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ヴィム・ヴェンダース監督ロングインタビュー『PERFECT DAYS』・【第4弾】「観客自身を、平山にする」・【第5弾】「小津が、そこにいる」 ・【第6弾】「どう撮ればいいのかわからない、それが理想

☆mediopos3337  2024.1.6

昨日に続き
ヴィム・ヴェンダース監督『PERFECT DAYS』の
ロングインタビューから

第4弾「観客自身を、平山にする」では
映画は登場人物の目を通してものを見ることで
人のものの見方を変えることができると語っている
(画家や詩人についてもいえることだが)

映画『PERFECT DAYS』では
観客は「平山の目を通して見る」ことになるのだが
その「平山の目」とは

第5弾「小津が、そこにいる」で語られているように
「すべてのものを
 たった一度しか存在しない何かのように見つめる」目で

その「すべての注いでいる注意力は
彼を見つめる観客にも伝染していく」ことになる

そうした「些細なものに意識を注ぐ」ことは
小津安二郎の映画に見られると同様
「極めて日本的な感覚」だという

そして「小さなものや繊細なものに敬意を払う」ように
「些細なものに気がつかなければ
大きな世界のヴィジョンを持つことも」できないという

「小さなものに意識を向けるからこそ、
 大きなものが見えるようになる」

そうしたまなざしを通して
平山は私たちにその物語をみせ
経験をともにさせてくれる

第6弾「どう撮ればいいのかわからない、それが理想」では
そうした平山のまなざしで描かれる映画『PERFECT DAYS』は
「プロセス」であるという

映画とは「極めて具体的な経験を可能に」し
「その経験を通して豊かになること、その経験を手渡しすること」
「そのプロセスを渡す」ことなのだと語られる

しかし「映画が商品になってしまったら」
それは「眺めるだけ」のものになってしまう
それに対して「プロセスでは、人が中へと入ってい」く

商品は消費される受け身のものだが
プロセスは「私自身が巻き込まれる」ことになる

平山の生き方とは
「あらゆることは初めて起こることなんだと学」び
「些細なことを喜んでいて、そういったことに敬意を払い、
ひとつひとつのかけがえのなさを知り」
「木漏れ日がこの中全体でたった一度しか
見られないものだということに気がついてい」る
そんな生き方であり
私たちはそんな「平山の目」を通し
そのプロセスを経験する

そのように映画『PERFECT DAYS』は
わたしたち鑑賞者に
「消費者になるしかない牢獄から連れ出す」
プロセスを経験させてくれる映画となっている

私たちの多くは
「小さなものや繊細なもの」に鈍感になり
商品を受け身的に消費するだけの
「牢獄」のような生活に埋もれがちである

「平山の目」を通じ
そんな「牢獄」からどのように「脱出」できるかを経験し
さらには平山とは異なった「脱出ルート」においても
見出していくきっかけにできれば・・・

■ヴィム・ヴェンダース監督ロングインタビュー『PERFECT DAYS』
 【第4弾】「観客自身を、平山にする」
 【第5弾】「小津が、そこにいる」
 【第6弾】「どう撮ればいいのかわからない、それが理想」

(【第4弾】「観客自身を、平山にする」より)

「映画で誰かの視線のカットにつながった瞬間、強力な効果が生じます

 観客として観ている自分が、信じがたいのですが、
 もはや自分の意思すら関係なく
 観客はその人物と同じようにものを見ることになる

 技法としてはリバース・ショットと呼ばれる
 ヨリのリバース・ショットから、その反対側のPOVに移ると
 その切り返しによって
 観客は登場人物の目を通してものが見えるようになる
 すると、選択の余地なく、観客が平山になる
 平山の目を通して見ることになるから

 これは、映画が可能にする
 とてつもない強大な何かです
 これによって、だんだんと人のものの見方を
 変えていくことができる

 一部の映画の巨匠たちが起こしてきた、
 多いなる奇跡のうちのひとつです
 彼らはこれをたえずやってみせた
 こうやって、人々のものの見方を変えてきたんです」

「こうやって、観客をその世界に招いて、
 目を、ものの見方を変えて、
 別の誰かとしてものを見るようになる」

「映画は人の視覚の様式に踏み込んでいく
 偉大な作品というのは、
 人のものの見方を変えてきた
 偉大な画家たちが、言うまでもなく、
 人のものの見方を変えたように
 それから偉大な詩人たちも、
 言葉の見方を変えてきた」

