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大学院試験~哲学エンジニアのライフヒストリー(5)~

連載を開始したライフヒストリーの執筆であるが、「虚無の淵に立っている」が一つのキーワードとなっている。

不安と虚無感に駆り立てられながら、その自らの不安経験にフォーカスした論文を書いた。ハイデガーの『存在と時間』にある不安と、そこから導かれる先駆的決意性に至る論考の過程をたどる予定だったのが、自らの不安経験に引っ張られてしまい、なぜか西谷啓治のニヒリズム論にまで話が広がり、野心作のつもりが惨敗の論文になってしまった。

哲学研究者として生きていくことができればと願って大学院に進学しようとする者としては、学術的なフォーマットに従って論文を執筆すべきであるのに、それにマッチしない論文を抱えて大学院試験に臨むこととなった。

不安の正体を解明して論文を書いて不安を癒そうとしていたのだが、直接的に不安解消に効いたのはドイツ語の勉強だった。『存在と時間』のドイツ語原典を文法的に解析することの方が不安を紛らわせるのに役立った。そして、後で聞くところによると、それが大学院試験を乗り越えるのに最も役立ったそうだ。

大学の指導教官の出身であった京都大学大学院の研究室と、ハイデガーの研究者が指導教官を務める九州大学大学院の研究室に志願した。京都と福岡に旅行できるのが楽しみでもあった。あんなに不安に苛まされていたのに、大学院に進んで社会人としてのキャリア選択に縛りをかけることへの不安がないのが、バブル経済の余韻が残る何とも呑気な時代の子だったのかもしれない。若者はいつの時代も時代の子である。

97年の2月に大学院試験を受けたが、一般的な進路選択をするのであれば、97年の4月入社が最後のチャンスであった。ちょうどその4月に消費税が5%に増税されて、そこからアジア通貨危機も相俟って日本経済は転落の一途をたどることとなり、いわゆる就職氷河期が本格化することとなる。

大学院試験を受けるために、尼崎の阪神電車武庫川駅の近くにある親戚の伯父の居宅に数日間泊めてもらっていた。確かお勤めの会社の寮だったはずだ。阪神淡路大震災が95年の3月だったわけで、甚大な被害を受けたと思っていた西宮寄りの尼崎の復興が早いことに大変驚いた記憶がある。

阪神武庫川駅(Googleストリートビューより):この降り口から伯父の居宅へ向かった

そこから阪神電車に乗って梅田まで出て、地下鉄御堂筋線で淀屋橋まで出て、最後に京阪電車に乗って終点の出町柳で降りて京都大学まで歩いて試験を受けにいったのだ。今にして思えば、梅田から京橋まで環状線に乗って、京橋から京阪電車に乗った方が早かったかもと思わなくもないが、それにしても結構遠い道のりである。しかし、乗り鉄鉄分がある身としては、それも不安の解消として楽しかったのだ。

一次試験は哲学史と語学の試験であったように記憶している。これをクリアした者だけが二次試験の面接に進むことができる。数日で一次試験の結果が出て、二次試験を受けた。面接では後の指導教官から卒業論文について手厳しい論評を受けて、また一次試験結果の出来について自己診断を求められて、それについて「まずまずでは」と回答すると、その自己診断の甘さについてもまた手厳しいコメントを受けた。

これはあかんわと次の福岡への旅行を楽しみにしていたが、二次試験の結果はなぜか合格であった。後に聞くところでは、将来性を見込まれての合格だったとのことだ。また、大学院重点化が本格化した頃であったことも幸いしたのであろう。いわゆる学歴ロンダリングが取りざたされることがあるが、私はある意味その走りだったのであろう。さすがにロンダリングを目的としたことはなかったが、それまでは外部から京都大学大学院に進むためには2年の浪人(業界的には研究生)を経ることが当然だったと側聞するので、時代の影響を受けたことは間違いない。

それが好影響だったのか、悪影響だったのかは今にしても判断が難しいところだ。明らかに両方の影響を受けており、功罪相半ばするところであろう。その辺りは今後のライフヒストリーで詳述する。

今にして思えば、次に控えていた九州大学大学院にも挑戦しても良かったのではとも思わなくはない。福岡は良い土地だし、指導教官もハイデガーの専門家であった。後述するが、福岡県は因縁の地で、何と1年後に3ヶ月ほど寓居することとなる。

ただ、さすがに10日ほど緊張して過ごしたこともあり極度に疲れていたこともあったので、居候先の伯父に、富山からお礼に持参した銀盤酒造の「米の芯」で祝福してもらい金沢に帰ることとなった。

帰りのサンダーバードはどこから乗ったのかよく覚えていないのだが、京都から金沢までのサンダーバードはとても早くて、2時間強で到着するのだ。これは今も同じくらいなので、25年前はとても早く感じた。これもいよいよ、敦賀止まりではあるが北陸新幹線に置き換わる。

金沢に帰ってきてからは、なぜか手厳しい酷評を受ける。卒論の発表会でも指導教官が不出来な教え子によって恥をかかされたことへの腹いせもあったのかもしれないが厳しく言われたし、仲間からの目も、なぜこんな卒論で大学院に進学できるのかと厳しかった。

また、私は教育学部に属していたのだが、文学部の哲学の文献購読(ヒュームの『人性論』を読んでいた)の授業にも出ていた恩もあってお世話になった教官に報告に行ったら、「君が行けるようであればこの世の末だね」と、これまた手厳しいコメントを頂いた。

アカデミズムの世界はいつの時代もこんなものかもしれないが、世慣れぬ若者であった私はまともに受け止めてしまい、のちのうつ病体験につながることとなる。余計なプレッシャーを抱えて京都に旅立つこととなる。


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