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安田守『イモムシの教科書』

☆mediopos-2336  2021.4.9

イモムシをはじめ
苦手だと感じるものがある理由の多くは
ちゃんと見てない見えていないからだろう

ムズカシそうなことを考えるのが苦手なのも同じで
壁を感じて考えようとするずっと手前にいる

まずは見てみること
考えてみることからはじめれば
距離はずっと縮まってくる

名前を覚えることだけでは
それを知ることにはならないが
名前を知るということは
名前の異なったものとの差異がわかるはじめだ

名前がわかると
名前で表されるものと
ほかの異なった名前との関係
それらの背景にあるものとの関係
そうしたことも理解されはじめるようになる

分かるためには
まず分けることからはじめ
分けることを通じて
分けられないものを分かることもできるようになる

私たちが地上に生まれてくることも
生まれてくることによってしか
分からないことがあるから生まれてくるのだろう
そのためにはまず言葉をおぼえ
名づけることをおぼえ分かり
さらにはそうすることで
地上での生を超えたものをふくめて
分かることができるようになるのだといえる

さて話はイモムシから離れすぎたが
「虫屋(虫を愛している人)」が
「標準から外れた特異な姿をしている」虫を
「かっこいい虫」と思い
「変わりもの=いい、かっこいい」と思うことに共感できる人は
世の中の「標準」「あたりまえ」を生きようとすることから
どこか外れて生きようとする人なのかもしれない

それに対して「標準」「あたりまえ」を生きようとする人は
「標準から外れた」ものが見えない見えていない人だともいえる
「違いがわからない」で「群れ」のなかにいる人たちだ
「身近にある、遠い自然」から
「あたりまえ」のように遠く離れた人たち
「さういふひとに私はなりた」くはないと思う

小さい頃からぼくは虫屋で石屋で魚屋だったが
とくにここ20数年休みになると
「身近にある、遠い自然」で
いろんなものを観察することを楽しみにするようになった

そのことはちょっとばかり難しそうにも思える哲学とかを
「身近にある、遠い自然」として「観察」してみるのと
基本的なところで変わらない
「かっこいいじゃん」と思えたらめっけものなのだ

さてそろそろ春から初夏への季節
野山に出かけて花に虫に
「かっこいい」ものを観察するのに忙しくなる
ひとつ名前をおぼえるだけで
「遠い自然」も「身近」に感じられるようになる

■安田守『イモムシの教科書』(文一綜合出版 2019.5)

「僕は生きものを相手にする写真家で、最近はよくイモムシを撮影している。」
「僕が以前イモムシを苦手にしていたのはどうしてだったのか、思い出してみる。まずイモムシは体がやわらかい。「つぶしてしまうんじゃないか」と心配で指でつかむのを躊躇してしまう。あるいはイモムシは顔を伏せほとんど動かず、見ていて面白みに欠ける。そのころは種類の見分け方を知らなかったので、名前がわからず親しみがわかない。飼育して成虫まで育てれば調べられそうなのだが、それには時間も手間もかかって面倒そうだ。しかも毒をもつ種類だったら近づきたくないし・・・・・・。否定的な理由をいくつもあげられるほど、僕にとってイモムシは見かけてもスルーする存在だったのだ。
 そんなイモムシ敬遠派だった僕に一つのきっかけが訪れた。ある本の制作のためイモムシを取材することになったのだ。」
「思いつきを形にするべく、近所の雑木林でイモムシ探しを始めた。すぐに気がついたのは「イモムシはたくさんいる」ということだった。おりしも幼虫ハイシーズンの春。木の葉をめくるとイモムシがつぎつぎと見つかった。その場で種類がわからないもの(ほとんどだ)は連れ帰ることにしてビニール袋に収容したが、袋がみるみるたまって持ちきれなくなった。イモムシは思っていたよりもすごくたくさんいる。そのことがまず新鮮だった。
 形態や色彩が想像以上に多様であることもわかった。角のある頭、体から飛び出す突起、長い脚、ハブラシのような毛の束、黄色、オレンジ色、赤色、青色、横縞、縦縞、目玉模様・・・・・・。それまでの「イモムシってこんなもの」と勝手に抱いていたイメージから外れたものがたくさんいることに気づいたのだ。
 虫屋(虫を愛している人)は虫に対する賛辞としてしばしば「いい虫」とか「かっこいい虫」という表現を用いる。見た目に限らずいくつかの要素を含む評価だが、その一つに「標準から外れた特異な姿をしていること」がある。生きもの好きの世界では「変わりもの=いい、かっこいい」である。自分が標準と思っていた姿から大きく外れたイモムシがつぎつぎにあらわれる。これは楽しい。今まで見ようとしていなかったばかりにこんな世界を知らなかったのか・・・・・・。
「イモムシ、かっこいいじゃん。これは面白いかもしれない」」

