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現役世代で「ステージ4」の肺がん患者になってみたら、解脱しないと辛くなる(患者が感じる死)

死を自分なりに理解するということ

「生」や「死」に関する研究や書物は数多く存在している。形而上学的な立場で論じる場合、例えば、その先にある世界を考えながら、その時が来るまでの間に備えておくべき事柄を実行するという具体的な行動を、自分自身で理解することが出来る。例えば、悪行を重ねている人間は「地獄」行となり、善行を惜しみなく行い、人に尽くし、また一方でこの世に普遍的に存在する事柄について、議論を続けて自己研磨に勤しむことで「天国」行となるのである。「天国」に行きたければ、身体に宿る俗を捨てることが必要であり、それが出来ない人間は「地獄」にしか行くことはできないということになる。また、物理学的な立場で死を考えると、それは身体が生存する機能を消失してしまったことを指している。すなわち、身体が息をしなくなり、心臓が止まり、血流も臓器の機能も全てが止まった状態である。「死人に口なし」という言葉がある通り、物理学的に死となった場合には、二度と息を吹き返すこともなく、当然人と話すということも無い。「死」というものを言い伝えることは、全く不可能なのである。

私は、死については物理学的な捉え方をしている為、「死=身体の全機能停止=亡骸化する」と理解している。その為、「死」以降は何も無いので、死期が訪れるまでの間がとても重要な位置づけとなっている。天国に行くためではなく、自分が死期を向えるまでに「どう生きたいか」ということである。「どう生きたいか」とは、「どう生きることが、今の自分には出来るのか?」ということである。前章のエフェクチュエーションの話題の中でも記述したように、「自分は誰で」「何が知っているのか?」「誰を知っているのか?」が、ステ4患者が存在する空間には必要なのだ。

「死期まで、あと何年あるのか?」、「それまでは、今の状態が続くのか?」など、誰も分からない不確実性が存在する空間を、過去の事実から導き出された正解のない状態で進まなければならない。マスマーケティングが通用しない、個別のマーケティングを自分のインサイトに語り掛けることで、死を認識して、死と共生しながら、自分にできる事を明らかにしていく必要がある、そして、それを実行することで、初めて「死」というものを自分なりに理解できるのである。

パイドン風な死期の認識

「私は死ぬ」と「私は1年後に死ぬ」。この2つの違いは期限が明確であるか否かである。
では、「私は死ぬ」と「私はいずれ死ぬ」と「私は1年後に死ぬ」ではどうであろうか?
以下の表は、各言葉の解釈の違いを自分が認識した「対象物」と「死期のタイミング」に分けて表現したものとなる。

<”私”と”死”の関連付けと死期のタイミング>

平均寿命

これらのことから考えられることは、主語が「私」であっても、「死」という未知の事象について考える場合は、時間的制限の有無で直接的な対象物が違ってくるということである。

私+期間+死ぬ

期間は、その表現が抽象的か具体的かによって、その後に繋がる「死ぬ」の重みに影響を及ぼす。上記のように、「いずれ」という抽象的な表現である場合、期間を明記しない場合と同様に、自己に対する死の認識について影響が無いことがわかる。一方、「1年後」と具体的な表現に変わることによって、死の認識に対する影響が大きくなる。その影響は、認識する対象物が自分のみか自分を含めた全てと、その解釈が全くことなってくるのだ。

「私は死ぬ」もしくは「私はいつか死ぬ」と考えた時、「そりゃ、そうだよな。永遠の命なんて無く、いつかは寿命がきて死ぬよね」と思う人も多いだろう。この場合は、自分を含めた生物全体と一体化させることで、理解をしている状態である。「私はいずれ死ぬ」も同様で、「そりゃ、いずれ皆死ぬよな」と考えるはずである。しかし、「私は1年後に死ぬ」を考えた場合は、「そうなんだ、自分は他の人と違い、1年後に死ぬんだ」と初めて「私自身」の事として認識できるようになるのだ。

