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三種の神器と先帝身投


三種の神器

三種の神器とは、天皇の位のしるしとして受け継がれている三つの宝物、八咫鏡(やたのかがみ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)・天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)のこと、『平家物語』では、内侍所ないしどころ神璽しんじ宝剣ほうけんと呼ばれています。

倶梨迦羅峠の合戦(1183年)で、木曾義仲を相手に惨敗を喫した平家一門は、義仲が、比叡山延暦寺を味方につけて都に迫っていることを知り、安徳天皇と三種の神器とともに都落(都から退避)します。平家一門は再起を図るため、かつての領地であった九州に行きますが追い返されてしまい、讃岐国八島(屋島)に拠点を置きました。

平家の都落のあと、後鳥羽天皇が、安徳天皇の次の帝に決まりましたが、皇位のしるしである三種の神器が都にはありません。

泣きわめく二位殿

後白河法皇は、三種の神器を返せば、一ノ谷の合戦(1184年)で生け捕りにされた平重衡しげひらをかえしてやろうという院宣を、屋島にいる平家に送ります。また当事者の重衡に命じて、母の二位殿(平時子)にあてて「内侍所」(ここは三種の神器すべてを指している?)を都に返すよう促す手紙を書かせました。

二位殿は、一門の人々が院宣にどう対応すべきかを相談している場で、重衡の手紙を顔に押し当て、「内侍所」を都に返してほしいと泣く泣く訴えますが、宗盛(二位殿の長男)は、世間に対してみっともない、頼朝に対しても体裁が悪い、重衡(二位殿の三男)かわいさのあまり、ほかの子どもたちや一門を見捨てるのですかなどと、反対します。ーーどうやら平家物語(覚一本)が設定している宗盛のキャラクターがあるようで、この場面の宗盛もグズグズと情けないですなあ。

二位殿はさらに言いつのります。

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「故入道におくれて後は、かた時も命生きてあるべしとも思はざりしかども、主上、かやうにいつとなく旅だたせ給ひたる御事の御心苦しさ、また、君をも御代にあらせ参らせばやなんど思ふゆゑにこそ、今までもながらへてありつれ。
 中将一ノ谷で生け捕りにせられぬと聞きし後は、肝たましひも身にそはず、いかにしてこの世にて今一度あひみるべきと思へども、夢にだにみえねば、いとど胸せきて湯水ものどへ入れられず。今このふみを見て後は、いよいよ思ひやりたる方もなし。中将世になきものと聞かば、われも同じ道におもむかんと思ふなり。二たびものを思はぬさきに、ただわれをうしなひ給へ」とてをめきさけび給へば・・・〈略〉  (巻十 請文)

 亡き清盛入道に先立たれてからは、ほんのわずかでも生きていようとは思わなかったけれど、帝が、いつまで続くのかわからない旅暮らしをなさっていることがお気の毒で、またもう一度、君を帝の位に戻してさしあげたいと思うから、ここまで生きながらえてきたのです。
 重衡が一ノ谷で生け捕りにされてしまったと聞いてから、魂が抜けたようで、なんとかして現世でもういちど会いたいと思うけれど、夢にさえ出て来てくれないので、ますます胸が苦しくなって湯水も喉をとおらない。いまこの手紙を読んで、ますます心が塞いでしまいました。もし重衡が死んだと聞いたら、私も死のうと思う。二度悲しい思いをするまえに、いっそここで私を殺してください」と泣き叫ぶので〈略〉

一ノ谷の合戦では清盛の孫、清盛の甥が多く犠牲になった(ピンク色の四角)

二位殿の本心は?

重衡は、もう一度私に会いたいとお思いなら、「内侍所」のことを大臣殿おほいどの(宗盛)によくよく申しあげてくださいという手紙を、二位殿に書き送ったとあります。(巻十 請文)

ーー私、ずっと引っかかっていたのですが、二位殿は、かわいい重衡の命を助けたいという理由だけで、三種の神器を都に返しなさいと言ったのでしょうか?

重衡は、元中宮亮ですから、宮中では建礼門院の担当事務官でした。安徳天皇の出産のとき、男子誕生と正式発表したのも重衡です。そして皇子が東宮になると、東宮亮、天皇に即位すると、蔵人頭、そして左近衛中将に就任します。また重衡の妻の大納言佐だいなごんのすけは帝の養育係でした。つまり、重衡は平家一門の公卿の中で、安徳天皇の最も近くにいた人物です。

ーーここで想像がムクムクふくらむ!重衡の手紙に、この機会になんとか安徳天皇を助けたいとあって、二位殿はその気持ちを汲んで絶叫する母を演じたのではなかろうか。そう考えると、いろいろ腑に落ちるんですよね。

平家は院宣を拒否

結局、知盛(二位殿の次男)が、三種の神器を都に返したところで、重衡は返してもらえないだろうと言って、宗盛は院宣を拒否する請文を送ります。

安徳天皇が都に戻るチャンスは消えてしまいました。

一ノ谷の合戦の一年後、平家討伐がなかなか進まないことにしびれを切らした義経は、後白河法皇に願い出て許可をもらい、屋島にむけて出陣します。

そのとき朝廷は、伊勢大神宮、石清水、賀茂、春日の神社に官幣使を送り、「主上ならびに三種の神器、ことゆゑなうかへりいらせ給へ(安徳天皇と三種の神器が無事に都にお戻りになるよう、お取りはからいください)」(巻十一逆櫓)と祈願しました。

先帝身投

源義経の急襲を受け、平家一門は讃岐国屋島から西に落ちていきます。屋島の合戦の一ヶ月後、豊前国門司、長門国赤間の関にかこまれた壇ノ浦で、源平最後の決戦がおこなわれました。

最初は意気盛んだった平家方は、次第に劣勢になっていきます。二位殿は三種の神器をもち、安徳天皇とともに、壇ノ浦の海の底に沈みました。

これが二位殿の戦い方だったのか、言葉にならない感情があふれてきて、重い気持ちになります。

ーーーーーー
大梵だいぼん高台こうだいの閣の上、釈提しゃくだい喜見きけんの宮の内、いにしへは槐門かいもん棘路きょくろの間に九族をなびかし、今は舟のうち浪の下に、御命を一時いっしに滅ぼし給ふこそ悲しけれ。

最後の文章がまるで経文のように響きます。

三種の神器のうち、内侍所と神璽は拾い上げることができましたが、宝剣はついに見つかりませんでした。


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