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【第3回】 20歳、偶然の難民キャンプで現場を知った

 これまで2回お読みいただいた方は、本当にありがとうございます。今回初めてお読みになられる方は、もしご関心あれば、第2回もありますので、ぜひご覧ください。

 今回、全7回(くらい)の連続企画の第3回は、少しずつ国際協力の世界をのぞいていった私に訪れた最初の大きな出来事についてのお話です。まだまだ普通に大学生活を送っていながらも、きっとここがその先本格的に活動にのめり込んでいく分岐点になったんじゃないかと思っています。

大学2年生の夏、たまたまバングラデシュにいた時のこと

 今回は、タイトルにある難民キャンプのお話をしていこうと思っています。その当時、私は大学2年生、夏に誕生日を迎えて20歳になった頃でした。

 夏休みを利用して、1年生の時に続いて2年生の夏も先生の出張についていく計画を立てていました。ただ今回はちょっと背伸びをしたいという思いから(とにかく結果みたいなものが欲しかったんだと思います)、まず最初の2週間ほどを1人で過ごしてみることにしました。最初の1週間はインドに行き、その後バングラデシュ入りして先生と合流、という計画を立てました。

 旅は、内心非常にドキドキしながらも順調な滑り出しでした。バイト代をなんとか貯めた渡航費は決して余裕もなく、中国系のすごく安い飛行機を2回乗り継いでインドにつきました。インドでは、関心のままに見よう見まねでNGOを訪問させてもらってもらいました。今思えば、わけのわからない大学生が突然訪問したにも関わらず、温かく受け入れてくれた団体ばかりだったことにとても感謝しています。

 宿もできるだけ安いところを探し、食費もできる限り削りながらという日々を過ごしていました。安いのはとてもありがたい一方、部屋の謎の圧迫感(実際のスペースよりも狭く感じてなんとなくいにくかったり)や、その狭い部屋で異常に効きまくるエアコンなど、そういった感覚がいまだに残っています。まあでもそういうものかと受け入れて過ごすおおざっぱな性格は結構相性がよかったなと思っています。

とにかく未知の場所に一人で来ているということだけで意気揚々としていました。



 そんな形で日程も進んでいき、インドからそのままバングラデシュに向かいました。はじめてのバングラデシュ。到着してすぐに感じたのは、さまざまなにおいでした。人々から発せられるかぐわしい香り笑、車の中の芳香剤なのかなんなのかわからない独特の香りづけ、街の中でいたるところから発せられている調理のにおい、布に染みた独特のにおい。これらは今でもバングラデシュの独特のものとして僕の中にあり続けていて、記憶を一気に甦らせます。

 そんなこんなで初めての土地でわからないなりに日々を過ごしていました。毎日外に出る前に緊張しては、一つでもいいから何かを果たして戻ってこようと意気込む毎日でした。特に何か成果があったわけではないけれど、何かをしたという事実がほしかった日々だなと思います。

 こうして、すっかり数日がすぎていっていた頃でした。ふとネットのニュースを見ると、あるニュースが載っていました。それは、2017年8月25日にミャンマーでロヒンギャの武装グループが警察署等の襲撃を行い、それに対して軍が掃討作戦を始めているというものでした。私がこの出来事をきちんと把握したのは、おそらくもうすでに難民がバングラデシュに入り始めている時だったかと思います。ただ正直、すぐそこで起きていることではあるのですが、土地勘もなければ知識もない中で、あまり自分ごととして捉えられていない感覚がありました。その時は、自分がその後に難民の活動をするとは思ってはいませんでした。

 その難民キャンプでゆくゆく活動をすることになる最初のきっかけは先生の提案でした。今起きていることは重大かつ緊急のことであり、たまたまバングラデシュに居合わせたのだから、当初の予定を変更して難民キャンプに行くことにしませんかという趣旨でした。まさか自分がこのニュースになっているような出来事に直接関与するとは思っていないかったのもあり、驚きもありましたが、行ってみようと思いました。そして、先生との合流も無事果たし、急遽難民キャンプに向かうことになりました。

 難民キャンプはバングラデシュの最南部にあり、首都ダッカからはそれなりの距離があります。私たちは夜行バスで向かうことにしました。夜ご飯を食堂で食べてバスを待ちました。やがて出発時間が近づくと、明るくなりきらない黄色い街灯の下を歩き、バスに乗り込みました。途中別の場所にも寄りながら、いよいよ難民が越境している地域、コックス・バザールまでやってきました。

コックス・バザールにつくと、まずは現地NGOとの会議を行いました。今起きていること、逃れてきている人々の状況など、全体のキャッチアップを行いました。彼らとも話し合った結果、翌日に難民キャンプを訪問することとなりました。

海岸沿いの道の先には、全く違う世界が広がっていた

 コックス・バザールの宿から難民キャンプまでは、車で約1時間〜1時間半くらいかかったと思います。最初は、右手にずっと海岸線が広がる綺麗な景色でした。それもそのはず、このコックス・バザールのビーチは120kmほどの長さを誇るらしく、アジアで最も長いビーチなんだそうです。(当時はそれも全然知らなかったですが)

 しかし、だんだんとキャンプの地域に近づいていくと様子が変わってきました。徐々に道の両側に人が増えてきました。歩いている人、長い竹を運んでいる人、座っている人。さまざまでした。ガイドをしてくれたNGOの方がいうには、彼らがロヒンギャで、移動したり生活の場所を探している、ということでした。するとだんだんと景色も変わってきました。いわゆる難民キャンプの地域に入ったようでした。道の左には国境なき医師団の簡易医療所が建設され、道の右側には林の間に徐々にビニールシートの仮説スペースが増えてきます。