パイドンでは、ソクラテスは刑死するまでの限られた時間の中で、プラトンらと哲学について議論をしていた。状況は違うが、近いうちに必ず訪れる死期を認識して、限られた時間を過ごしていたいのである。本来ならば、毒が盛られた杯を飲んで、毒殺されるところであったが、死刑当日にアポロンの祭祀を祝う為に船を派遣したことによって、その船が戻って来るまでは死刑が執行されないという状況になっていたのである。しかも、天候等にも影響を受ける船舶であるため、いつ戻ってくるのかも不確実であった。
このソクラテスの状況は、ステ4患者のそれに類似するところがある。ある日、咳が酷くなり、近くのクリニックを受診する。レントゲン撮影をした結果、クリニックの医師から「精密検査を受けた方がよいので、すぐに病院を受診してください」と告げられる。病院でCTやPET等の画像診断を受けて、検査結果を呼吸器内科の外来で受ける。「肺がん、ステージ4です。このまま未治療の場合は、余命半年です」。

<年代別の平均余命>(厚労省HPより)

平均余命

先にステ4患者心情のセグメンテーションについて述べたが、そのポジショニングと余命を関連させて考えた時に、「余命半年」と宣告された時の「半年」の価値(余命に対する期間)は、それぞれ異なるため、同じステ4患者であってもその心情には違いが生じる。

平均寿命というアンカリングによる剥奪説と感情

余命宣告を受けた当日、自分の死期を認識した時に「悲しみ」や「恐怖」ではなく「残念」で「無念」という感覚に包まれた。
「死」については、自分の両親などの死を通した経験値は持っている。それは、物理学的な認識であり、亡くなった時は悲しみを覚え、今でも懐かしく、また会いたいという気持ちを持つこともある。しかし、全てにおいて他人事としての死の認識である。「もっと、親孝行しておけばよかった」という後悔は確かに存在している。しかしながら、それは自分自身が告知された時の「残念」や「無念」とは違う。

<死の認識と念>

認識と念

上図は、自分自身が「死」を認識した時点を中心として、過去と未来をどのように使い分けて認識しているかを表している。先にも述べた通り、人は死の対象が他人である場合には「後悔」を感じ、死の対象が自分である場合には、「残念」「無念」を未来対して感じている。自分自身が、過去に対して後悔する時は、死に対してではなく、現状を認識した時に、過去を振り返り後悔をしているのである。つまり、他人の死に対して後悔するとは、他人に対して、自分の行動を後悔しているということなのである。一方、未来に対して「死」を考える場合に、死期を認識していない人にとって、「死」とは過去の他人事のみ経験している。よって、未来のどこかのタイミングで寿命か事故かなんらかのトリガーによって死期を向えると漠然と考えることはできても、自分自身の事として認識するこは出来ないのである。その場合、過去の後悔の対象してある「死」は知っているが、未来の「無念」「残念」の対象としての「死」は未知の事であるため、具体的に認識することは不可能なこととなる。

では、何故、人は「残念」や「無念」という感情を抱くのであろうか?そこには、平均余命の存在が否めない。つまり、人は知らないうちに、ニュースや他の媒体を通じて「平均寿命」という情報をインプットされており、気付かない間に、その「平均寿命」をあたかも自分自身の人生の死期に置き換えてしまっているのである。「死ぬまであと〇〇年」という感じで、現在の年齢を平均寿命を差し引いて、自分の残余年数(=余命)を皮算用していることに気付く。
平均寿命や平均余命とは、あくまでも目安であって、自分自身にそれが該当するものではない。しかしながら、いつの間にか「自分もその年齢までは生きるであろう」というアンカリングをかけられてしまっているのである。
アンカリングをかけらた余命年数に対して、余命宣告を受けたステ4患者は、単純に皮算用した余命期間とがん告知によって受けた新たな余命期間とのGAPに気付いて、「残念」や「無念」といった感情が生まれてくるのではないかと考えることができる。

ステ4患者が感じる「残念」「無念」とは、剥奪説によるものなのだ。

ステ4患者心情=
アンカリングされた「余命期間(年数)」 ー 告知された余命期間

告知を受けていない、死期を認知していない人は、上の「告知された余命期間」=「0」(null)となるため、平均寿命または平均余命(または皮算用された自分余命)のみ存在している為、やや楽観的に死期を認識していると想定できる。

ステ4患者が「死期」を認識した場合のPatient Journeyとレジリエンス

死期を認識したステ4患者が剥奪説を有している事が明らかになったわけであるが、では、そういったステ4患者はどのような心情変化を日々感じているのであろうか?
心情の変化には、前章で述べたステ4患者心情のポジショニングの違いによって、サバイバーHappinessも変わってくる為、同じ心情変化=Journeyではないことは容易に推測できる。

