わたしは「わたし」ということ。
「私以外私じゃないの 当たり前だけどね」
って。
子供のころにニュースになっていて、
なにも知らずに口ずさんでおり、
この曲が家のテレビからよく流れていた。
なんとなく今、あらためて聞いてみたら、
私にはインパクトが大きく、とても感銘を受けた。
一番衝撃だったのが、
『当たり前だけどね』って続く歌詞。
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人間には「二面性」があるとよく言われる。
私くらいの歳でも、同じようなニュアンスの言葉を「うるさいくらい」聞いている。
これから20年後には、何回この言葉を聞かされるのだろうか。
今から頭がボーっとし意識が遠くなる。
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私は、リアル(現実)とネット上の人格がそれぞれあるようだ。
それは友人や知人にも言われる。
よく言われるのが
「みほ人格ちがくない?」「裏表ありすぎ」等々
こういった事を人生で37回は聞かされている。
それに対する答えは、以下ということになる。
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まず私は「二面性」を持っているのではなく、
「三面性」を持っているのである、と勝手に解釈している。
調べると、この三面性という言葉は、
不動産用語らしい(価格の三面性)
しかし、ここで私が言う三面性とは、
「リアル」≒「ネット1」≠「ネット2」≠「ネット3」
まず「リアル」の自分がいる。
そしてネット人格上の「ネット1」がいる。
この2者は大体同じ。nearly equal.
具体的に言うと、Xで「ポストしている私」
「ネット2」の人格とは、
DMおよび通話での「深いやり取り」のこと。
この事については、ここでは明示しない。
「ネット3」の人格とは、
このnoteに書いていること。
「ネット2」「ネット3」は、
リアルで出していない人格となる。
いや、リアルで深い関係になれば出せる人格。
どんな人格を持っていても、
「わたし」は「わたし」であることには変わりがない。
『当たり前だけどね』
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「裏表」「〇面性」
すべて人間が勝手に決めたことに過ぎない。
しかし結局のところ、
人間が「決めた」「当てはめた」「枠に入れた」
ことの中で生き続ける。
そこには善悪なんてない。
「あの人『いいひと』だよね」
「あの人『優しい』よね」
「あの人『怖い』よね」
すべて他者と比較し、
なにかの形に当てはめている。
そういった定義がないと、評価ができない。
すべての比較を一旦抜いて、
物事を全くニュートラルに見ることは可能だろうか。
そこでは、どんなモノの見え方をするのだろう。
比較のない世の中を想像してみるけど、
全くできない。1mmもね。
『あの人は「痩せて」いる』
『あの人は「イケメン」だ』
すべてが比較。
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私はカフェで「ほろ苦いコーヒー」を飲み終わる。
左横には20代くらいの女性がひとり。
ペンを持って紙にペンをたてて、何かの勉強をしていた。
この女性に彼氏はいるのだろうか。
Xで裏垢を使っているのだろうか。
そこでは今の勉強している姿とは違うのだろうか。
いろんな思いを巡らせる。
どんな人格を持っていても
わたしはわたし。
つづく。
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