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狸山病院

平成5年。
出産の時の呼吸法が「ヒーヒーフー」だという広がりが終わった頃に、上の娘を出産した病院のお話。

うちは、できちゃった婚です。
産科の病院など、知らなくて、母に相談すると、母が乳ガン検診を受けた事のある狸山病院を教えてくれました。

毎回の検診は実に楽ちんで、
診察台に寝転がると聴診器を
あて、エコーをして、立ち上がろうとすると、その足元には体重計が見事に置かれて、そこに立てばいい。
診察台の裏には、カーテンに囲まれた内診台があるので、そこに乗るとすぐ内診。股を広げたまま放置される事はない。
大きい病院なら、スタンプラリーのようにあっちこっち検査に回り2時間とか、かかる。

狸山病院で検診を受け続けて、臨月を迎たので
「出産の時、何を持ってけばいいですか?
冊子か何かありますか?」と聞くと、
あら、うちで産むの?という感じ。
「先週も産んでったよ。」と
だいぶ前に作った感じのパンフレットと、用紙をもらった。

そして出産の日迎えた。

陣痛が始まったのは夜中。始め、下っ腹
が痛くて、「下痢かな。トイレ行かなきゃ」と思っては眠り、を繰り返していた。
朝起きてこの痛みが繰り返すので、陣痛だと気づき、間隔を測った。初めての子なので、なかなか間隔は縮まらず、焦らなくていいと本で読んだので、焦らなかった。
父母に話、昼ごはん食べたら電話してみることにした。

「一人目だから、まだまだだよ。心配だったら、来てもいいよ。」と。
2時頃に病院に着いた。

2階に案内されると、
「こんなとこが、ちゃんとあるんだ。」と思った。
病室は10部屋くらいあり大部屋もあった。
そしてナースステーションもあった。が、もちろん看護師さんはいない。受付の窓枠は木でできていてカーテンが閉められていて、隙間から小上がりの畳が見えた。

私の部屋は中央の個室を案内され、けして汚くなく、ベッドのシーツも真っ白でのりがピシッときいていた。

お産婆さんが来た。古い言い方だが助産師さんというよりお産婆さんだった。
私のおばあちゃんと同い年の大正生まれ。

内診も嫌な気持ちをさせずにサラッとやってくれ、気遣ってくれた。

陣痛がだいぶ痛くなると、本にあった呼吸法をしたら、怒られた。自然でいいと。

私は中高のクラスの中で、2番目に早く結婚した。という事は、2番目に出産した。そのためお産について耳どしまにならずにいた。
入籍も遅かったために母子手帳を作るのも遅く、母親学級も2回しかいけず、狸山病院には、もちろん母親学級はなかった。

唯一先輩からいただいた本しか知識がなかった。何度も読み返し、本に書いてあった呼吸法をやったのだ。それは“ヒーヒーフー”ではなかった。
「自然な呼吸で」と怒られ、出産する瞬間まで、呼吸法は行われなかった。
二人目の子の時に知る、分娩台にのり、先生に「いきんでいいよ」と言われるまで、我慢するというのはなかった。極自然に産んだのだ。

陣痛も徐々に間隔が狭くなり、17時なる頃、医院長婦人が「ちょっと早いけど、栄養士さんがもう帰っちゃったから、私が、ほうとう作ってきたわ。」
起き上がれるかと思ったが意外と起き上がれた。陣痛の私には食べやすくとても美味しかった。
奥さんは山梨の出身なので、ほうとうを作ってくれたと話し、
この病院に嫁ぎ、看護師と助産師の資格を取ったそうです。

いよいよ、分娩室へ。
分娩室はよく消毒されてるようで、分娩台の銀色はピカピカ光っていた。
高さがあったので「これを登るの?登れません。」と言いたい気持ちでした。が乗るしかなかった。

お産には、何故か母が立ち会った。何の打ち合わせもしてなくて、先生に促されるままに入ってきた。
頭が出てくると、「こっち回ってきて、ごらん。」と母を呼び、
母も頭が出てくるのを見てびっくりした。
恥ずかしい。
普通立ち会うって、頭側からじゃないの?
その頃は旦那も駆けつけてたと思うのだけど。立ち会ったのは母だった。

3925g。ぴったり夜9:00生まれ。
大きな女の子。
この大きさは二人目の子のためだった。
二人目は旋回異常と母子手帳に書かれている。骨盤に合わせて回転しながら生まれるべき所をまっすぐ生まれてきた。普通なら帝王切開になるとこだが、3925gの産道があったから、普通分娩で生まれる事ができたのだ。
さらに、ちなみに下の子も朝7:00ぴったりに生まれてる。
私がきちんとした性格だから?

朝目覚めると、赤ちゃんが同じ病室で、眠っていた。オムツバケツの中には使われた布オムツが入っていた。奥さんが夜中オムツを替えミルクをやってくれていたのだろう。

しばらくすると奥さんがいらして、オムツの替え方とミルクのあげ方を教えて下さった。

お尻を拭くのは清浄綿。3×7cmくらいの銀色のアルミ?真空パックしたシート。
値段が高いので、薄く割いて2枚にして使う。赤ちゃんが冷たがらないように、布団の中に入れて置く。
数日すると、脱脂綿に精製水とアルコールを染み込ませ物を使う。
退院する時、作り方を教えてくれ。入れ物をくれた。節約するためだ。
私は6ヶ月くらいまでは脱脂綿を切るとこから、作り続けた。

8時過ぎると、看護師さんや事務の方が、次々、娘を見に来た。こんなに、働いてる人がいるとは。
みんな、口々に「大きい」「大きい」と言った。
私は生まれたての赤ちゃんは見た事ないので、何も感じてなかった。

