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平家物語~小宰相と通盛「小宰相身投」

一ノ谷合戦前夜

都に入った木曾義仲と、後白河法皇、源頼朝が争っている隙に、平家は勢いを取り戻して摂津国に戻ります。再び都に戻ることをめざして、生田森、一ノ谷に陣をかまえました。頼朝は範頼、義経軍を派遣します。

寿永三年(1184)2月6日 山側から攻めてくる義経軍に備えるため、”山の手”の守りについた能登殿教経と通盛。通盛は、宿所に小宰相を呼び寄せて名残を惜しんでいましたが、目撃した弟の能登殿に「そんなにでれでれしてたら、戦さの役にたたんわ!」と怒られ、あわてて小宰相を帰しました。

通盛の死の知らせがとどく

一ノ谷合戦で平家は大敗、一族の多くが亡くなります。同年2月7日の夕方、小宰相のもとに、通盛の死の知らせが届きました。それからずっと床に伏せていた小宰相が、13日の夜ふけ、最後の逢瀬の時の通盛の様子を、乳母に語ります。

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明日出陣という夜に、仮の陣屋であったとき、ふだんよりも心細そうにため息をついて「明日の戦さで、きっと討たれるような気がするのだ。私になにかあったら、あなたはどうなるのだろう」などと言ったけれど、戦さはいつもの事なので、きっと討たれるとは思わなかったことが悔やしい。二度と逢えないと思ったなら、来世でも一緒になろうと約束したのにどうしてそうしなかったのだろうと思うことまで悲しいの。妊娠したこともしばらく隠して言わなかったけど、頑なだと思われまいと思って、お話ししたら、それはそれはうれしそうで、「私は三十歳になるまで子というものがいなかった。ああ男の子だといいなあ。つらいこの世の忘れ形見と思うほどだ。それで何ヶ月になるの。気分はどうだい。いつまで続くのかわからない波の上船の住まいなので、しずかに出産するとき、わたしはどうしようか」などといったのは、亡くなってしまった今となってはむなしい言葉ね。

あすうち出でんとての夜、あからさまなる所にてゆきあひたりしかば、いつよりも心ぼそげにうちなげきて、「明日のいくさには、一定討たれなんずとおぼゆるはとよ。我いかにもなりなんのち、人はいかがし給ふべき」なんど言ひしかども、いくさはいつもの事なれば、一定さるべしと思はざりける事のくやしさよ。それをかぎりとだに思はましかば、などのちの世とちぎらざりけんと、思ふさへこそ悲しけれ。ただならずなりたる事をも、日ごろは隠して言はざりしかども、心強う思はれじとて、言ひいだしたりしかば、なのめならずうれしげにて、「通盛すでに三十になるまで、子といふものの無かりつる。あはれ男子にてあれかし。うき世の忘れがたみにも思ひおくばかり。さて幾月ほどになるやらん。心地はいかがあるやらん。いつとなき波の上、舟のうちの住ひなれば、しづかに身々とならん時もいかがはせん」なんど言ひしは、はかなかりける兼言かねことかな

巻九 小宰相身投

「ただならずなる」とは、普通ではない状態になるということで、小宰相は妊娠したことを遠回しにこのように言いました。

はかなし

「はかなかりける兼言かな」の“はかなし”は現代語に訳しにくい言葉ですが、私はいつもこんなふうに説明しています。

「仕事が”はか”どる」の"はか”と語源が同じ。”はかどる”と言う場合、〈成果や結果が目に見える形ではっきりわかる〉、”はか”しはその逆で、〈やっても手応えがなく、成果や結果があてにできない〉そこから、期待外れ、頼りにならない、手応えがない、あっけない、あっけなくむなしいなどと訳します。

でも、単語の意味をいくつも覚えるよりも、〈手応えがない、あてにできない〉というベースになるイメージを、それぞれの文脈の中で出てくる”はかなし”にあてはめるほうが、意味が直接こちらに伝わってくるように思います。

「はかなかりける兼言かな」――「兼言」は前もって将来のことを言うこと、〈男の子だったらいいな、出産のときはどうしようか〉と言っていた通盛さまの言葉が、”はかなく”なってしまった。この一文、現代語訳するのにけっこう悩んだのですが、「亡くなってしまった今となってはむなしい言葉ね」とひとまず訳してみました。

小宰相は船から身を投げた

前夜、明日死ぬかもしれないと言っていた通盛が、小宰相の妊娠を知って、将来のことを話し(能登殿が邪魔したけど)、1日もたたないうちに討ち死にしてしまった。小宰相は生きる気力をなくして、2月14日未明に船から身を投げました。

世間の人は、子どもを産んで育てなさいという。でも子どもをみるたびに通盛さまのことを思いだすにちがいない。そうだわ、生きていたら、別の人と再婚させられるかもしれない。

そんなふうにぽつりぽつりと話す小宰相に、乳母の女房は取り乱します。

〈私は年老いた親やおさない子どもを都においてここまであなたについてきたのですよ、私の気持ちも考えてください。通盛さまの子を出産したあと、出家して菩提を弔えばいいではありませんか〉

世の中のはかなさを痛感した小宰相に、乳母の女房の言葉は届きませんでした。乳母の女房がちょっと寝入った隙に、船端に出て、海に身を投げます。

海からすくいあげられた小宰相にすがって、どうして千尋の底まで一緒に連れて行ってくださらなかったのですか、と嘆く乳母の女房、どうしてあのときちょっと寝入ってしまったのだろうかと、ひどく後悔しているだろうなと想像すると、とてもあわれです。

戦は、戦いに参加する武者だけではなく、勝者敗者の区別もなく、かかわるすべての人に深い悲しみをあたえるものだということを、八百年以上前につくられた『平家物語』が教えてくれます。

小宰相が身を投げた、現在の屋島沖。

もし通盛と結婚していなければ

建礼門院にお仕えしていた、建礼門院右京大夫が、家集の中で小宰相と通盛についてふれています。

上西門院(後白河法皇の准母)にお仕えする女房のなかでも、とくに美しかった小宰相に長年求婚していた人が、「通盛の朝臣に取られて」(原文のまま)嘆いていると聞いたので、“嘆いている”人に和歌を送ると、相手からも返歌があった。その贈答歌のあとに、つぎのように書き添えています。

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(歌略) などといっていた時には、ただたわいのない軽口と思っていたのに、通盛さまと結婚したために、小宰相さまが海の底に沈んで“底の藻屑”になってしまったことは、この上なくあわれで、もしも取られて嘆いていた人と結婚していたなら、そんなことにはならなかったのにと、いくら考えてもおふたりの宿縁の深さはほかに例がなく、とても言葉にできません。

などと申しし折は、ただあだごとと思ひしを、それゆゑ底の藻屑とまでなりしを、あはれのためしなさは、よそにて嘆きし人に折られなましかば、さはあらざらまし、かへすがへためしす例なかりける契りの深さも、言はむ方なし。

建礼門院右京大夫集

小宰相は、生きていれば再婚させられるかも(「心にまかせぬ世のならひは、思はぬほかのふしぎもあるぞとよ」)と言っていましたが、たしかに都に帰れば求婚者がたくさんあらわれそうです。

上西門院が、小宰相が落とした通盛の恋文を見つけて、仲を取り持ったというお話が、平家物語「小宰相身投」の最後にでてきます。


『平家物語』~逃げ惑う人々、そして「小宰相身投」を再編集しました。


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