を直接見ることもない。

 帝の顔は人の目に触れてはならぬほど神聖なものであるため、常に面紗が隠している。
 皇族たちが居住する皇宮の最深部の内廷では例外的に、天后である帝も面紗を外して過ごしているとは聞いた。だが霜葉は公の場である外廷までしか上がることのできない身分であるので、一度もその姿を目にしたことはない。外廷と内廷とつなぐ楼門自体は武官の役目を果たす場所として見慣れているが、その扉の向こう側にある内廷という禁域はまったくの未知の世界だ。

 しかし面紗で顔を隠して帝にしか許されていない装束を着ているのが帝であり、その帝の姿をした人物を守ることが自身の役割なのだと教育された霜葉は、それ以上の問題を深く考えることはなかった。帝の生活や政治について何か知りたいとはつゆとも思わず、霜葉は刀を佩き鎧を着て武官としての務めを果たした。

 ◆

 皇宮にいる女武官は、霜葉の他にも何百人もいる。そのため持ち場は交代制であり、一般の官吏が使うただの通用路に立つ日も多い。帝の側に控えて身辺を警護する職も存在はしたが、その役割が霜葉に回ってくることはほとんどなかった。

 しかしある秋、めずらしく霜葉は帝の行幸に随行を命じられた。行き先の河樂県が、霜葉の出身地であるための人選であるようだった。

 行幸は天后の威光を各地に示すために行われる。河樂県は国の中心にある湖を越えた先にある風光明媚な土地で、今回は遊覧も兼ねているらしい。
 命令に従い霜葉は、邸で一番造りの良い鎧を父母から借りて帝に随行した。

 路程のほとんどは水上で、幾艘もの総帆展帆の船が海のように広い湖を進んでいく。
 霜葉は帝の乗っている御料船に同乗し、すぐ側に仕えた。間近で帝に接するのは、生まれて初めての経験だった。

 たまたま他の武官が出払った頃合いに、霜葉は帝とちょうど二人きりになった。

 甲板に立ち湖を眺めている帝は、秋晴れの青天に浮かぶ雲よりも白い外衣を身にまとい、編んだ黒髪に真珠を散りばめた簪を挿していた。ゆるやかに美しいひだを描く袖や裾には銀糸で繊細な刺繍が施され、水面と同じように陽に照らされ輝いている。

 相変わらず玉顔は面紗で覆われていたが、きっとその下の素顔も美しいものに違いないと霜葉は思った。大璃帝国で最も尊い存在である帝と二人並んで立っていると、だんだんと自分が人ではなく物であるような不思議な気分になる。

 帝が黙り、霜葉も自分からは話さないので、二人はしばらく沈黙していた。

 水の流れる音だけが聞こえる静寂の中で、帝は湖とその向こうの山々を熱心に眺めている。霜葉はそうした帝の様子を横目で見ながら、景色を楽しむのに面紗が邪魔にはならないのだろうかと考えた。
 いくら目元に隙間ができるように垂らしているとはいえ、面紗があっては視界が狭いはずだなどと推しはかっていると、帝がふいに言葉を発した。

「お前の一族はこの土地の出身だそうだな。この湖のことは良く知っているのか?」

 淡々と落ち着いた問いかけが、ぼんやりとしていた霜葉に向けられる。霜葉が帝の声を聞いたのは初めてのことだったが、雰囲気からすると帝は今年で二十歳になる霜葉よりも少し年上の女性らしかった。
 唐突に話かけられた霜葉は、改めてかしこまり受け答えた。

「ここ河樂県にいたのは幼い頃だけなので、詳しいことは存じ上げません。ただ海と繋がっている湖ですから、たいそう蟹がよく獲れるとは聞いています」

 普段よりも少し高い声で、霜葉は雄大に澄み渡る湖についての断片的な知識を語った。故郷とはいえ物心つかないころにしか過ごしていないため、話せることは少なかった。
 すると帝は面紗越しに声色を和らげて、つぶやいた。

「……蟹は私の好物だ」

 蟹が好きだと率直に明かされた言葉。ささやかではあるが、それは確かに帝の個人の意思表示だった。
 そのとき初めて霜葉は、帝が生身の生きた人間であることを認識した。天人を祖に持つ天后にも人並みに好物があるのだと、驚き意外に思った。

 帝が本音をこぼしているのだから、霜葉は自分もある程度は素の返答をするべきだと考えた。だが必要以上に馴れ馴れしくするのも礼を欠くので、控えめに言葉を選んだ。

「では楽しみですね。今晩の夕餉が」

 霜葉は手を組んで恭順の姿勢をとり、目を伏せて湖を眺め頷いた。

 ゆったりと波打つ水面には、白銀の錦で華やかに着飾り顔を隠した帝と、黒鋼の鎧を着て髪を巾でまとめた霜葉の影が、同じように並んで映っていた。

 他には特に、二人は言葉を交わさなかった。

 船路を終えた、その日の夜。
 行幸の一行が宿泊した館では蟹が振る舞われた。特に良質な蟹は帝に献上されたと、霜葉は他の武官から聞いた。

 ◆

 それから半年後の春、霜葉は皇宮の控え室での帝の護衛を再び命じられた。
 帝の身辺警護を務める機会は久々だが、霜葉は粛々と支度をして持ち場へ向かった。

 朝議までの時間を帝が過ごすために作られた控え室は、蓮の花紋が彫刻された石窓から陽の光が差し込む解放感のある部屋であった。
 壁には四季の風景画が描かれて、紅木の書斎机、棚、茶台などの贅を尽くした家具が並んでいる。

 帝は凝った細工の肘掛け椅子に腰掛けて、卓に広げた地図を眺めていた。地図を元に地政について考えていたからなのか、面紗の隙間から卓上に視線を注いだまま、帝は霜葉に何気なく尋ねた。

「お前はどこの出身なの?」

「河樂県です。蟹の名産地の」

 半年前、行幸に随行したときのことを思い出しながら、霜葉は答えた。
 しかし帝は、河樂県という地名にも蟹という名産にも反応せずに、ただ相づちをうった。

「そう」

 低く温もりのない声が淡々と響く。

 霜葉は帝が自分のことを覚えていないのはともかく、好物など何もなさそうな態度であることに違和感を覚えた。もっと言うならば、声色や言葉遣いも記憶と比べて不自然に感じた。

 だが霜葉は帝のことを遠く面紗越しにしか知らないので、きっと自分の思い違いなのだとすぐに納得した。元からこうした人物だったのだと違和感を忘れ、姿勢を正して護衛に立つ。

 面紗で顔を隠し帝の装束を着た人物が帝なのだと教えられ、その他の思考からはまったく切り離された霜葉は知らなかった。
 皇宮の奥にある聖域中の聖域、国中で最も神聖なはずの内廷の中で起きた政変のことを。

 天人の末裔を自称する皇族たちは身内の内紛で殺し合い、別の皇女が帝を弑して成り代わった。
 かすかでも親しみを感じたあの秋の日の帝がこの世にはいないことを、霜葉は知らない。

 帝は帝であり、名前はなかった。

 霜葉はこれからもただ、帝であるはずの顔も知らない人間を守る武官でありつづける。



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