深慟憂慈

深慟憂慈

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国語の授業が辛くなった話。

 最近、文学国語という授業で坂口安吾の「文学のふるさと」と題された批評文を読んでいた。僕は、文学が(あまり詳しくないにせよ)好きでこの文章も、面白いこと言ってるなと思いながら授業を受けていた。詳細は省くが、多分に共感できる部分があったし、また新しい考えも知ることができたため、今日の授業までは比較的楽しく話を聴いて、自分なりに解釈してみたり、今まで見てきた文学に当てはまるところとか、そういうことを考えながら五十分間を過ごしていた。今回は文章ももう終わりに近く、次の授業ではどれを

    • Hurts, doesn’t it?

       あなたの痛み。あなたの苦しみ。あなたの叫び。あなたの表情。どれも私程度では到底理解の及ばないもので。  あなたの言葉をツギハギして、私はあなたを作り上げているのですが、どうしても分かりません。どのように痛いのか、どのように息苦しくて、どうしてあなたが悲しまなければならないのか。  憚りながら申し上げます。私はあなたの痛みを知りたかった。共有された痛みの一端に触れて、少しでも心の傷に同じ模様を見出したかった。  私は何も分からないけど、いつまで経っても、私の苦しみはあなたに及

      • 喪失に耐えられない、あまりに脆弱かつ軽薄な心。

         三年か四年、あるいはもっと長い間好きで居た人に、苦手だと言われた。直接ではない、エアリプで。でも私が見ていることを知っているし、内容とか時期からして、きっと私に向けて言っていた。  私はもう立ち直れないと思った。全て自業自得なのに、なぜか周りを恨んだ。愛されたかった。彼女だけが心の救い、みたいなものだった。辛い世界で生きていて、ほとんど会うこともない彼女のツイートを見るために生きているような気がする。  そこに彼女の意思があることを確かめて、彼女が生きていることに安堵して、

        • 環境音、教室、音割れ。

           教室の喧騒は、私にとってナイフのようなものだった。6時間目の後、掃除を終えてから帰りの会までの時間は、中学3年生の頃の私にとってあまりに苦しい、地獄のような時間だった。  いつだって何か騒いでいる男子がいた。かん高い声で喚くように喋る女子がいた。そして、それらを意識から締め出すことができなくなった私がいた。受験のストレスなのか、他に原因があるのか。甲高い声も、騒いでいる声も、ずっと安物のイヤホンで音楽を聴いているような、音割れのような不快感に襲われる原因だった。  いつしか

        国語の授業が辛くなった話。

          存在しててえらい

           すごく、くだらないことを申しますと、私にも恋愛感情というものがございます。俗っぽくて、自分でも嫌になる。愛情と劣情の区別をどうつければいいのか分からない思春期の私。  そのひとは、私が物事を脳内で咀嚼し解釈を得る行為を、素晴らしいと讃えてくれました。そして、存在しているだけでも偉い、とも言ってくれた。どこまでが本心なのかわかりませんが、そのひとは素直なので、きっと本心でしょう。そうでなければ私はもうどうすればいいのか分からない。  私という人間は単純で、少なからず好意を

          存在しててえらい

          Wake me up when September ends.

           夏は焦燥の季節と、勝手に名づけた。知らず知らず、この名前を共有している意識があるかも知れないがどうでもいい。  六月の終わりに何を思ったのか。七月をどう過ごそうと思っていたのか。私はもう忘れた。八月はもうやって来て、何も出来ないまま今日は終わった。いつまでも、ただ微睡んでいたい。  九月が終わる頃に目を覚まして、「ああ、朝だな」と思いながら、全て普通になった「僕」で学校へ行きたい。一度足を踏み入れたが最後、もう戻ることはできないと知っていたら、どうだろうか。しかしそれで

          Wake me up when September ends.

          心中。

           Twitterアカウントを一時的に凍結されました。  「心中」を含むツイートはダメらしい。ツイートボタン押した瞬間にアウトになった。「自殺」や「死にたい」はいいのに心中はダメとか、意味がわからない。自殺教俊にあたるからでしょうか。  凍結くらった際にメールが来たのですが、「あなたは一人じゃない」とか「相談する場所があります」とか、そんな感じの内容が書かれていました。  それで人一人の命を救える気になっているのでしょうね。  というかそもそも、「心中」自体は別の読みで別

          一心不乱に何かしてみたい。

          前回の続きではありません。 ーーーー  私は何も頑張れない。  幼少の時分、私は水色のアコースティックギターを買ってもらった。父親の給料とか、家計の状況を鑑みるに、高い買い物だったに違いない。今ではそのギターはただひたすら窓際にぶら下がる影である。  小学生になり、サッカー少年団に入った。ユニフォームやマイボール、脛当てなど、どれも安くはない。ないお金を捻出してもらい、私はサッカーに包まれた。まともにボールを蹴る日は、一年に一度あればいい方だ。  中学生の終わり頃、

          一心不乱に何かしてみたい。

          恥だらけの人生です。

           私には才能がある。凡人のお前らとは違って、難解な事象も理解できるし、再現だってできる。  それなのに、お前たちのようなクソ楽しそうな人生を送れないのは……  思えば小学生の頃からだった。私が自分の「才能」を信じ周囲を見下すようになったのは。図書室で低学年向けの易しいストーリーの「えほん」や単純で意味がなさそうな間違い探しや、迷路の本を手に取る同級生を、僕はハードカバー片手にはっきりと見下していた。  お前たちは活字のなんたるかを知らない。お前たちは文学の何たるかを知らない

          恥だらけの人生です。