一般の健常者からステ4患者になるのは、ほんの一瞬である。「奈落の底に突き落とされる」とは、よく言ったものであるが、まさにそれである。
ここで、ステ4患者になるまでの流れを簡単に示すと同時に、ステ4患者心情のレリジエンスも表現してみることにする。

<ステ4患者のレリジエンスと不確実性の影響>

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横軸には時の流れを示しており、その内容はPatient Journeyと同様となる。ある日、突然ステ4患者となった元健常者のレリジエンスとステ4患者レリジエンスの特徴を示している。
検診で「検診で要精検」指示を受ける時は、健常者として生きている為、心情としては目の前に起こっている事実に対して「抵抗」を示している。「間違っている」という「反発心」から、病院での精密検査へと挑むこととなる。しかしながら、精密検査を受けるまでの間に「不安」が発生してくる。そこで、検査日までに色々な情報を収集することとなり、不安がストレスを引き押してくる。検査を実施すると、その過程を通して「自分が病人」の入り口にいるのでは?という不安と結果が先送りされることによる「ストレス」が生じてくる。
「告知」を受ける日を境に、それまであった「不安」や「ストレス」が最高潮(その時は)に達する。世界で最も悲劇な人間として、自身を捉えるのだ。その時、自分の行く末を知りたくなり、様々な情報を収集し、一度状況を整理整頓する。ただし、それは病状に対する情報の整理整頓であるため、ステ4患者が抱える不安やストレスの一部に過ぎない。
家族や周囲の限られた人間に対して、自分自身を説明していくことで、自分が置かれている状況(ポジショニング)がよりクリアになっていく。その時点で「開き直り」が発生してくる。
「開き直り」の状況からは、現状からの脱却を図るために、「ポジティブ」な思考が機能し、前向きな言動へと繋がっていく。

ただ、ステ4患者のレリジエンスにおいては、ちょっとややこしい。それは、先に述べた通り「死期」が絡んでいるからである。健常者が経験するレジリエンスは、踏み出した先に「死」は具体的に存在していはいない。しかしながら、ステ4患者の場合、その先には「死」が存在しているため、図に示したように、一旦発生してしまった「不安」や「ストレス」から始まる一連の流れは、恒常的に存在することになるのである。

「健常者(=数値上健康な人々)」向けに作られたフレームワークを使って、ステ4患者向けに活用して、もっとビジブルにしていかなければ。

<ステ4患者のPatient Journey>

ジャーニー

上図は、ステ4患者のPatient Juarneyを表している。告白とは、「関係者へ自分がステ4患者で死期が間近にあることを話す」ということを意味している。ステ4患者は、告知を受けた後、自分の状況が影響を直接及ぼす家族、それから、会社等のコミュニティーに対してどのような変化が起こるのかを考える。そして、自分で決めたタイミングで告白を行うのである。
告白を行う前までは、死期と共生している自分の存在をどのように感じるのか?という不安が優先してしまっており、気持ちは最悪な状況となっている。しかし、告白によって周囲の人たちのリアクションを頼りに、気持ちが楽になっていく。暖かい協力的な言葉や行動に助けられながら、「よし、頑張ろう」という気持ちが湧いてくる為、「嬉しい」方向へと「あげあげ」になるのである。

受け入れられたと自分で思っている状態が、長く続くことによって、今ある状態が「日常化」する。「日常化」することで、健常者であった時と同じ時間を過ごすことが可能となり、気持ちも健常者だった時と同じように「普通」の状態となる。ただ、それとは別にステ4患者の世界では、様々な治療や状態の人が存在しており、自分の行く末に対して一抹の不安が存在するようなってくる。そうなると、日常化した中で、自分の状況に対するコミュニケーションが減少していることに対する、不安が顕在化してくるのである。

社会においては、変化を続けることで発展していくことが多い。特に、民間企業であれば、市場環境の変化に伴い、企業も変化を起こす必要があるため、ステ4患者の置かれている状況にも、当然ながら変化が生じる。
変化が生じることによって、ステ4患者はPatient Juarneyが逆戻りしてしまうのである。そして、また告知からスタートしなければならないのである。


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