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【短編】けんちんそば

   母が倒れた。上京して15年が過ぎ、近頃は仕事が忙しく正月であっても田舎に帰ることも無くなっていた。そんな時、滅多めったに電話なんてかけてこない父から緊急だと連絡があったのだ。どうやら元々の持病が悪化したとのことだが、父も詳しいことは把握してないようで電話口からは少し落ち着かない雰囲気が感じ取れた。結局私は、会社を早めに上がって荷物を詰め、二週間ほど帰ることにした。

「お母さん、ただいま」
 平日の病院は、思いの外空いていた。と言っても多くの人が訪れ、一様に明るさとは逆の顔をしているので、それに影響されてか母の顔を見るまではどこか緊張と不安があった。
「あら、思ったより早いわね」
カーテンの向こうから聞こえた声は、想像よりケロッとしていた。母がいるベッドの区画まで歩くと、カーテンが開く。それを端で束ねる母は、それでもやはり痩せていて、元気がなさそうに見えた。椅子とテーブルに荷物を置いて、明るい顔を母に向ける。
「なんだ、思ったより元気そうじゃん」
「なんだって何よ、お母さんが元気じゃない方がよかった?」
「そんなこと誰も言ってないでしょ。お父さんが狼狽ろうばいしてたからちょっと覚悟決めかけたわ」
「まだヨーロッパ旅行の計画があるから死ねないわよォ。あんたこの前イタリア行ってたわよね、どうだった?」
「この前っても、2年くらい前だけど。良いとこよ、時間がずっと止まっている感じで。おしっことタバコが臭いのと、夜はヘロイン中毒者がたまに出るからそれだけ注意ね。私ローマ行けなかったから二人で行きなよ」
「やだ、ちょっとキケンな香りがするわね。ローマねェ、お父さんはフランスもドイツもスペインも行きたいみたいだからあんまり日程に余裕ないからどうかしら。ていうかあんた、香水の匂いちょっとキツイわ、下品だからやめなさいよ」
「え、ほんと?鼻が麻痺まひってきてるかもなー。」
「年ね」
「お母さんに言われるとは」
 話し始めれば昔のように脱線脱線の連続で、母のちょっぴり毒舌で、でも軽快な口に安心感を覚えた。その後の検査結果は良好で、週末には退院できるとのことだった。入院食にはうんざりのようで、「人は一定量の毒を喰らわないと幸せを感じない動物だわ」と、いつものようにケタケタ笑って言った。







 大根とにんじんをいちょう切りに、ごぼうは厚めのささがきにする。里芋は皮を剥き軽く塩揉みをしてから水に晒して、その間に干し椎茸しいたけを戻す。母は、いつも具材が大きかった。小さい頃から、何かあるごとにけんちんそばを母に作ってもらっていた。良い事があった時、落ち込む時、試験の前日、風邪で寝込んだ夜。どんな時もけんちんそばは私に寄り添ってくれ、じんわりと体に染み渡るそのうまみは母からの温もりのようで好きだった。
 鍋に油を温め、用意した野菜と適当に切った豚の薄切り肉を炒める。油を吸った野菜たちは途端に香ばしい香りを広げる。肉の焼き付いた色は、いつみてもお腹の虫を誘う。ある程度炒まったら、予め昆布と鰹節かつおぶしでとっただし汁を入れ、油揚げを加え煮立たせながらアクをとる。「アクが旨味だとかの話、私にはどうでもいいの。見栄えと色が良くないからとるだけよ」と母がいつもニヤリとした顔で言っていた。私もそう思う。濁った色を丁寧に取り除くのは、食べ物に対しての礼儀みたいなものだった。
 早めに火を止め、まだ野菜が少し固い状態に仕上げる。母のけんちんそばは野菜が固いのだ。でもそれが、私の好きなけんちんそばだった。醤油とみりんで味を整え、あとは乾そばを茹でて完成である。

 「あら〜けんちんそばじゃない。久しぶりに食べるわ、あんたがいなくなってから滅多に食卓に現れなくなったから」
ネギを散らしてどんぶりに盛られたけんちんそばは、まさに母に作ってもらっていたそれだった。思い出のけんちんそばを、またこうして家族で食べられるとは。今年の正月はまた顔を出すかと思った。しかし、食べる母の顔を見ると、少し難しそうな表情をしている。
「あれ、どーしたのお母さん、なんかヘンだった?」
「これ、ちょっと固いわ。もう少し柔らかくしないと」
「え…本当?」
「私が作ってたけんちんそばは、もうちょっと柔らかかったわよ」

「ちょっとお父さん、今の顔見た?そんなに面白いことしてないわよねェ」
「しらけた顔を撮られるよりは良いんじゃないか」
食べ終わり、両親はテレビを見て談笑だんしょうしている。バラエティのワイプ画面に映る、タレントのオーバーリアクションに対する評価をするのが二人は好きで、いまだにそれをやっている。私が作ったけんちんそばは、絶対に母が今まで作ってくれたものと同じだった。味も、蕎麦の茹で時間も、そして野菜の硬さ加減も。何も変わらないと思っていた、私の拠り所。変わらずに接してくれ、温かい心地をくれる父と母。でも、確実に時間の経過があった。今の母には、私のけんちんそばは固いのだ。今度作るときは、もっと煮込んであげよう。そう思い見つめるテーブルに置かれた具沢山の水面は、なぜだか強烈に、私を泣きたい気持ちにさせた。

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