「僕は専門的な研究者ではなく、一介のイモムシファンだが、この本を通してイモムシの世界を紹介したいと思っている。」
「目の前の葉っぱにいるイモムシは、多くの生物とかかわりながら永い歴史を生きてきた野生生物だ。人は物語を通して目の前のものをより深く理解することができる。」

「僕がかつてイモムシを敬遠していたのには、体の柔らかさや生っぽさ、有毒性といった、ある種の気持ち悪さを感じていたところがあったのだと思う。ところがいざ実際に観察を始めると、この本で紹介してきたように大変魅力的な世界が広がっていた。新芽擬態のカギリシスジアオシャクに感心し、エイリアンみたいなシャチホコガの姿にびっくりし、毒々しいリンゴドクガの威嚇ポーズに「おーっ」などと言っているうちに、イモムシを「かっこいい」と思うようになった。もっといろいろなイモムシたちを見たい、イモムシのことをもっと知りたいと思った。イモムシの周囲にいる生きものたちのことも知りたくなった、振り返ってみると、イモムシは僕にとって「自然を学ぶ」授業の強力な教材だったのだ。
 教員時代から自然を見るときのヒントとしてきたことばに「身近な自然、遠い自然」がある。写真家の星野道夫さんがたびたび使われていて、人間にとって日常の近くにある自然も遠くにある自然もどちらも大切という意だ。最近、僕はこれを「身近にある、遠い自然」と読みかえるようになった。日常の暮らしで自然や生物に直接触れる機会はますます減る傾向にあって、一方でテレビやインターネットには遠い国の奇跡の大絶景や珍奇な希少生物の映像があふれている。異国の自然は知っていても暮らしのすぐそばの生きものの存在には気づかない。それは本来身近なものであるはずなのに、まるではるか遠くにある自然のようだ。とりわけイモムシは一般に敬遠されがちで、その代表みたいな存在ではないだろうか。現代の都市生活がそういうしくみの上になりたっているから仕方がないという面があるけれど、このバーチャルとリアルがかけ離れた自然認識はもう少し何とかならないものかと思っている。」

「実際に野外に出てイモムシを観察する場合、いつ、どこへ行けばいいだろうか。基本的にはいつ、どこであっても、植物さえあえあれば何かしらのイモムシはいるはずだが、より多くのイモムシに出会いやすい時期や環境の条件について考えてみよう。
 時期はどうだろうか、春夏秋冬それぞれにイモムシは見られる。春にはシャクガやヤガ、初夏にはシャチホコやドクガ、夏は大型のスズメガやヤママユガ、秋には秋にだけ発生する種や年二回発生する種の二回目、冬には幼虫越冬する種という具合にイモムシ相は移り変わり、それぞれの季節なりのイモムシウィッチングが楽しめる。ただ一般に植物が若葉を広げる季節が幼虫期となるような周年経過になっている種が多い傾向にある。だから、より多くのイモムシに会える可能性のあるベストシーズンは、日本では春から初夏にかけてといえる。
 では多くの種類のイモムシに出会えるのはどのような環境だろうか。イモムシはそれぞれ特定の植物しか食べない。だから仮に植物が1種しか生えていない環境であれば、それを食草とするごく限られたイモムシしか見られない。逆に多くの種類の植物がある環境ならば、それだけさまざまなイモムシに出会える可能性がある。多様な植物が生育する環境とは、身近な例では集落、田畑、雑木林など多様な環境がパッチ状に組み合わさった里山とよばれる環境だろう。」

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