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とにかく、でかい魚をさばきたい。

最後に30センチ定規を見たのはいつだろう。
思い出の中の30センチは竹製だけど、今はどうなんだろうか。プラスチックやアクリルかもしれない。

わたしの足は28センチだ。大きめである。なかなか靴が買いにくいけど、いいこともある。
手首から肘までは足の大きさと同じらしい。だから、何かの大きさを考えるとき、だいたい30cmはこのくらいかぁ……と比べられる。慣れ親しんだ竹製30センチで測る世界。けっこう便利だ。

だいたいこのくらい〜は人によって違う。タバコの箱だったり、500円玉だったり、少年ジャンプくらいだったり。10センチ、30センチ、1メートル。身の丈を知る。そして世界をどの尺度で見るか。「だいたい」にはその人の生活や歴史が宿っている。

なんでもいい。両手を拡げて、手の前に30センチつくってほしい。そこからほんのちょっと、5センチ足す。合計35センチ。

いいですか?
できましたね。
いきますよ。

……はい!

これが35センチのカンパチです。
これをなんやかんやして……
こうじゃ!パーティやで。

おさかなどハマリ息子くん

子が魚にハマっている。どハマリである。
魚だけじゃなく海の生きもの全般が好きらしく、 毎日毎日飽きずに図鑑を眺め回している。好きの力はすごい。

さかなクンのお母さんはタコが大好きなさかなクンのために、毎日タコ料理をつくっていたらしい。いざ自分が親になってみて、そのすごさを知る。子どもの好きは強い。世界とか、情報とか、世の中のいろんなこととの橋渡しをしっかりやってあげたい。子どもの好奇心がしっかり自立するまで、できるだけ伴走してあげたい。あげたいが、ぜんぶが全部そればっかりはやれない。やりきれない。
というわけで、毎日は無理でも毎週土曜日は何かしらの魚料理をつくっている。

お財布事情もあるので毎回大物はちょっと無理。干物やその日のセールとか挟みつついろいろ食べてみる。アジ、イワシ、サーモン、マダコ、シマホッケ。食べた海産物をノートに記録しながら「なにかうれしいことがあったら、でっかいさかなをさばきたいね〜」と事あるごとに口にして一ヶ月。ちょうど土曜日に幼稚園の運動会があって、その日の晩はご褒美に大きめの魚に挑戦することになった。焼き肉とかハンバーグとかのポジションだ。

生活に近いコミュニケーションができる場所

よく行く地元の魚屋さんは子のことを覚えてくれていて、「これは◯◯!」「これはなんだろう?」にひとつずつ答えてくれる。

「よく知ってるね〜」
「そう、詳しいね!」
「それは◯◯っていうんだよ」

忙しいのにていねいに答えてくれて、すっかりファンだ。ほんとにありがたい。でっかい魚をさばきたい!という野望にも、

「今だとイナダがちょくちょく入るんですけど、それがいいっすよ。こんくらい(30センチ超)で600円くらい。今度狙ってみてください!」

安くて大きくてお腹いっぱい、という的確に望みを見抜いてたのしく教えてくれる。スーパーもコンビニも便利で楽ちんだけど、こういう生活に近いコミュニケーションができるの、ありがたいなぁ。
運動会終わりにチャリ飛ばしてイナダ狙いで行ったけど、あいにくイナダはなくて代わりにカンパチをゲットしてきた。カンパチもでかいからヨシッ。

「がんばってくださいね〜!お父さんのお手伝いしてあげてね」
「うん!」

意気揚々、鼻歌満足ご満悦の息子氏を後ろに乗せ、またチャリを飛ばして家に帰った。

カンパチvs父

「カンパチはアジ科のさいだいのさかなで80キロをこえるものもあるんだよ」

包丁一本。さらしは巻いたことないけれど。
ユーチューブ動画片手にステンレスの包丁で悪戦苦闘する父の横で、スポンジにジェットシャワーみたいに蓄えた知識を湯水の如く教えてくれる。

じっくり見て。
ヒレをさわったり。
口を開けてキバをさわってみたり。

エラが思いのほかバキバキだとか、魚のキバは近くで見ると攻撃力がすごそうとか、新鮮な魚は捌くと生臭くなくてお寿司屋さんみたいな匂いがするとか、やってみてわかることがたくさんある。
鱗を削ぎ落とし、内臓を取り出し、3枚におろしていく。これが心臓。ここは食べられる。これは取る。興味津津で手に取り、調べまくり、図鑑の知識が目の前で立体になっていく。(まるで事件現場の様相のだったため、さばいてる途中の写真はありません)

お刺身用のサクをつくりながら、小さい頃に家庭科でやった調理実習を思い出した。大きいけど、たしかにあのときのアジの三枚おろしと基本は同じ気がする。

「すごいねぇ!」

かなり苦戦しながらも、それっぽくお刺身にできた。兜焼きやアラも塩焼きにしてみた。まるごと命をいただく。今日、父ははじめて30センチオーバーの魚をさばくという実績を開放したぞ。たぶん、君がいなかったら開放しないままだったと思う。

夜、コロナでこれまでできなかった「孫の運動会を見にいく」の実績を開放したお義母さんと合流して、みんなで食べた。わいわいと、カンパチのこと、はじめて大きな魚さばいたこと、運動会のこと、たくさんの大好きを肴におしゃべりしながら食卓をかこむ。
一尾の魚が、どんな生き物でどこにいて、どんなふうにごはんになるか。海から食卓まで。食育ってほどきっちりしてなくても、こういうのっていい。

「ごちそうさまでした!」
「はい、ごちそうさまでした」

元気よく手を合わせる。いいね。いっぱい食べたね。毎日のごはんが世界と(というとでかすぎる気がするけど)どんなふうにつながっているのか。そういうつながりをたくさん思い浮かべられたり想像できたりするのが、生活の豊かさだと思うぞ。大変だけど手ざわりのある知識って記憶に残る気がするから、できるかぎりやりたいなぁ。

好きは光速、まるで夢。

翌朝。「昨日はお魚美味しかったね」と話を振ると、元気よく「うん!」の返事といっしょにこんな言葉が返ってきた。

「いまね、いちばん好きなのはでんしゃ!」

それから立て板に湯水の滝、なんとか型が〜とか、旧型のプラレールが好きで〜とか、〇〇系はどこを走ってて〜とか、謎の呪文烈火の如く飛んできた。そうか。君はもう次に行ったのか。子の好きは強く、深く、速い。それが失われていくのもまた早い。この一ヶ月が、まるで夢だったかのように……。 でも「オレは今なんだよ!!」を地で行く好奇心は最強なのだ。

こうして「なぜかなんとなく詳しいだけ」の親が量産されていき、取り残されていく。光速に振り落とされないように必死である。まあ、たのしいからいっか……と、父はまた講談社MOVE鉄道図鑑を手に出るのだ。


おわり。

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