(【第5弾】「小津が、そこにいる」より)

「彼はすべてのものを
 たった一度しか存在しない何かのように見つめるし、
 どんな細部にも注意を払っている
 彼のルーティーンをあんなにもたくさん見せることができたのも、
 これのおかげです」

「あの関心の高さは、彼がトイレ掃除のプロセスでみせる
 職への献身的な態度にのみ宿る

 平山がすべての注いでいる注意力は
 彼を見つめる観客にも伝染していくんです」

「彼の注意力やまなざしによって
 彼は物語を見せてくれました

 かつて別人だったこと、それから些細なものに
 よく気がつく人物へと変わっていったことを

 葉っぱや光や影など小さなもの、
 それからあれらのトイレの美しさ」

「映画は非常に日本的なものになりました
 奇妙な仕方で小津の存在があったこと、
 それから役所広司が彼自身によって平山を満たしたこと、
 あの注意力を宿したことによって

 私からすれば、それは極めて日本的な感覚です
 些細なものに意識を注ぐこと、
 大きな世界のヴィジョンに繊細なものが
 大きくかかわっているという自覚を持つこと
 些細なものに気がつかなければ
 大きな世界のヴィジョンを持つこともありません
 ただ、些細なものに気がつくことができたら、
 それがそのまま大きなヴィジョンをもつことにつながります
 けれども、些細なものを軽視すると、
 偉大なもののヴィジョンを持つことは決してできないんです

 方法は、小さなものや繊細なものに敬意を払うこと
 影の落ちる様子や、それが触れる仕方
 工芸品が美しいのも同じ理由です
 小さなものに意識を向けさせるから

 小さなものに意識を向けるからこそ、
 大きなものが見えるようになるんです」

(【第6弾】「どう撮ればいいのかわからない、それが理想」より)

「作り方がわかたないから、
 映画を作るのは好きなんです

 テーマについて充分に知らないし、
 平山についても充分に知らない
 ああいった簡素な生活についても充分に知らない
 それから、慎み深さについても充分に知らない
 あんな風に何もかもに対して
 意識を向けることについても充分に知らない
 
 これらは『PERFECT DAYS』を撮ること、
 平山の宇宙を明らかにすること、
 願わくは私にとってと同じように鑑賞者にとっても
 新しい世界に浸ってみることに理由として非常にいい

 私の確信していることのひとつに、
 私自身がそれを学んでいなけえば、観客がそれを見たり、
 学んだり、好きになったりすることはない
 というのがありますから
 それを好きになる方法がわからなかったら、
 ある世界へと入っていく仕方がわからなかったら
 どうして観客にそれが可能になるでしょう

 映画とは、極めて具体的な経験を可能にする
 数少ない職業のうちのひとつなんです
 それから、その経験を通して豊かになること、
 その経験を手渡しすること
 結果だけではありません
 そのプロセスを渡すんです

 映画には必ずその作品のマニュアルがついてきて、
 その見方まで教えてくれます
 どの映画も同じ仕方で見る、というのはできません
 それぞれがユニークな見られ方を求めてきます
 独自のスタイルを見せてきて、固有の文法があるんです

 ですから、
 これからも映画を撮り続けようと思います
 ひとつひとつの作品が学びのプロセスで、
 作品ごとに語り方を探り当てる必要があるからです
 固有の文法があって、固有の語彙を使ってきて、
 それは新しい言語そのものです
 しかもその言語を、他の作品に適用することはできない
 不可能です
 常に、ゼロから始めなければいけない

 ゼロから始めず、経験に頼りすぎると、
 何かが欠けてしまって観客がついてこない
 少なくとも、あまり巻き込むことはできなくなってしまう
 既製品を見せていることになるから
 映画が既製品になってしまったら、
 観客がそういう風に受け止めても
 がっかりする資格はありません
 それは、商品だから
 私は、映画を商品とみなしてはいません
 映画は、経験とプロセスなんです
 私にとって映画がそういったもので
 あり続けてくれていることをうれしく思います

 プロセスというのは、受け渡すことができます
 映画が、プロセスを見せます
 プロセスを見せることで、観客はその内へ入っていき、
 その一部になることができるんです

