隙間は埋めたい。

過食が始まったのは小学生の頃。学校に行かなくなって、世界が家の中だけになった頃。母が好きで、ずっと母といたくて、母に少しでも多く私を見て欲しかった。母は多分そんな私を持て余していて、素直で真っ直ぐな姉の方が好きなんだと感じていた。一番欲しかった物が手に入らない事に、いま思い返せば小さな失望感があって、ご飯を取り敢えず詰め込んだ。これは私に許された母からの1つの愛だったからだと思う。



学校に行かずずっと家で過ごしていたので、昔から活動量が少なくていわゆる肥満児だった。誰からも愛されない私、を象徴するようにみんなとは違う醜い姿なのが恥ずかしかった。今でもその感覚は変わらず、外にでて他人と接するのが怖い。太る大元の原因はやはりカロリーオーバーなので、過食を止めなければ変われない。20代のうちにおしゃれを目一杯楽しみたくて、歳も開けたし、今年こそ痩せたい。過食について少しだけ調べた。衝動を無くすのではなくて、衝動が湧いてきても選択しない事。とある記事で読んで、腑に落ちた。いま唯一続けている事と少し被るからだった。


記事は、凄く省略してまとめると、衝動は現実ではないから、しなければ問題はない。という事だった。もう少し分かりやすく言うと、衝動は、頭の中で起こっている事で、現実には何も反映されていない。行動しないだけで問題行動にはならず、その場しのぎではあるが結果として問題は起こっていないといえる。なのだそうだ。


衝動をコントロールするとは、衝動を無くす事ではなく、衝動がありながらそれを行動に移さない事なのだと記してあった。それだけ聞くと衝動による苦しさには触れられていなかったので厳しいというか、とても難題の様に思えるが、正直でいいなと思った。こんがらがった頭が整頓された気がした。


衝動を消す事は本当に難しいのだと思う。それは最後の最後に、しかも必ずできるという保証もなく、たまたま運よく環境や治療法、途方もない試行錯誤の先に辿りつける人がいるかも知れないと言うような、事象としてないとは言い切れないという結果論でしかない。ならば、それを目指すよりも衝動はありつつも、せめて行動しない。という選択を変える意識は、現実的な捉え方だと思えた。少なくとも実現可能な気がした。



病気になって、なかなか良くならずに心が折れそうになる時、希死念慮に囚われてとうしようも無くなった時、“取り敢えず、死なない”せめてこれだけはと繋ぎ止めている。どれだけ衝動に駆られてもただ行動せずにじっと耐える。衝動が過ぎ去れば死ななかった私が残る。それだけでいい。と言い聞かせている。それが時にどれだけ空しくても、滑稽でも。


そうしてその場しのぎを何度も繰り返しきた今の私だから、過食衝動も同じものかと、イメージしやすかった。湧いてくるのは仕方がない。湧いてきた時にどう対処するかで、まぁ正直、自殺衝動を抑える為に過食に走る時も多々あるので、私の場合はもう少し難しいかも知れないけれど、それでも対処法のひとつとして有効かなと思えた。



空いた穴は色んなもので埋まっていて、それは重いほど底に溜まる。悲しみや苦しみがヘドロみたいにこびり付いて、注がれた水は濁る。なかなか流れないそれのせいでいつも憂鬱が心に住む。気を紛らわせるために必死にご飯を詰め込んで、重い体で生きる。気分が晴れるのがどこかで怖いのかも知れない。憂鬱や、過食が無くなったら、空いた穴が残る。その寂しさを認めてあげられない。欲しかった愛情がもらえなかった事実を感覚として味わうのは辛い。けれど本当の意味で自分を認めるのはそういう事かもしれない。



いつか空いた穴に注がれた水が、美しく思えますように。飲み干して消化して体の一部になっても、またすぐに当たり前に満たされるものだと思えますように。



今日は心が濁ってたのでまとまらずに時間がかかってしまったけれど、ぐしゃぐしゃの頭が少しスッキリしたので眠れるといいな。また書きます。おやすみなさい。



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