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『光る君へ』と百人一首の人たち~清少納言

よに逢坂の関はゆるさじ

『枕草子』の中の、いわゆる「日記的章段」には、清少納言がお仕えする定子さまの一族、藤原道隆、伊周、隆家のほか、藤原公任きんとう、藤原斉信ただのぶ、藤原行成こうぜいも登場します。そうです、光る君への「F4」メンバー。

『枕草子』を読むと、百人一首に入っている清少納言の歌、

夜をこめて鳥のそら音にはかるとも よに逢坂の関はゆるさじ

藤原行成とのやりとりの中で、詠まれたことがわかります。

ドラマ(現在は第7話)では、行成はおとなしく、一歩引いた感じのキャラですが、「鳥のそら音」のやりとりをしたのは、ざっと計算して12年ぐらい後のこと。性格がややオッサン化した行成さんのエピソードをお読みください。

ーーーーーー
藤原行成さまが、職御曹司しきのみぞうしに参上して、わたしたちとおしゃべりなどしていたけれど、夜が更けてしまった。「明日は帝の物忌なので、内裏に籠らなくてはならない。午前1時をすぎたらまずいので」と言って、内裏にいらっしゃった。
 翌朝、蔵人所の紙屋紙を重ねて、「今日は、心残りな気持ちでいっぱいです。一晩中、昔のことを語り明かそうと思ったのに、鶏の声にせかされてしまって」と、とてもたくさん書いておられるお手紙が、すばらしい。私が「深夜に聞こえた鳥の声は孟嘗君のものでしょうか」とお返事したところ、すぐに、「『孟嘗君の鶏は函谷関を開いて、三千の食客がかろうじて立ち去った』とあるけれど、私がいうのは逢坂の関です」と返ってきたので、
夜をこめて鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ
ーーまだ夜が明けないうちに、孟嘗君の鶏のように、鳴きまねをさせたとしても、決して逢坂の関は開けないつもりよ。
しっかり者の関守がいます」とお返事した。
 また、すぐに、
逢坂は人越えやすき関なれば 鳥鳴かぬにもあけて待つとか
ーー逢坂は人が越えるのがたやすい関なので、鳥が鳴かなくても開けて待つと聞いてますよ。

と交わした手紙のうち、行成さまの最初の手紙は、僧都の君が、額を床にすりつけてまでお願いして、ご自分のものになさった。あとの2通の手紙は、定子さまがお手元におかれた。
 そうそう、行成さまの逢坂の歌は、あまりのことに圧倒されて、お返事できないままです。いやだわ。

 頭弁の、職にまゐりたまひて、物語などしたまひしに、夜いたうふけぬ。「明日御物忌なるに籠るべければ、丑になりなばあしかりなむ」とてまゐりたまひぬ。
 つとめて、蔵人所の紙屋紙ひき重ねて、「今日は、残りおほかる心地なむする。夜をとほして、昔物語も聞え明かさむとせしを、にはとりの声にもよほされてなむ」と、いみじうことおほく書きたまへる、いとめでたし。御返りに、「いと夜深くはべりける鳥の声は、孟嘗君まうさうくんのにや」と聞えたれば、立ち返り、「『孟嘗君の鶏は函谷関かんこくくわんをひらきて、三千の客わづかに去れり』とあれども、これは逢坂の関なり」とあれば、
夜をこめて鳥のそら音にはかるとも よに逢坂の関はゆるさじ
心かしこき関守侍り」と聞ゆ。
また、立ち返り、
逢坂は人越えやすき関なれば 鳥鳴かぬにも開けて待つとか
とありし文どもを、はじめのは、僧都の君いみじうぬかをさへつきて取りたまひてき。後々のちのちのは、御前に。さて、逢坂の歌はへされて、返しもえせずなりにき。いとわろし。

『枕草子』原文は小学館新編古典文学全集による

頭が高速回転!

