おうちで読もう百人一首 第1作 藤原定家からはじめよう!
2020年春、金子とのざわが全部おうちで作っちゃったという百人一首の動画シリーズの第1作目に、百人一首の生みの親、藤原定家さんが登場する。動画制作のいきさつはおうちで読もう百人一首 格闘記をお読みください。
作者が自作を語る
のざわのパソコンには、何度も何度も書き直した脚本が、別名保存されてほぼ残っている。
当のわたくしは記憶があいまいになりつつあるが、最初は定家のこんな登場シーンを書いている。いわば、ボツ第1号ですな。
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いやぁどうもどうも、百人一首の作者が順番に登場するって聞いたんでね、真っ先に駆けつけましたよ。なんなら私が百首全部語ってもいいんですけどね。だって選んだの私ですから。
100人の作者がそれぞれ自分の歌を語るといっても、アポイントメントをとるの大変でしょ。え、みんな外出を自粛してるから、全員OK?ふーん。(2020/4/15バージョン)
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やっぱりボツだな。
さて、作者が一人称で自作を語るという設定は、自分自身をふりかえると、おそらく橋本治『桃尻語訳枕草子』(上下巻 河出書房新社 1987年 のちに河出文庫 全3冊)を、はじめて読んだときの衝撃と感激がずっと続いているからだと思われる。枕草子の本文を桃尻語訳し、筆者の清少納言がさらに桃尻語で解説するという構成の本。正直にうちあけると、わたくしそれまで「古典の現代語訳など邪道だ、原文で読めやあああ(激情)」と思っておりましたが、古典の文章を、説明的な言葉をほとんど付け足すことなく、そのまま自然な現代語に置き換えることが、手練れの手にかかれば可能なのだということを知ったのです。内容の深さとわかりやすさが同居する桃尻語解説もすばらしく、解説をするのが清少納言というのがいいなあと思ったの。
撰者はつらいよ
百人一首を編纂した藤原定家は、八十歳まで生きた。当時としては大変な長生きである。また、定家は二度、勅撰和歌集の撰者になっている。一度目は8番めの勅撰集「新古今和歌集」、この時は撰者が6人いて、後鳥羽院も積極的に口出ししたもよう。二度目は「新勅撰和歌集」、この時は定家が単独で撰者になった。一人だから好きにできるかというと、そうでもない。
勅撰和歌集の編纂はいわゆる国家プロジェクト、天皇や院の命令で撰集が開始される。勅撰集に和歌が選ばれることは歌人たちの悲願だった。たとえば『方丈記』の作者の鴨長明は、自分の和歌が7番めの勅撰集「千載和歌集」に一首選ばれたことを心から喜んでいる(無名抄)。ましてや、勅撰集の撰者になることは、当代実力ナンバー1歌人というお墨付きをもらうこと。とても名誉なことだった。定家はそれが二度。
「新古今和歌集」の完成後、承久三年(1221)に朝廷が幕府の討伐を計画して失敗し(承久の乱)、後鳥羽院は隠岐の島へ、子の順徳院は佐渡島へ流された。文暦二年(1235)、「新勅撰和歌集」がいよいよ完成するかというころ、朝廷は、後鳥羽院と順徳院に京にお戻りいただきたいのですがと幕府にお伺いをたてたが、執権北条泰時はそれを拒否する。朝廷は幕府の意向を忖度して、ほぼ出来上がっていた「新勅撰和歌集」から、後鳥羽院と順徳院の和歌や承久の乱に関わった人たちの歌を削除するよう命じ、定家は指示に従った。つらい。
百人一首の原型
定家の日記『明月記』文暦二年(1235)5月27日の条に、次のような記事がある。
私はもともと鑑賞に値するような文字は書けないが、嵯峨中院の襖障子に飾る色紙形は、依頼者の入道が強く求めるので、ひどく見苦しいがあえて自分で筆をとった。昔から今までの人の歌をそれぞれ一首、天智天皇から家隆、雅経までを書き送った。
今現在、『明月記』天暦二年の記事にいう色紙形の面影を残す(定家の自筆を巧みにまねた)色紙が30枚程度確認されている。江戸時代には一枚の値段が1000両を超えたんですって。(JapanKnowledge 世界大百科事典「小倉色紙」田村悦子による)
