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(会話)

よく会う人に不快感を抱き始めたとき、少しだけ距離を置くことも必要だな、と感じる。
要は、人間関係の線引きを自分なりにわきまえていないと、余計ややこしいことで悩みかねない、ということなんだと思う。

もちろん、その人なりの表現の仕方だったり、意思疎通の方法かもしれない。誰しもその時によって対処の仕方はちがったり、浮き沈みもあるもの。

けれども、相手に不快感を抱き始めるという不信感がどこかずんずんと積み重なっていく。そう思えば、どこかその時点で私は、今後うまくいく関係ではなさそう。と悟りだすことがよくある。“ああ、この人とは話し合えないのかも”というような感じで。
「その人=その人の話し方や言葉のつかいかた」というような、ちょっとしたことではあるけれども、だいぶ快さは変わってくる。
今後、わたし自身も、「伝え方」というのは、もうちょっと選びながら慎重に語っていきたいなあ、と思う。

近頃、そんなことをあちこちで考えながら過ごしていると、今日みた動画の中で、こんなことを言っている人がいた。
“人は、話し手が話した内容は覚えていないが、その人によってどういう気分にさせられたか
は覚えている”──と。

「ああ、そういうことか」
この文章を読んだ瞬間、自分自身の違和感の根本と重なり、少し気楽になった。

人生で誰と関わるかによって、人間関係での幸福感は大きく変わってくるということは、どうも真だな、とわたし自身、思い始めているところ。

もう一度、だいじなもの、瞬間、人たち──
について目を向けて、積極的に行動していこう。
改めて、そう思うこのごろ。


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