紫式部に近づきたい 越前へ
紫式部は、越前守に任じられた父、為時とともに越前国に行きました。はじめて京を離れて旅する、紫式部の歌を詠んでみましょう。為時が越前守になったのは長徳二(996)年のことです。
紫式部の歌碑
調べて見ると、紫式部の歌碑が、琵琶湖の周り(滋賀県)にも越前国(福井県)にも、たくさん建っています。
実際に歌碑のある場所を訪れてから、投稿するつもりでした。いろいろ調べて、行く気まんまんだったけど、大河ドラマ『光る君へ』では、次回(第25回)まひろ(紫式部)が京に戻ってきてしまう。早くない?
しかたない、旅行記は後回しにして、和歌を先に紹介しちゃいましょう。
(二〇)
ーー近江の湖で、三尾が崎というところで、網を引いているのを見て
三尾のうみに あみ引くたみの てまもなく たちゐにつけて みやこ恋しも
▼三尾が崎のあたりで網を引く漁師たちが手を休める間もなく、立ったりしゃがんだりしているけれど、私も、立っても座っても都が恋しいわ。
休むこと無く網を引く漁師の姿を、休むこと無く都のことを恋しく思う自分自身に重ねています。
(二一)
ーーまた磯の浜で、鶴が声々に鳴いているのを
磯がくれ おなじこころに たづぞなく 汝が思ひいづる 人やたれぞも
▼磯の岩陰に隠れ、私の泣きたい気持ちと同じように、鶴が鳴いている。おまえが思い出している人は誰なの。
「なく」は、作者が「泣く」と鶴が「鳴く」の掛詞。大河ドラマ『光る君へ』なら、泣きたい気持ちで思い出している人は、当然、藤原道長さまでしょう。
一方、紫式部集では、同じ時に、西の筑紫に向かっている女ともだちのことを思い出していると、私は推測します。(『光る君へ』では、さわさん)
(二二)
ーーきっと夕立が降るだろうと思って、空が曇って稲光がするので
かきくもり ゆふだつなみの 荒ければ うきたる舟ぞ しづこころ無き
▼空が急に暗くなり夕立になりそうだし、立つ波も荒いので、もの憂く思っている私を乗せた、浮いている舟は、揺れて心が落ち着かないわ。
たしかに、平安時代の船は、水面ぎりぎりに浮いていて、落ちついてはいられません。
(二三)
ーー塩津山という所の道がとても険しいのを、身分の低い男達がみすぼらしいなりで、「やはり辛い(=つらい)道だなあ」と言うのを聞いて
知りぬらむ 往き来にならす 塩津山 世に経る道は からきものぞと
▼わかったでしょう、いつも通り馴れた塩津山も世渡りの手段としてはつらいものだと。
塩津に上陸した一行は、深坂古道を抜けて敦賀に向かいました。この歌、「塩」津山なので「からい」という縁語表現(言葉あそび、またはダジャレともいう)を用いています。自分の輿をふうふう言いながら担いでいる男たちを見て、『わかった?世渡りは辛いものなのよ』と思うなんて、なんて性格悪いの!と、この歌は一般に評判がよろしくありません。言葉の遊びなんだけどな。
どれほど「辛い」道なのか、ぜひこの足で歩いてみたいと思っています。
長浜・米原を楽しむ 観光情報サイト 深坂古道(堀止地蔵)
(二四)
ーー湖で、老津島という、水底に土砂が積もってできた洲が、長く突きだして岬のようになった所に向かって、童べの浦という入り海が美しいので、ふと心に浮かぶまま
老津島島守る神やいさむらん 波もさわがぬ 童べの浦
▼老津島の島を守る神が教えさとしたのだろうか、波もおだやかな童べの浦は。
老津島は、琵琶湖の東岸の沖島のことだとする説が有力ですが、そう考えると、京から越前にむかう途中に詠んだ歌(20~23番)のあとに、越前から京に帰る途中で詠んだ歌(24番)が並ぶことになります。25番~27番は越前滞在中に詠んだ歌なので、時間の進行どおりではありません。
