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木村花さんの事件の直後に起きた、「箕輪厚介さんの炎上」について思うこと。

私たちは木村花さんから何を学んだのか?

箕輪厚介さんが炎上しています。多くの人がSNSで様々な言葉を書いており、その中には辛辣な言葉も目立ちます。

しかし、その数日前には木村花さんの死が注目されており、多くの人はこう言っていたはずです。「何でこんなひどい言葉が飛び交っていたんだ。これはまるでネット上のリンチだ。花さんが可哀想だ。」と。そして、2020年5月29日、箕輪さんはこの言葉を残したまま、沈黙を保っています。

木村花さんが亡くなってから、どれだけの時間が過ぎたと言うのでしょう。たった数日の中で、私たちはあの死を忘れ、同じことを繰り返すのでしょうか。そのことを考えると、とても苦しい気持ちになってしまいます。

さて、最初に言っておきます。この記事は、箕輪さんのただのファンである私が、「私自身の葛藤」を率直に言葉にしたものですので、箕輪さんを少しでも守りたいと言う意思はあります。

ですが、今回告発した女性に対しての攻撃は一切意図していません。なぜなら、その女性のことをそもそもよく知らないからです。ですので、この件についてはコメントを控えた上で、その女性に対しての話はこの記事で書きたいことの範疇外だと捉えてください。

また、箕輪編集室には属したことはありませんが、箕輪大陸と言う映画の小規模スポンサーをしたことはあります。「なんか面白そう」、と思ったのが理由で、箕輪さんとはその時に、少しだけ言葉を交わした記憶はあります。その位の関係値です。

誰かを守ろうとする行為がその相手先を批判するものではない、と言う「単純な二元論の否定」にご理解をいただける方、「世の中の構造は単純ではないと言うことに賛成だと思える方」はここから先の文章を読み進めてください。

「ペンは剣よりも強し」民主化されたペンの責任。

「ペンは剣よりも強し」、と言う言葉を17世期のフランス人政治家のリシュリーは残しています。この意味について多くの人は「言論の力は武力よりも強いのだ」、と言う意味として理解しているのではないか、と思います。

しかし、そのようなイメージと元の意味はかなり異なっています。この言葉は「リシュリ―あるいは策略(Richelieu; Or the Conspiracy)」(1839年)と言う演劇の中で登場した言葉です。元の意味は、ペンとは権力を指していました。権力があるとサインができ、サインが出来ると命令が出来るぞ、そのペンが自分にはあるのだから、剣を持つ人だったとしても、牢屋に入れたり処刑することが出来るんだぞ、と言う意味です。

原義を辿ると「ペン」は権力の比喩だったわけです。国民の政治参加を前提とする民主主義において、立法・行政・司法の3つの権力と並んで、マスコミは第4の権力などと呼ばれています。何か情報を伝える、何か情報を書くと言うのは、それだけ強烈なことでしたし、同時に責任も大きいものです。そして、2020年のSNS全盛時代の現代は、極一部の権力者しか持っていなかったペンが全員の手に配られている状態になりました。

ではここで考えてみましょう。剣よりも強いものを攻撃の道具に使ったらどうなるでしょうか?当たり前のように人は傷つくし、最悪の場合、死んでしまいます。そしてそれが実際に起きてしまったのが木村花さんの事件でした。

「私の場合は誹謗中傷をしているのではなく、批判だ」については、けんすうさんの話が的確。

一方で多くの人はこうも考えているのではないでしょうか。自分たちは、誹謗中傷をしているわけではない。批判だ、と。それについてはけんすうさんのこの記事が参考になります。

「まともな批判が、大量に来てしまう」という量の問題だと思います。

どういうことかとざっくり書くと「1人1人の批判は適切で、批判の範囲内であり、問題がなかったとしても、批判の量が多すぎると、受ける側のキャパシティが超えてしまう」ということが起こっているということです。

影響力を持つ個人の場合、スルーできない規模の数がずっと鳴り止まない状態になっています。この状態がどう言う状態か、についてはダルビッシュ有さんのつぶやきが可視化してくれています。

こんな状態になります。何よりもこの状態で大変なのが、日常生活の象徴であるスマホと連動してしまうと言うことです。誰かにとっては非日常の極一部の時間として投稿された批判が、当事者にとっては24h365日延々と続く日常の時間で繰り返されるところにも大きな違いがあります。24hと言うのは比喩ではなく、延々と続きます。

どこかの部屋に閉じ込められて、嫌な言葉を延々と聞かされるところを想像してみてください。その想像をするだけで身震いしませんか?私は怖いな、と怯えてしまいますし、おそらく気が狂ってしまいます。私がこの記事を書こうと思い立った出発点はまさにここにありました。

身震いしながらどうにか一助になれないだろうか、と考える弱き私たち。

そんな風に恐ろしい状況を想像したあと、ふと考えることがあります。こんな風に大変な思いをしているはずの箕輪さんを助けることはできないものだろうか、と。でも、そうなったときの「助け方」は非常に難しい。火事が目の前で起きている時に、突っ込めば必ず身に危険が及びます。しかし、みてみぬふりをして、また歴史が繰り返した時、果たして自分はどんな気持ちになるんだろうか、と言うことも同時に想像しました。