このエピソードは、まず清少納言が、行成の手紙にあった「鶏の声にもよほされて」という語句に、「それって孟嘗君のお話?」とすぐに反応したことが、ポイントです。

「鶏鳴狗盗」のあらすじ
斉の孟嘗君が優秀な政治家であるという評判は他国まで伝わっていた。味方にすると心強いが、敵に回すと手強い存在である。孟嘗君が斉の国の使者として、大国である秦の国に行ったところ、秦王が斉に帰るのを妨害したので、秦王の寵妃に贈り物をして取りなしてもらって城を脱出する(贈り物の調達に盗みの名人〈狗盗〉が活躍)。気が変わった秦王が後を追わせたので、函谷関を通って国の外に逃げようとしたが、函谷関には、〈夜明けに鶏が鳴いたら門を開ける〉というきまりがある。そこで、従者の中にいた鶏の鳴きまねの名人が、真夜中に鳴きまねをしたところ、本物の鶏たちもつられて鳴きだしたので、函谷関の門が開いて、追っ手が来る前に通過できた。

現代でも、ドラマ「VIVANT」(TBS2023年)のなかで、「スネイプ」の名前が隠しメッセージとして使われていました。ハリー・ポッターのシリーズを全部読んでいて、かつ頭が高速回転する人ならわかるという。(タネあかしはやめておきますね)ハリー・ポッターのシリーズ、最後まで読んで、スネイプ先生も知っていたのに、私はわかりませんでした。難しいよー。

漢文の知識をため込むだけではなく、それを瞬時に引き出して使う能力にたけた、清少納言が評価されるのも、もっともなことですね。

逢坂の関

では和歌の解釈です。

夜をこめて鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ
ーーまだ夜が明けないうちに、孟嘗君の鶏のように、鳴きまねをさせたとしても、決して逢坂の関は開けないつもりよ。
しっかり者の関守がいます

「関」の連想から、函谷関は鶏の鳴きまねで真夜中に開いたかもしれないけど、逢坂の関は開けないつもりよ、というわけですが‥‥。

逢坂の関は、〈逢坂山にあった関所。三関の一。東海道・東山道の京都への入り口にあたる要所。蝉丸が住んだという蝉丸神社(関明神)がある。[歌枕]〉(デジタル大辞泉)。つまり、ここ。

京阪大津線 大谷駅から、すこし歩いたところに碑があります

ただし、百人一首の蝉丸の歌「これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関」のように素直にこの場所を詠んだ歌もありますが、恋の歌になると、隠された意味が込められます。

恋の歌では、〈逢坂の関を越える〉は、男女が逢う=「一線を越える」「結婚する」こと。そこから、〈逢坂の関を越えたい〉は「今夜、二人だけで過ごさない?」という誘い文句、〈逢坂の関を越えられなかった〉は、「彼女に迫ったけど拒否されたよぉ、または、邪魔が入ったよぉ」という残念な結果報告です。

宮中でのやりとりは開放的なもの、清少納言が「逢坂の関」を詠んだのは、恋愛ゲームです。そこで〈逢坂の関はゆるさじ〉=あなたを寝所に迎え入れることはありませんと、きっぱりと拒否された行成が詠んだ歌、

逢坂は人越えやすき関なれば 鳥鳴かぬにもあけて待つとか

「逢坂の関」のもつ意味がわかれば、清少納言が絶句してしまうほど、露骨で失礼極まりない歌だということが、よーくわかりますね。

当時(一条天皇のころ)は、すでに逢坂の関は自由に往来できたそうです。行成の歌は歴史的事実に基づいているわけですが、問題はそこではなく、逢坂の関がもつ、別の意味にあります。

行成は三筆の一人

『源氏物語』の若紫巻には、女房達が光源氏の手紙を、若紫の書のお手本にしようと大事にとっておく場面があります。書の名手の書いたものは大切に残されました。

行成の手紙も、最初のものは隆円(定子の弟)、残りの2通は定子のお手元にあると、『枕草子』に書いてあります。

行成の書状(50歳ごろのもの)が、現在も残っていますよ。

書状 藤原行成筆 寛仁4年(1020) ColBase


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