老津島は塩津の近くにあるのではないかと考える人もいます。
平安時代のことなので、調べれば何でもわかるわけではなく、むしろわからないことが多いのです。ひとまず、20~24番まで、琵琶湖のほとりで詠んだ歌をひとまとめにしたと考えておきましょう。
越前国にて
(二五・二六)
ーー暦に初雪が降ると書いてある日、近くに見えている日野岳という山の雪が、とても深いように見えたので
ここにかく 日野の杉むら うづむ雪 小塩の松に 今日やまがへる
▼ここではこのように、日野山のかたまって生えている杉を埋めるように雪が積もっています。京の小塩山の松も、今日は同じように雪に埋もれているかしら
ーー返事
小塩山 松のうは葉に 今日やさは みねの薄雪 花と見ゆらん
▽小塩山の松の上のほうの葉に、今日はそう、高いところにうっすらと積もった雪が花のように見えていることでしょう
返事の歌は、女房が詠んだと思われます。日野山は越前富士と称される美しい山ですが、それでも、日野山に深く雪が積もった光景を見ながら思い出すのは、京の小塩山の雪のことなのですね。
(二七)
ーー降り積もって、とてもやっかいな雪を取り除いて、山のように積み上げたものに、女房たちがのぼって「やっぱり、これを出てきてご覧くださいな」と言うので
ふるさとに かへるやまぢの それならば こころやゆくと ゆきもみてまし
▼故郷の都に帰る、鹿蒜山の山道が、もしもその雪山なら、ふさいでいた気持が晴れるだろうかと、行って雪を見るでしょうに。
平安時代、宮中でも雪山を作って遊んだようです。京の人にとって、雪はめずらしいものだったのですね。
鹿蒜山は、「帰る」との掛詞。越前に出かける人を送別する歌にしばしば詠まれています。鹿蒜山は木の芽峠を通るルートで、紫式部が京に帰るときは、このルートを通ったようです。
宣孝との和歌のやりとり
二八番からあとは、しばらく宣孝との和歌のやりとりがつづきます。くわしくは、こちらをお読みください。
紫式部集のうしろの方にも、少しですが、越前から京に帰る途中に詠まれた歌があります。
(八〇)
ーー都の方へといって、鹿蒜山を越えたときに、聞けば呼坂という所のはなはだしく険しい山道で、輿をかつぐのにも難渋するので、こわいわと思っていると、猿が木々の木の葉の中からとてもたくさん出て来たので
ましもなほ をちかた人の 声交はせ われ越しわぶる たごの呼坂
▼猿よ、おまえもどうか遠くの方にいて呼び交わしておくれ。私の輿が越えるのに難渋しているたごの呼坂で
この道は野性の猿がでてくるのですね。
(八一)
ーー湖で、伊吹山の雪がとても白く見えるので
名に高き 越の白山ゆきなれて 伊吹の岳をなにとこそ見ね
▼有名な越の白山のそばまで行き、雪を見慣れた私ですもの、伊吹山の雪なんて、なんとも思わないわ
私は有名な白山の雪を見てきたのよ、近畿の山なんてたいしたことないわ、という感じ?
ここまでよんできた和歌では、越前で都のことばかり考えているようでしたが、きっと雪の白山に感動したのでしょう。「白山」は古今集などでもよく詠まれています。目立ちますものね。
■これまでに紹介した歌
女ともだち(1) 紫式部集 1、2、6、7番
女ともだち(2) 紫式部集 8、9、10、11、12番
女ともだち(3) 紫式部集 15、16、17、18、19、39番
結婚(1) 紫式部集 28、29、30、31番
結婚(2) 紫式部集 32、33、34、35、36、37番
結婚(3) 紫式部集 4、5番