真夜中のナースコール~男たちの天職~
私はかつて、精神科病院の看護師という仕事柄、いろんな人の悩みや不安を聞くことが多かったのですが、その中でも入院患者さんは、夜になると特に不安が強くなる傾向があったように思います。
その方は癌の末期でしたが、違法薬物の後遺症から、精神科病院に入院されていました。
入院した頃は、濃いめの顔に髭を蓄え、痩せ型ですが長身で、背中の和彫りの「登り鯉」が、未だに往年の活躍ぶりを感じさせる方でした。
何でも、そちらの世界では有名な方だったらしく、その業界の専門誌(8.9.3雑誌?)にも、彼のインタビュー特集が組まれたことがあったそうです。
そんな彼でも、今は車いすに紙オムツ、食事はミキサー食で、深夜には「眠れない…」と頻回に訴え、ナースコールが鳴り止みませんでした。
その日も彼は、真夜中にナースコールで、「先生、眠れませんわ~」と弱々しく訴えて来られました。
私は追加眠剤と呼ばれる睡眠薬の頓服をベッドサイドに持参します。
「眠れませんか?」
「ああ、眠れん…」
「先生やから言うけどな、実はな先生、俺、人、5.6.4とんねん、同業者やけどな…二人…この5.6.4は、運よく今までパクられへんかったから…」
私は別に驚きません。その病棟には、他にも殺人を犯した方はおられましたし、何よりご本人が、薬物後遺症で本当のことを話されているかわかりません。また本当だったとしても、彼はもう、余命いくばくもありません。問い詰めるのも、ナンセンスな話しです。
「だから俺、怖いんよ、あいつらがよ、向こう(あの世)で待ってるような気がして…もうこんな身体になってもうたし、次は俺が8られる番かな?」
どうやら彼はその恐怖(不安)によって、眠ることができないと、私は判断しました。
もちろん、頓服の力を使って眠りに落ちていただくのは容易ですが、それは不安を除去して、快適な睡眠を提供したことになるでしょうか?
いや、ごめんなさい。そんな高尚な事など、その時には考えてなかったかもしれません。ほぼとっさに切り返したと思います。
「○○さん、伝説の8.9.3なんでしょう?何が怖いんですか?向こうも4ぬ程の傷口があの世で治ったんやったら、○○さんの不自由な身体もあの世で治っとるでしょう?そしたら、待ち構えとっても怖くないでしょう?もう一回5.6.4たったらいいだけじゃないですか?」
私のとっさの切り返しに反応して、彼は明らかに一瞬で、何らかの自信を取り戻した様でした。
その眼光は鋭く光り始め、弱々しかったその声色は、急にドスの効いた8.9.3そのものを感じさせる堂々としたものに変化しました。
「ホンマや、気付かんかったわ~、身体が元に戻るんか~、もう一回5.6.4たらええだけやったら、何も問題ない!兄ちゃん、ありがとう。」
さっきまで「先生」でしたが、「兄ちゃん」に変わりました。でも、彼の不安が取り除けたのなら、私の方も何も問題はありません。
「もう眠れそうですか?」
「当たり前や、今日はぐっすりやで!」
或いは、私の対応が彼のテンションを不用意に上げてしまい、このまま全不眠(一晩中眠らない)に陥るのでは?と案じつつ、部屋を消灯すると、暫く私は彼に気付かれないように、その部屋前に立ち、入眠確認を行いました。
しかし彼は、思いのほか早く眠りに落ちました。その夜、彼は熟睡し、朝までナースコールを鳴らすことはありませんでした。
私は看護記録にありのまま書き入れ…いや、簡素化して書き入れました。
「ナースコールにて訪室、ベッドサイドにて入眠を促す。その後、早々に入眠。追加眠剤の希望なし。」と…
さすがに看護記録に、伝説の8.9.3とか、「5.6.4たらいい」など書き込めませんよね?上司や同僚、何より看護学生が見たら驚くでしょう。
そして、その後も私の夜勤の都度、真夜中に彼は同じ内容の訴えでナースコールをして来るのですが、今回と全く同じように、私は繰り返し返答していたのです。
すると、カルテの熱計表の頓服使用欄には、私の夜勤の時だけ、追加眠剤の欄が空白になっており、「夜間良眠」の記載が入りました。
口さがない同僚からは、「深夜のあの鳴り続けるナースコールを体験しないなんて、自分運いいな~」なんて言われましたが、まあ誇れる看護内容でもありませんし、「運がいい」くらいにしておきましょうかね?
でも、運がいい仕事の裏側には、案外「天職」を感じさせるような、とっさや一瞬の事でも、結果に繋がる技術があると、私は思ってますけどね。