見出し画像

『岡潔対談集/司馬遼太郎・井上靖・時実利彦・山本健吉』

☆mediopos-2365  2021.5.8

認識の根底には情緒があると
岡潔は繰り返し言っているが
その意味での情緒は
喜怒哀楽の感情を意味してはいない

情緒によって働く智力を
ここでは大円境智といっている
大円境智は感情では働かない

感情と結びついているのは
「第一の心」であり
情緒と結びついているのは
「第二の心」である
そしてそれは時間も空間もない
「全体性」として働いている

「第二の心」は
エーテル的な集合知ともいえるだろうが
人間の場合それを得るためにはおそらくは
自我意識によって生まれる個というプロセスを通り
個を超個に変容させていかなければならない

そこで必要になるのが
認識の手段としての情緒なのだろう
情緒なき知は「第一の心」によるそれでしかない
情緒を有した「第二の心」よって
はじめて「全体性」として働く智が可能となる

興味深いのが
「情緒を形にあらわすから数学になる」ということだ

もともと情緒があってそれが数学になり
「数学はまったくことば」である
そしてそのことばによって表現されるのが詩である

詩はポエジー
ポイエーシス
それこそが創造的な情緒だといえる

ノヴァーリスは
学問(科学)は哲学になったあと
ポエジーになるというが
その意味でいえば
学問(科学)は
その認識の根底にある情緒によって
ポエジーとなったときにはじめて
そのほんとうの姿になるともいえる
いってみれば「第二の心」ならぬ
「第二の学問(科学)」とでもいえるだろうか

■岡潔×山本健吉「連句芸術」
 (『岡潔対談集/司馬遼太郎・井上靖・時実利彦・山本健吉』
  (朝日文庫 2021.5)所収)

「岡/西洋の学問、思想は、すべて時間・空間のわくのなかにある。すべてそうです。これは例外なく時間・空間のわくのなかにある。ところが、時間・空間が存在するということを証明できると思っている数学者・真の数学者は、もはや一人もいない。だから、時間・空間は存在するのはない、空間は見えるからあると思っている。時間は空間になおしてあると思っている。だから、西洋の学問、思想は視覚にささえられている。あるのじゃない、あると思っているだけなんです。素粒子論なんかも、よく調べてみると、物質というものは素粒子群からなっている。素粒子は、安定な素粒子群と不安定な素粒子群とある。不安定な素粒子群は、生まれてきて、またすぐ消えていってしまう。じつに短時間です。いちばん短時間なもので百万分の一秒というような短命、生まれてきて、消えてしまっていく。また電子のような安定な素粒子群がある。そこに不安定な素粒子群、ふつうは百億分の一秒くらいで、これはそんなに短時間だけれども、ひじょうに速く走っているから、生涯のあいだに一億個の電子を歴訪するので、安定な素粒子群の典型的なものは電子ですけれども、電子の側から見たら、ひっきりなしに不安定な素粒子群がこれを訪ねているわけでしょう。だから、安定しているものは位置だけかもしれんですね。弁栄上人は、この不安定な素粒子群が第二の心の世界、時間も空間もないところから生まれてきて、またそこへ帰っていっているんだと、そう言っていることになるんです。」
「無差別智というのは、第二の心にはたらく智力です。はたらかそうと思わなくてもはたらく。第二の心というのはそういうところです。私を入れなくても、第二の心にはたらく智力で動く。大円境智というのですが、この智力は、現在・過去・未来は現在の位置に住す。その現在は一目でわかるとそういっているのです。どうしてそんなことができるのかというと、第二の心になってしまうことができた。これは第二の心に住する。そうしたら、むきだしの第二の心になる。第一の心という着物を脱ぎ捨てますね。そうしたら、第二の心は全体性のようなものです。そして時間も空間もないのだから、至るところに遍満している。だから、そうできたら、いかにも全体を一目でわかるだろうと思われます。弁栄上人はそれを実際やってみせたのです。」

