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"なぜ勉強するのか"という、問いについて

なぜ勉強するのか。
そのことについて深く考えることなく、今までの人生を過ごしてきた。

良い大学に入り、良い会社に入れるから。
おそらく人生に欠かせないモノだから。
みんなが勉強している学校にいるから。

何となく"勉強する"ことの必要性は感じながら生きてきた。
勉強することに苦手意識の少なかった私は尚更、なぜ"勉強するのか"という問いを改めても持つことがなかった。


春から長男は小学校へ進学する。
保育園にはなかった勉強する時間に日々向き合うことになる。

なぜ勉強するんだろう。

長男にいつか聞かれるかもしれない質問がふと自分自身の問いになる。

苫野一徳氏「教育の力」を読んで、腹に落ちる。

つまり公教育は、すべての子ども(人)が〈自由〉な存在たりうるよう、そのために必要な"力"ーわたしたちはこれを〈教養=力能〉と呼んでいますーを育むことで、各人の〈自由〉を実質的に保障するものなのです。
苫野一徳 「教育の力」

自分自身の〈自由〉を得るための学びだったのである。

今までいわゆる"勉強"として学んできた知識は、正直なところ殆ど覚えていない。

テストごとでの範囲や受験に向けて取り組んできたことが社会に出てから役に立ったと思ったことは、あまりない。

直接役に立った経験がないからこそ、子どもが進学するにあたり、なぜ我が子は"学校に通い学ぶのか"疑問に持つようになった。

知識が活かされた認識が薄く、詰め込み型の学習をしてきた自身としては、その時間を感性が育まれるような学びに変えていけないか。

教育について考える時、学校にいくことで一斉学習が進められ、個人の特性に合わせて学習が難しいのではないか。

本の中では学校での学びが「個別化」「協同化」していく必要性について触れられている。

一斉授業で進度によってはみ出てしまう子も、個別化や協同での学習が進むことで、学び合いによる教養を身につける。

いわゆる詰め込むのではなく、アクティブな学びに変わっていく。
海外に比べても日本は教育の転換に足を踏み込んだばかりのようだが、それでも実りある学び方への変化が出てくることを知り、少し安心した。

学び方も変化していく。その学びは何のためか。

各人の〈自由〉とは、一人ひとりが自分勝手に振る舞うことではない。他者の〈自由〉を認めつつも、自分自身も〈自由〉に生きる。(自由の相互承認)

そして自分が生きたいと思う人生を、できる限り自由に描き、掴み取っていく力である。

その為には学びが欠かせない。

自分が行きたい道に出会うためにも、学びは欠かせない。教養としての知識を得て、自分自身の得手不得手と向き合いながら自分を知る。

学習指導要領に沿った学校の学びは、全て吸収して力にしていかなくてはいけないとは思わない。

書籍の中でも触れられているように、勉強をかわしたり、他のことをしたりする余白が必要である。

強要される勉強ではなく、できるかぎり自分から学びとっていけるような“余裕"の下での学習が大切なのである。


なぜ勉強するのか。
漠然としていた問いに道筋ができた。

大人になった今も、これからも学び続けたいと思っている。
それは子ども達にきちんと"考え"を伝えられる人間でありたいし、自分の考えだけでない意見にも触れていたいと思いがある。

どうしても出来てしまう偏りを少しでも整えながら、世界を見れるようにしたい。
そして自分自身の人生を描けるようにしたい。そのためには学びは欠かせない。

学ぶことが嫌いじゃないのは、どこかでいつ休んでも良いと思っているし、嫌だったら方向性を整えていっていいという"余裕"を自分の中に作っているからだろう。

子どもがいつか勉強に疑問を持ったとき、ゆっくりとその意味について話せたらと思う。

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