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短編小説『私は誰かの最後の希望になった』

※この物語には自殺の表現が含まれます。不安や悩みを抱えている方は、必要に応じて専門家のサポートを受けてください。


3月の第一週、いつかは来ると覚悟していたその日がやってきた。異動命令が下りたのだ。市民課から生活福祉課へ──市民課での仕事は忙しいものの、書類の処理や窓口対応が中心で、人々と軽い会話を交わすことが日常だった。もちろん、たまに激昂する人もいるが最近はすぐに警備員さんがやってきてくれるので、昔よりはマシになった。しかし、生活福祉課は違う。そこは、人生の最も困難な局面に立たされている人々の支援をする場所。生活保護、家庭問題、経済的苦境──様々な重いテーマが私たちの手元に届く。正直、私はその重荷に押しつぶされるのではないかと不安だった。

異動して最初の数週間は、思った以上に厳しかった。朝から晩まで、途切れることなく相談者がやってくる。ある人はどうしても生活保護が欲しいと懇願し、ある人は「私に死ねって言ってるのね!」と言って机の上の書類を投げつけた。多くの人々が、追い詰められてからようやくここにたどり着く。それまでの苦しみが私にも伝わり、仕事が終わる頃には心身ともに疲れ果てていた。

そんなある日、若い男性が窓口に現れた。彼は20代後半に見えたが、顔には年齢以上の疲労と苦しみが刻まれていた。待合の椅子に座ったまま、しばらく立ち上がろうとしなかった。周囲の人々が次々と窓口へ向かう中、彼だけが孤立しているように見えた。

「どうされましたか?」私はそっと声をかけた。彼の顔色はそれほど悪くないが、どこか沈んでいるような雰囲気があった。視線は宙を彷徨い、口を開こうとはしない。私は彼を個室に案内し、静かに話を聞くことにした。

最初は何も話してくれなかった。ただ、重い沈黙が部屋に広がっていた。私はその沈黙を急かすことなく、彼が話し始めるのを待った。しばらくして、彼はポツリと「もうここに来るしかなかったんです」と呟いた。

彼は家族のために頑張りすぎたのだという。母子家庭で育った彼は家族に毛迷惑をかけまいと家族の借金を背負った。そして仕事で無理を重ね、精神的に追い詰められ、ついには自殺未遂にまで至った。その後、実家に戻ったが、家族は彼を「障害者」として扱い、まともに接してくれなかった。ここにいたら自分が壊れてしまう、と感じた彼は誕生日の翌日に実家を飛び出した。その後、1か月の路上生活を続け、不動産会社に勤めていた友人の家に居候させてもらい、格安の物件を紹介してもらったという。そして今、自己破産を考え、住所の確保は済んだので生活費を確保するためにここにたどり着いたのだという。

彼の話を聞きながら、私は心が痛んだ。何とかして彼を助けたいと強く思った。ソーシャルワーカーと協力し、最短で生活保護の支給ができるように手配を進めた。自己破産については法テラスに相談していることがわかり、生活保護からの返済義務がないことも確認した。彼の手元には3000円しかなく、支給までには1週間以上かかるため、その間はフードバンクから食料を提供することにした。また、家電や家具が何もないということで、中古品の斡旋も行った。

「ほんとは門前払いされると思ったんです、働けるでしょ、って。こんなに自分のために頑張ってくれる人がいるなんて、本当にありがとうございます」と彼は声を震わせながら感謝の言葉を口にした。その言葉に、私の心は少しだけ軽くなった。彼の生活が少しでも安定するよう、私はできる限りのことをしたいと思った。

無事に生活保護の支給が決まり、彼には2ヶ月間の支援が行われた。その後、傷病手当が支給されるようになり、生活保護は廃止された。廃止の日、彼は何度も「申し訳ない」と謝っていた。生活保護を受給することが彼にとっては恥ずかしいことだったのだろう。しかし、私は彼に「これはあなたの権利です。決して恥じることではありません」と伝えた。彼の表情には安堵が浮かんでいた。

それから1年が経った頃、彼が再び生活福祉課に現れた。以前よりも少し落ち着いた表情をしていた。家族とはまだうまくいっていないが、新しい仕事を見つけ、リモートワークで自分のペースで働いているという。「納税して、ちゃんと返します」と真面目な顔で言った彼は、相変わらず誠実だった。

彼の言葉を聞きながら、私は自分の仕事に対する見方が変わったことに気づいた。いつか自分も、この制度を利用する立場になるかもしれない。そして、本当に生活保護によって救われる人がいるのだと感じた。私の仕事が、誰かの人生を支える役割を果たしている。そのことに、少し誇りを持てるようになった。


法テラスとは?

法テラス(日本司法支援センター)は、法的トラブルに直面した人々が、弁護士や司法書士の支援を受けられるように設立された公的機関です。特に経済的に困難な状況にある人々に対して、無料の法律相談を提供したり、弁護士費用や裁判費用を立て替えたりするサービスを行っています。これにより、所得が低くても法的なサポートを受けることができるため、自己破産を検討している人や、債務整理を必要としている人々にとって大きな助けとなります。

自己破産とは?

自己破産は、多額の借金を返済することが困難になった場合に、裁判所を通じてその借金の支払いを免除してもらうための手続きです。これにより、借金を抱えている人が経済的に再スタートを切ることが可能になります。自己破産は、債務者にとって大きな決断ですが、債務整理の一環として、法テラスの支援を受けながら進めることができます。

生活保護とは?

生活保護は、経済的に困窮し、最低限度の生活を維持することができない人々に対して、国が生活費や医療費を支給する公的な制度です。この制度は、日本国憲法第25条に基づいて設けられており、すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を保障しています。

生活保護の支給は、各市区町村の福祉事務所が担当しており、申請を通じて受給資格が審査されます。支給される内容には、生活費の補助、住居費、医療費の補助などが含まれ、生活保護を受けることで、経済的に厳しい状況からの立ち直りを支援することが目的です。また、生活保護を受けることに対する偏見もありますが、これは権利として認められているものであり、誰でも必要な時に利用できるセーフティーネットです。

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