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<最終回>”ジュマ・ネット”で挑戦していく理由

 最終回までなんとか続いてきました。第6回では、現場にいるなかで思い知ることになった活動の難しさ、紛争がもつジレンマを書かせていただきました。
 そしてラストの今回は、ではなぜ活動を続けていこうと思っているのか、という僕の心に関してフォーカスして区切りにしていきます。


頭で描く理想の姿と、現場でどうしようもなく突き動かされる心

 頭では、こういう状態になったらいいとか、こういう紛争解決のモデルがあるとか、この政党はこう言っているからとか色々考えます。それは僕の関心があることでもあり、やりたいことであることに変わりありません。

 ただ思い返せば、どうしようもない気持ちになるのはやっぱり現場でした。私は、初めて18歳でインドを訪れてからせいぜい8年くらいしか現場は見たことがありません。バングラデシュに住んでいたのも1年程度です。それでも、これまでフィールドで出会った忘れられない人が何人かいます。
 
 きょうはその一人を紹介させていただき、なぜ活動をしていくのだろうということを自問自答しながら書いてみたいと思います。

同い年のジェシー。職業は、この間まで看護師。


 2022年、インド・ミゾラム州。

 湿気と肌を焼くような日差しを覚悟していた私は、飛行機を降りるとまさかの気候に拍子抜けしました。さっと吹き抜ける風に一面の緑。湿気をまとった独特の重い空気は平野部に置いてきたようでした。

ミゾラム州はどこまでも山岳がつづく

 ミゾラム州は、インドのいわば奥地です。果てまで続くような山岳地帯で、標高は平均1,000mほど。

 空気とは裏腹に、アクセスはそれほど爽やかではありませんでした。日本から国際線を乗り継ぎ、コルカタ(カルカッタ)へ。そこから国内線に乗り換え、1時間〜1時間半ほどのフライトで向かいます。さらに活動地へは、車で12時間ほどかかります。


数時間もすると、舗道はすっかりなくなってしまう

 さすがにしんどい道だなと思いながら山道をなんとか越えやってきたのは、インドとミャンマーの国境地帯でした。たった数百メートル先は、ミャンマー。国も違えば、人々が背負う運命も違います。

 私がこの地を訪れたのは、ご存知の通りミャンマーの政変に起因しています。ミャンマーの各所で戦闘が発生する中で、3万人ともいわれる人々が山を越え、川をわたりインドに逃れていました。避難民の中には、3日間あるいてジャングルを越えた者もいました。

国境の街。橋の向こうはミャンマー。

 ジュマ・ネットはこの年、インドとミャンマーの国境地帯に滞在する避難民に緊急支援を実施することを決めました。インド側の状況はベールに包まれており、国際機関もほとんどアクセスしていない地域だったからでした。また、主な活動地であるチッタゴン丘陵は国こそ違えど隣接しています。民族的な広がりにも共通性があり、現地社会への貢献ができるのではないかと考え活動を決めました。

現地新聞にて報道された活動の様子

 今回の訪問は初の活動地ということもあり、まずはその地域や暮らしを教えてもらうためにやってきたのでした。そのため、到着した翌朝から早速ヒアリングを始めました。

インド・ミャンマー国境付近の村

 避難民からもたくさん話を聞かせていただきました。ローカルの方達ともお話をしました。村のおじいちゃん、村長、ジャーナリスト、さまざまな方達と接する中で、なんとか地域の全体像を掴もうと試みていました。

 そんな時に出会ったのが、ジェシーです。それは、バタバタとヒアリングをしていた2日目の朝のことでした。

 最初は、ジェシーの母親に声をかけられました。ちょうど食糧支援を直前にしていたこともあり、そのお礼がしたいということでした。まさかそんな言葉をかけられるとは思ってもいなかったので驚いていると、"住居"に招待をしてくれました。

 朝から快晴で太陽がジリジリと照ってきたタイミングだったので、日陰に入れるのはありがたいなと思いながらお邪魔しました。部屋に入ると、母親はさまざまな話をしてくれました。

 私たちは一番早くこの村にやってきたこと、住んでいたミャンマーの村は最も被害が深刻な場所の一つであることなど、少し遠慮がちに、でも次々と話してくれます。

 そんな時間を過ごしていると、部屋の奥で一人の女性が何か準備をしていました。しばらくすると、彼女はお茶とお菓子を取り揃えていたことがわかりました。それは、私とパートナー団体の職員に振る舞うために準備してくれたものでした。

 命を守るために長い道を歩き、なんとか逃れてきた家族にお茶やお菓子を振る舞わせてしまっていることに申し訳ない…。でもその申し訳なさを表明することは、せっかく振る舞ってくれている相手にもっと失礼になってしまうんじゃないか…。迷いながらも、私は笑顔でいただくことにしました。

振る舞ってくれたお茶とお菓子

 すると、母親はそのお茶とお菓子を準備してくれた彼女の紹介を始めました。そして、彼女自身も自分のことを教えてくれました。

ジェシー、25歳。ミャンマーでは看護師だったけれど、逃れてきてからは何もすることがない。一日中、家にいるだけ。

 静かだけれど、いろんな響きを持った言葉でした。そして、静かに床に座りました。

 今もあの瞬間を覚えています。

 私は、ジェシーと同い年でした。同じ年に生まれ、同じ時間を生きてきました。違うと言えば、生まれた場所がちょっと5,000kmくらい離れているだけです。

 しかし、置かれている今の状況はこれほどまで違うということにどうしても心が整理できませんでした。ジェシーもミャンマーではきっと看護師として働き、いきいきと生きていたんじゃないか。でも突然それは終わりを告げて、今日は難民として生きていくことになる。

 もちろん緊急支援活動を行う者の視点としては、彼女は難民であることに変わりありません。しかし、難民という肩書きではあまりに収まりきらないその人生を想像せざるを得ませんでした。

 それは哀れみや不平等への罪悪感という感情とも違い、同じ時間を生きてきたこの友にに何か貢献したい、という気持ちが強かったと思います。いつの間にか12時間の山道の疲れは吹き飛んでいました。

 私は、普段はもっと大きく抽象的なことを考えることが好きだし、そういう変化こそ活動で目指したいものだと考えています。しかし、やっぱり温度があって、かけがえのないものであって、今ここにいる人に、心を動かされました。

 一周回って割と当たり前のことを書いているような気もしてきましたが、でもやっぱりこんな出会いがいくつかあり、今も続けているのかなと思っています。

おわりに

 ここまで7回にわたりつらつらと好き勝手に書いてきたnoteをここまで読んでくださりありがとうございます。

 私はまだ知らないことが多すぎるし、現場経験だって十分ではないし、スキルセットを身にまとっているとは到底言えません。しかし、続けていこうと思っています。スキルセットや知識を身につけていくことは必須ですが、怯まず歩いていこうと思っています。

よければこれからも、そんな歩みを見守ってくださったら嬉しいです。見守るだけでなく、道に入ってきていただいてめっちゃ歩き回っていただくのももちろん大歓迎です!笑

 最後、エピローグがわりにこれを紹介して終わりにしようと思います。
活動への思い、活動にのめり込んだきっかけなどを動画にしてもらいました。(撮影・編集してくださった山木さんありがとうございます…!)

こちらもぜひみていただければ嬉しいです。

 あらためて、これで全7回の回顧録は以上になります。最後まで読んでくださり本当にありがとうございました!

今年度はジュマ・ネットの活動をより広く深くnoteで紹介していきますので、またぜひ遊びにきてくだされば嬉しいです。


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