ビニールシートで作られた簡易シェルター
ナフ川の向こうには故郷、ミャンマーが広がる。

 小雨と湿気で手にじんわりと汗をかくような中、車を降りてキャンプへと向かうことになりました。すでに雨は降り続いていたようで、舗装されていない道は滑りやすい泥の状態になっていました。いつの間にかビニールシートの仮設住宅が目の前いっぱいに広がっており、混沌とした地に足を踏み入れていました。

涙を流す難民の母

 難民キャンプに到着した私は、インタビューの準備にかかりました。今回、この場所に来たのも、今何が起きているのか、ミャンマーで何があったのかの情報を集めることが目的でした。


複数のキャンプを歩きながら回る。たびたび雨に見舞われた(右が稲川) 



 現地のNGOスタッフのガイドに従いながら奥へ入っていくと、黒いビニールシートの下に身を寄せ合って座る子どもたちの姿が見えました。シートは腰の高さほどで、決して広いスペースとは言えません。かろうじてシートで雨をよけているような状態でした。近づくと、その中に母親もいることがわかりました。ガイドのサポートのもと、時間をいただいて話を聞かせてもらうことにしました。

 母親と5人の子どもがその場所で身を寄せていました。母親は、ミャンマーでの出来事を話し始めてくれました。親戚が殺されたこと、3日間ジャングルを歩いて越境してきたこと、知り合いもおらず、これからどうしていいかわからないこと。彼女は話しながら、静かに涙を流しました。

小雨が降るキャンプで、母親は涙ながらに自身の経験を語ってくれた

 その話を聞き、涙を見ながら、私はどうしていいのか全くわかりませんでした。それと同時に、この地にやってきて話を聞かせてもらっている自分自身に対する罪悪感も込み上げてきました。今、目の前の人に起きている苦しみに対して私は、日本という安全な地で暮らし、今日もまた宿に戻ればベッドがあり、ご飯だって注文すればいつでも食べられるという環境にいる対比に耐えられない感覚になりました。経験を語ってくれた母親にお礼を告げ、その後もインタビューを続けましたが、どうしてもこの感覚がずっと付き纏い、なんとも言えない暗さを抱えながら過ごしました。

知った責任を果たしたい

 調査を終え、前半の意気揚々とした感じとは全く異なった気分で過ごす日々もすぐに過ぎていき、だんだんと帰国も迫ってきました。当時は大量流入が起きてすぐの時点でしたから、ロヒンギャキャンプを訪れた日本人はまだ限られていました。

 現場に行き、知った責任が私にはあるのではないか。特に、涙を流してまだ話をしてくれた人々の苦しみに対して、そのまま何もしないのはあまりに耐えられませんでした。心境を正直に振り返っていうならば、究極は利己的だったのかもしれません。もしかしたら誰かの苦しみが緩和されることをしているように見えて、自分の苦しみから解放されたかったのかもしれません。

 そこで、バングラデシュに滞在している間には食糧支援をすることを決め、資金を集める準備を始めました。コックス・バザールから首都ダッカに戻るバスではパソコンで文章を作りながら、帰国までに発信をはじめました。

 ちなみに、帰国の途は非常に色々ありまして、中国で乗り継ぎの飛行機を逃して、二日で帰る予定が四日もかかるアクシデントに見舞われました。離陸が遅れたことで、着陸する頃にはすでに乗り継ぎの飛行機が離陸しているという状態で、北京でパフォーマンス的にキレ散らかして航空券や宿を交渉しました。
 結果的には航空会社の職員用の宿に泊まれることになり、結構大きな部屋で快適だったので、まあこれはこれで悪くなかったという記憶に簡単に変わりました。そんな日々を過ごしながら、中国でもオンラインで日本側の協力者と連絡をとりながら、活動の準備を進めていきました。

 帰国後は報告会を何度も行い、新聞やテレビの力も借りて活動を広げていきました。結局、80万円ほどのご支援をいただき、なんとか現地に食料を届けることができました。それで自分の責任を果たせたとは思えなかったものの、それでもひとつ形にして現地に届けられたことはよかったと思っています。

責任を果たしたいと思いにかられ、さまざまな場所で報告会を行った

 こうして、現地での出来事と出会いに大きく心を揺さぶられ、活動という形に自然と移っていくことになりました。その後はロヒンギャに関する論文やレポートも読むようになり、関心は非常に大きくなっていきました。そのうち、もう少し現地にいて経験を積み、文化や社会の面からしっかりと理解したい。できれば言葉もできるようになり、活動もいろんな形でできるようになりたいという気持ちで、長期でバングラデシュに住むことに関心がむき始めました。

次回予告:1年間バングラデシュへ。正直苦しいことばかりだった。

 2年生の夏休みの経験は、その後の私の関心と行動に大きな影響を与えました。帰国後、バングラデシュに住むことに関心を持ち始めたものの、10月からは再び大学が始まり、その思いを持ちながらもこれまで通り授業を受ける日々を送っていました。

 そんな秋のある日、今度は日本で新たな出会いがやってきました。そうして、あれよあれよで春にはバングラデシュに飛び立つことになるのでした。

ここまでお読みいただきありがとうございました。また次回も読んでくだされば嬉しいです。

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