「山本/先生は情緒ということをよくいわれますけれども、結局情緒というのは、認識の手段、認識の一つの方法ということになりませんか。
岡/認識の根底です。
山本/つまり認識というのは、理論とか理知とかいうことで認識するのではけっしてなくて、情緒がともなわなければ完全に認識できない。
岡/情緒がともなわなければ認識とはいえません。
山本/それが日本人は昔からわかっていて、もののあわれということをいっております。これは人生のあわれでしょう。人生のあわれ、人生の種々相を身にしみて感じるということなんでしょうけれども、必ずもののあわれを知るといっている。知るということですね。
岡/認識する。
山本/認識ですね。情緒を通して認識することですね。
岡/そうすると、芭蕉は人生というものを認識していたんですね。
山本/柳田先生が、どうしてあれだけ芭蕉さんは人生というものをよく知っていたのか、不思議だとおっしゃる。シェークスピアのことをミリアード・マインデッドの詩人だということをよくいいますね。千万人の心というのですが、それだけの心をシェークスピアはもっていた。日本の作家でそういう言い方をされるとすれば、やはり芭蕉はミリアード・マインデッド・・・・・・。
岡/芭蕉はシェークスピアどころじゃありませんよ。
山本/比較するわけではないんですけれども。
岡/比較せよというならしますが、シェークスピアの作品は横に並んでおりますよ。芭蕉の総文学は縦一列にいっております。どんどん人生を歩いております。シェークスピアは、本が羅列している。それで千万人の心というと、あの心も知っている。この心も知っているという知り方。芭蕉は大円境智です。たなごころをさすがごとく千万人の心を認識している。」

「山本/なにか近ごろの学問を見ると、学問は部分的にトリヴィアルに詳しくなってきている。そして大きなところでつかみそこなっているという感じがするんですけれども。
岡/そうなんですよ。まったく何もわかっていないのに、西洋の学問をいう。西洋の学問の典型的なものを見ますと、植物というものは葉がある。葉には葉緑素というものがある。日光があたると同化作用が営まれる。空気中の炭酸ガスと、根から吸い上げた水分とかな含水炭素をつくる。この含水炭素によって成長するといって、みなわかったような顔をしている(笑)。ところが、問題はそのあとですね。松の含水炭素はどこにどう使われても、一滴一滴みな松になる。竹の含水炭素はどこにどう使われても竹になる。なぜかということ、これはこうですよ。これはまことにわかりやすい。植物にも第二の心はあるんです。動物にしかないのは第一の心だけ。人が高等な動物であるというのは、第一の心が高等であるというにすぎない。むしろ第一の心がないから、植物はむき出しの第二の心なんです。だから、大円境智ははたらいている。だから、松の含水炭素はみな松になる。竹の含水炭素はみな竹になる。これなんかいちばんわかりやすい。植物界というものを一言にしていえるでしょう。それが西洋では一つもわかっていないでしょう。これが西洋の学問の典型です。人は第一の心もあって、しかもそれが発達しているから、第二の心を蔽い隠す黒い雲となりやすいので、だからはっきり出せませんけれども、それでも第二の心ははたらいている。松は松という種類ですが、人は一人一人別々、松という人は、何をどうみてもみな松だし、竹という人は、何をどうしてもみな竹、これが個性でしょう。同じことなんです。大円境智。芭蕉はその大円境智がひじょうによくはたらいていた。だから、芭蕉の一言一句、芭蕉を松とすれば、みな芭蕉という松をあらわしているんですね。それを見ようと思えば。連句でないと・・・・・・。
山本/その点はよくわかりました。先生はいつか小林秀雄さんと対談されたことがありましたが、あのなかで、とにかく数学というと、私ども素人は、全然これは論理的に追いつめていかなければならないものだと思っておりましたら、数学を解くには情緒が大事なんだということをおっしゃった。
岡/情緒を形にあらわすから数学になる。情緒がなかったら、まるでもとがない。情緒を数学の形に変形するというだけです。情緒がもともとなんです。数学は一つの変形なんです。数学はまったくことばですよ。数学というものは時間・空間の存在がいえないというのだったら、実数の全体の存在は証明できない。そうしたら数学の存在は証明できない。こんにちの真の数学者は。数学の存在は未来永劫証明できないだろうと知りつつ、なお数学をやっている。つまり、数学ということばがある。数学ということばによって何表現するかというと、詩を表現する。詩というのは、一つの内容のあらわされたもの、その詩の内容の一つ一つを情緒というのです。情緒といったら、なんとなく情的にねばりつくように思いますが、そうじゃない。詩のもとの一つ一つを情緒という。
山本/センチメンタルな要素を情緒だと思っている人がいるけれども。
岡/それも情緒ですけれども。
山本/それは低いものですね。
岡/低い情緒です。情的情緒で、狭く、しかもごく低くて、そんなねばりついているのは、情緒といわんでしょう。そうなったら、つまり喜怒哀楽、感情ですね。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?