私にも大切な家族や友人がいたりします。そこに被害がおよぶことを想像すると、二の足を踏む。単純に嫌なことを言われるのも嫌だ。だから、どうにかして一助になりたいけど、世論を瞬く間に変えるような力がない自分の弱さに落ち込む。そして、もちろん、相手の女性に対する批判をしたいわけではないので、その言語化をするのには、とても苦労が伴う。純粋な気持ちの言語化がこんなにも細い綱渡りのように思えることに、私自身驚きました。

告白してしまえば、これが私自身の葛藤でした。ですが、そんな「声には出せない弱き応援の気持ち」を持っている人は実は少なくはないのではないか。そんな風に私には思えてならないのです。書き込み件数こそ少なかったとしても、その無言の先には静かな応援の気持ちが眠っていることだってあると私は考えています。

そして、繰り返しますが、それは箕輪さんを守りたい、と言う純粋な思いであって、相手方を批判するものでは一切ないものです。ただ、社会の安穏無事を祈るものであり、その対象には箕輪さんはもちろん、相手方の女性も含まれるということなのです。

「ただ安穏を願う」気持ちが躊躇いのROMとしてモヤモヤしたまま、言語化出来ない悔しさ。少なくない人数の人がこの問題に震えているように私には思えました。

誰かが密かに持っている「優しさ」は構造的に目立たない。

この記事で伝えたいことはまさにこの事実と構造についてです。「声には出せない弱き応援の気持ち」を持っている人が多かったとしても、その人たちの言葉は、前述した構造を持っているために、ネット上では掲載されづらい。

そのため、大量の批判はどうしても止まらない。「建物の窓が壊れているのを放置すると、誰も注意を払っていないという象徴になり、やがて他の窓もまもなく全て壊される」と言う割れ窓理論がありますが、それと同じように加速していく性質すらあります。

そんな時、加速していく群れた批判は、命を奪いうるほどの力になります。では「声には出せない弱き応援の気持ち」はどのように発動すればいいのでしょうか。

よくあるケースは直接会った時に優しさを伝えるやり方です。プライベートの状態であれば、安全ですので、ほとんどの人はその優しさを初めて吐露することに成功します。「あの炎上について、私はこう思ってたよ!応援していたんだよ!」みたいな言葉をかけることも出来るでしょう。

それによって、炎上の当事者はどう思うのでしょうか。当事者からの景色は少し違って見えるかもしれません。リアルで会えば多くの人が優しい言葉をかけてくれる一方で、ネットを見れば批判が多い状態に見えるからです。そうだとすれば、ネットの方が本音で、リアルの方は建前なんじゃないか。そんな風に思ってもおかしくないのではないでしょうか。その結果、疑心暗鬼になり、人は壊れる可能性があります。(私は自分自身が弱い分、人の弱い心の部分にも敏感なのですね…)

炎上の最中、一本の弱き風鈴が出来ることはあるのか?

誰かが密かに持っている「優しさ」は構造的に目立たない上に、安全な場所で話したとしても建前だと思われるリスクすらあります。そこで、この記事では、勇気を振り絞って、私自身の「葛藤の構造」を明確にすることに挑戦してみました。

この構造を明確にすることによって、「声には出せない弱き応援の気持ち」を持った人たちが目立たないだけで、少なからず存在していることを言語化出来ていれば幸いです。この記事は「風鈴」のように細やかで弱いものかもしれませんが、そのかよわい風鈴の音色が夏の暑さを和らげるかもしれないと思っています。

もちろん、この記事にも、これまでの歴史が示すように、批判が殺到する可能性はあります。しかし、批判が殺到したとしても、その時私は、「声には出せない弱き応援の気持ち」に静かに耳を傾ける努力をしようと思います。そして、リスクがあったとしても個人的にファンな箕輪さんがどこかでこの文章が読むことで、そして今まさにこの長文を読んでくれたあなたが存在していることによって、社会の安穏に少しでも寄与できれば嬉しいなと言うのが今思っていることです。

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ここまでこの記事を読んでいただいたことに深く感謝します。箕輪さん、どうか死なないで、これからも素晴らしく面白い本をいっぱい世に出してください。才能ある挑戦者がより挑戦できる社会になることを僕は願っています。

箕輪さんと私は直接多くの話をしたわけではありませんが、箕輪さんが感受性豊かな人だと言うことはわかります。その感受性やスポンジのような吸収力を、社会を面白くすることに使ってくれることを願うばかりです。

これから梅雨の季節、そしてジメジメとした夏の暑い日々が来ます。どうか、お体にはご自愛ください。私は強い風が吹いても揺れながら元に戻り、どんな強風も爽やかで涼しげな音を奏でる風鈴に憧れています。今日も強風が吹きますが、チリリリンと音を奏でてまいりましょう。

窪田 望

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