この色紙形は宇都宮頼綱の依頼で作られた。定家からみると、息子為家の妻の父という関係、最初は親族の依頼でした。
定家の自讃歌
百人一首は、代々の勅撰和歌集の歌の中から、まず百人の作者を選び、さらにそれらの作者の歌からそれぞれ一首を選んでいる。つまり”選び抜かれた”百首の和歌だ。
定家が選んだ自作歌は、
来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ
来ない人を
待つ、松帆の浦で
夕方、風が完全に止まっている時に
燃え上がるでもなく、じりじりと焦げていく藻塩のように、
私自身もあなたを思って身を焦がしつづけるのかしら
万葉集の長歌をつかう
定家の百人一首歌「来ぬ人を」の歌は、建保四年(1216)に催された内裏百番歌合に出詠されたが、そのころの歌人にとって、「まつほの浦」は聞きなれない地名だった。それもそのはず、定家は、笠金村が神亀三年(726)に詠んだ万葉集の長歌を参考にして「来ぬ人を」の歌を詠んだのだ。当時、万葉集の、特に長歌は、今ほど簡単に読むことができなかった。なぜなら、万葉集はすべて漢字(万葉仮名)で書かれているから。
名寸隅乃 船瀬従所見 淡路嶋 松帆乃浦尓 朝名芸尓 玉藻苅管 暮菜寸二 藻塩焼乍 海未通女 有跡者雖聞 見尓将去 余四能無者 大夫之 情者梨荷 手弱女乃 念多和美手 俳佪 吾者衣恋流 船梶雄名三(万葉集・巻六940)
これは読めないっ!
万葉集訓読の歴史
万葉集が編纂されたのが奈良時代。ひらがな、カタカナができる前のことである。覚えてくちずさんでいる和歌を、なんとか文字で残そうと、当時日本に入ってきた漢字を、熟語をそのまま、漢文の句法をつかって、漢字の音だけつかって、漢字を組み合わせて語句を新作して、などさまざまな工夫をこらし、それらをパズルのようにとりまぜて表記した。ものすごい努力だ。
ところが、ひらがなができた平安時代になると、こんどは万葉集が読めなくなった。漢学の第一人者菅原道真(845~903)も、さっぱりわからないと書き残している。表記のルールが複雑すぎる。それでもたくさんの人々がコツコツ万葉集の漢字パズルを解いて、訓みをつけていった。平安時代から鎌倉時代に書かれた万葉集の写本が残っているが、漢字(万葉仮名)の横に、苦労のあとの訓みが書かれている。
現代の私たちは、たくさんの人々の努力と苦労のリレーによって、万葉集を簡単に読めるようになった。
490年の時空を超えたラブレター
(神亀)三年丙寅秋九月十五日、播磨国印南野に行幸した時、笠金村が作った歌一首
名寸隅の 舟瀬ゆ見ゆる
淡路島 松帆の浦に
朝なぎに 玉藻刈りつつ
夕なぎに 藻塩焼きつつ
海人乙女 ありとは聞けど
見に行かむ よしのなければ
ますらをの 心はなしに
手弱女の 思ひたわみて
たもとほり 我はぞ恋ふる
舟楫を無み (万葉集・巻六940)
ーー現代語訳ーー
名寸隅の船着き場から見える
淡路島の松帆の浦に
朝、風が止む時にいつも藻を刈り
夕、風が止む時にいつも藻塩を焼く
若い娘がいると聞くが
逢いに行く手段が無いので
大夫のような勇敢な心はなくて
か弱い女のように思いあぐねて
行ったり来たり、私は恋しいのだ
船も梶も無いので
名寸隅は現在の兵庫県明石市の地名で、松帆の浦はその対岸の淡路島北端の地名である。笠金村は本州側にいて、対岸の淡路島を見ながら「彼女に逢いに行きたいけど行けない、だって船がないんだもの」となんとも煮え切らない態度だが、定家は、万葉集の長歌に詠まれている、松帆の浦の海人乙女に代わって、490年の時空をこえて、「今でも藻塩を焼きながら、あなたを思って身を焦がしています」と、返事の歌を送った。
タイムマシンがなくても、過去と交信できるのですね。素敵。
百人一首を楽しむのにオススメの一冊。
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