「母乳で、育てたいのに。」と思いながらミルクをあげいた。すぐは母乳がでないとは知らなかった。

数日すると、胸が張ってきた。
奥さんに、「明日あたりオッパイの飲ませ方教えるね」
「あのー。胸が張ってるんですけど。」
「あら、パンパンじゃない。早く言わないと。」
娘は寝てたので、オッパイにタオルを当てゴリゴリしごかれ母乳を絞った。これが痛いのなんの。お産より痛いかもと、思った。
「赤ちゃん起きたら、オッパイのあげ方教えるから、呼んでね。」

娘が泣き出した。
オムツを替え、泣き声で胸も張ってきた。
奥さんを呼ぶ、と言ってもナースステーションには誰もいないので、ナースコールのボタンを押した。
なかなか来なかった。病院と、ご自宅がつながっているので、そこから来るのには時間がかかるのだろう。
どういう時間帯だったか覚えていないが、外来にも人のいない時間だった。
奥さんも誰も来ない。
ナースコールは鳴り響き続けた。

胸が張って痛かった。
自分で飲ませてみようと思った。
が、上手くいかなかった。
「オッパイだよー。」

二人目の時、授乳室でママさん達と輪になってオッパイを飲ませる。オッパイを飲ませるのが、初日から、赤ちゃんがパクッと飲んだのを見て新米ママさんは皆驚いた。
それくらい初めてオッパイ飲ませるのは難しいのだ。

オッパイを飲ませる事はできず、仕方なくミルクを飲ませた。
だいぶ経ってからナースコールは鳴り止み。
さらにしばらく経ってから、奥さんは現れた。
ギックリ腰になり倒れてたそうだ。奥さんも誰かの助けを求めていたようだ。
「ごめんね。」

退院の日を迎えた。
入院費の清算を、病室で始めた。
「領収書とおつり持ってくるね。」と奥さんが、病室を出て行く前に、へその緒を入れる箱を置いて行った

空っぽの箱だった。
狸山先生は、言う
「だいたい、退院する前にへその緒はとれるのだが、心配いらないからね。ポロっととれるから。」
「へその緒は長いのが欲しければ、長く切れる。へその緒を切る専用のハサミがあるんだよ。」
「取れるのが遅くても、でべそにはならないから、心配ない。」

「頭の悪くない賢い子だと思うんだけどなぁ。」と突拍子もない話をし始めた。

奥さんはなかなか戻って来なかった。
狸山先生の話は続いた。
「もう、お腹も大きくて9ヶ月で、それまで気づかなかったのかなぁ。学歴もあって賢い子と思うんだけど。その後、検診には来なかった。」
お父さんが、どちらなのかわからなかったのだ。
奥さんのいる銀行員か、独身の工場の仕事をしてる男か。
彼女は、銀行員の男の方が好きだった。

彼女は隣の町の大石公園で、一人で出産した。へその緒は引きちぎってあった。
電話した相手は、工場で働く男だった。
一度ホテルに行き。タオルに包んで、狸山病院に飛び込んできたのだ。
どちらが、お父さんなのかを判断するのを先生がやる事になった。
まだ、DNAで判定できる時代でなかった。

色々調べ計算したが、全くどちらともわからなかった。
既婚者の銀行員か独身の工場で働く男か。最後に判断を先生がしなければならかった。
独身の工場で働く男の方が優しくて幸せになると思い判断した。工場の男に。

そして、その男は彼女の前で言った。
「肌の黒い赤ちゃんが生まれても、私の子だ。」

 狸山先生は話を続けた。
「10年くらい経った頃、家族三人に会ったけれど、幸せそうだったよ。へその緒は引きちぎったけど、でべそではなかったと思うよ」
そこに着地するのか。そのために長い話をしたのか。

そして退院した。

その後も、検診に来たり、娘達が病気をすれば、狸山病院に駆け込んだ。
そのうちに聞く噂では、過去、何かを起こして新聞に載ってから、お産をする人が減ったとか。
皮膚科が評判がいいのは、大きなやけどがきれいに治ったという噂があるから。とか。
その評判は隣の隣の市に、同じ狸山病院があってそこの評判がいいからだとか。
全く、病院の評判というものは怖い。

先生の診察の時の話は時々長く、ある時は何かのパンフレットに市の医師会長として写真が載ってるのを見せてくれた。
少し若い頃の先生で眼鏡を外し、髪も、おでこ出してビシッと、きまっていた。
この写真は、度々、広報などで見た。

先生が悪事をし新聞に載ったのが、本当であったとしても、人が嫌がる事引き受けるからの事であると私は信じている。
それでなければ医師会長にはなれないだろう。

娘達が大きくなると病院にも行かなくなった。

狸山先生の娘さんが、帰ってきて、皮膚科をやっていて評判がよかった。
10年ぶりくらい経って下の娘と行くと、番号札を取らなければならないほどの混雑だった。女性らしくリフォームされて、からくり時計が変わっていた。
診察し適切な処置と投薬され、すぐ治った。
受付で、聞いた。
「院長先生は、お元気ですか?」
市内の田舎の方の診療所にいるとのことだった。

あなたは、こんな病院で産みたいですか?

私がこの話を書いたのは非難するためでなく、むしろ愛情を持って書いている。

もうこんな病院で自然なお産したくても、どこにもないでしょう。

狸山病院に感謝申し上げます。


                           F in

ごめんなさい。詩に夢も憧れもありません。できる事をしよう。書き出すしかない。書き出す努力してる。結構苦しい。でも、一生書き出す覚悟はできた。最期までお付き合いいただけますか?