 ですから、プロセスを見せない映画を
 好きになったことはありません
 閉じたシステムのような
 ただ、見せられたものを見なくてはいけないような
 行間を読む、という作業がない
 見えるものがすべて

 それよりも、観客がプロセスに寄り添い、
 私たちが見るように、
 どういうわけで作ったのかがわかるように、
 役者が見るように、
 カメラマンが見るように、
 スタッフが見るように、
 私は、セットにいる全員が
 映画に影響を及ぼすと強く確信しています」

「映画が商品になってしまったら、それは大きな違いです
 商品は眺めるだけです
 プロセスでは、人が中へと入っていきます
 『PERFECT DAYS』は、まさにプロセスでした
 撮影の最終日までプロセスであり続けた
 それは、映画のラストショットでわかります

 平山が音楽を聴いていて
 作品のあの瞬間に、私たちはすでに親しんでいます
 作中彼はたくさんの曲を流してきましたから
 カセットを入れて、音楽を流す
 これはすでにわかっていることです
 けれども突然彼はまったくこれまでとは別の姿を見せます
 まるで人生で初めて歌を聴くかのように
 耳を傾ける仕方を見せる
 もちろん、ニーナ・シモンも大きな助けになりました
 彼女の歌と歌い方には、
 どう抗っても持っていかれてしまうから

 「Feeling good」を
 平山はこれまで一度も歌というものを
 聴いたことはないかのように聴きました
 彼は言葉のひとつひとつに耳をすませ、
 ひとつひとつの言葉になり、彼は聴く人になります
 そうすると、観客も聴く人になります
 これが、プロセスの指すところです
 観客をプロセスに巻き込むこと
 平山がたくさんの曲をカセットで流すところは見ています
 けれども、彼が本当の意味で聴くところは
 それまで見てこなかった
 それが唐突に、映画のラストショットで
 それが何かを彼は見せてくる

 これが、商品とプロセスの違いということで
 私が言いたいことです
 映画が完全に商品になっている場合、
 私はたいていすぐに飽きてしまいます
 そういうとき、私は消費者になるからです
 
 消費者でいるということも楽しくはあるし、
 ときにはただ消費したいこともある
 場合によっては、消費することはいいことです
 けれども結局のところ、これは私を必要としてはいない

 消費は受け身です
 それがプロセスになると、
 私自身が巻き込まれる
 私の身体と、それから魂が

 ラストシーンの平山は
 私たちを本葉に強く巻き込みます
 私が言いたいのはそこです

 映画の最後の最後のショットまで、
 あれはプロセスなんです
 トイレ掃除について学んで、
 それから、トイレ掃除がいつも同じではないことを学ぶ
 すると、同じということはありえないことを学ぶ
 映画を通して、徐々に、
 あらゆることは初めて起こることなんだと学ぶ
 それが平山の生き方です」

「何もかもが、ひとつずつ起こる
 これは現代ではもはや隠されている生活です
 私たちは消費する生活にすっかりはまっていて、
 商品ばかりの世界に暮らしていて
 そんな世界の一部になることを拒否しているある男が、
 あらゆることを初めてやっていて、
 些細なことを喜んでいて、そういったことに敬意を払い、
 ひとつひとつのかけがえのなさを知っている
 その人物は、木漏れ日がこの中全体でたった一度しか
 見られないものだということに気がついています
 彼がそのたったひとりの鑑賞者だったかもしれません
 この気づきこそが、『PERFECT DAYS』で
 私が本当に大切に思っていることです

 これがあるからこそ、本作は現代の鑑賞者たちを
 真に巻き込むことができると考えています
 彼らを、消費者になるしかない牢獄から
 連れ出すことができますから
 とんでもない牢獄です
 つまりは、私たちの暮らしている場所ということですが
 けれども、脱出ルートはいくつかあります
 平山は、そのうちひとつを見つけました
 彼は私たちに、
 どうやってこの牢獄かた抜け出せたかを教えてくれます
 彼の暮らしがユニークで大切なのはそのためです」

【第4弾】「観客自身を、平山にする」ヴィム・ヴェンダース監督ロングインタビュー『PERFECT DAYS』

【第5弾】「小津が、そこにいる」ヴィム・ヴェンダース監督ロングインタビュー『PERFECT DAYS』

【第6弾】「どう撮ればいいのかわからない、それが理想」ヴィム・ヴェンダース監督ロングインタビュー『PERFECT DAYS』


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