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小説はただ書かれたまま、そこにある。

直木賞を受賞された米澤穂信さんがこんなことをつぶやいていた。

小説はただ書かれたまま、そこにあります。

撃ち抜かれてしまった。

ジャンルの中には、あらゆるステージがある。草野球からプロ野球まで、インターネットで綴るアマチュアの書き手からプロの作家まで。
生活や職業にしている人もいるし、関わり方もたのしみ方もグラデーションだ。

米澤さんのことばは、プロの作家さんが芥川賞受賞のコメントで伝えるという途方も無いすごみなのはもちろんだけど、すべての作品に当てはまる気がした。なので、撃ち抜かれてしまったのだ。

きっと、好き嫌いとは別軸で作品のおもしろさや文章の上手い下手はある。評論家じゃなくても、作品ごとに心のどこかで評価する。読んだり読まなかったり、たのしめたりつまらなかったり。それでも、作品が存在するという点では等しい。
小説はただ書かれたまま、そこにある。

noteでも大小いろんなコンテストがある。コンクールや文学賞に応募してる人もたくさんいる。結果に一喜一憂するのもたのしいし、私も好きだ。
インターネットで文章を書くというのは、その結果の部分がわかりやすく見える。コンテストでなくても、日々書いたものが読まれたり、読まれなかったりする。
やっぱり選ばれたら、うれしい。選ばれなかったら、悔しい。読んでほしい。作品への反響を振り返る。次の創作の糧にするのは、大事なことだと思う。

でも、SNSにはときどきこんなことばが流れてくる。

「また選ばれなかった。」
「箸にも棒にもかからない。ダメだわ。」
「もう、向いてないのかもしれない。」

わかる。わかるよ。選ばれなかった悔しさ。一生懸命書いたぶん、跳ね返ってくる重さ。一人じゃ抱えきれないときもあるよね。そんなこころの表面張力ギリギリから溢れちゃったことばも、すぐに流せるのがSNSのいいところだよね。
そう、自分に向けた呪詛は心地よい。きっと読んでくれた人やいつも読んでくれる人から「おもしろかったよ」とか「そんなことないよ」とか「次もたのしみにしてるよ」とか、言ってもらえる。こころだって作用反作用だ。そういうことばたちが、次へのガソリンになることだってある。

それでも、思うのだ。わざわざ自分から「選ばれなかったメダル」を授与しなくていいのだと。
まだ見ぬ読者さんが作品に出会ったとき、入り口にそのメダルを置くべきじゃないのだと。
作品の出会い方を間違えると、教科書の太宰治や芥川龍之介や三島由紀夫が「自殺した人の書いたもの」になってしまうように、それはちょっとさびしいし、やっぱり損だから。だって、選ばれなかった作品を「よしよし読んでみようか」となる人は、ほとんどいないから。

小説はただ書かれたまま、そこにある。

それでも、悔しいよね。そんなときは表に出るSNSじゃなくて、違うところで燃やそう。今は難しいかもしれないけどオフの場で語ったりとか、ラインとかDMのグループとか閉じられたインターネットの場所を用意しておくとよきだと思う。

小説はただ書かれたまま、そこにあります。

このことばはまた、作品自体に向き合うとき書き手は本質的に孤独だという裏返しでもある。
どんなに肉付けされても、たくさんメダルが付いていても、変わらず等しい。向き合うときは、たった一人だ。ただ書かれたまま、ここにある。

勇気づけられるとともに、スッと背筋が伸びる。こころにピン留めして、これからも書き続けたい。

おわり。

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