三木 那由他『言葉の展望台』
☆mediopos2806 2022.7.24
本書は『群像』で
二〇二一年一月号を「プロローグ」として
二〇二一年五月号から二〇二二年四月号まで
連載されたものの書籍化である
本書で書かれていることは
コミュニケーションするということに
常に疑問をもっている者にとっては
共感をもって読めるものだが
コミュニケーションすることに
ほとんど疑いをもたないでいる者にとっては
あまり興味をひかれないのではないかと思われる
本書で基本となっているのは
「言語行為(発話行為)」という
ジョン・L・オースティンという哲学者によって
示唆されはじめた語用論的な次元の言語論で
引用にある例でいえば
カフェで「お砂糖ありますか?」と訊けば
それは砂糖があるかどうかを質問しているのではなく
お砂糖をもってきてください
と求めていることであるように
言語論としては
統語論的なレベル(言葉の組みあわせ・順序)でも
意味論的なレベル(言葉の意味)でもなく
行為としての言語レベル(語用論)となる
そんなことは当たり前ではないかと思う人にとって
こうしたコミュニケーションのなかにある
さまざまな謎や問いかけはピンとはこないだろうが
言語のこのレベルというのは
まさにコミュニケーションのさまざな問題が孕まれた
とても重要なものである
これも引用にあるが
哲学の先生である著者が生徒に対して
「教える者と教わる者との
不均衡な関係をできるだけ弱めたい」という意図で
「『先生』呼びはやめてください」
と学生に言ったとすると
それは依頼という意味だけを
言語行為としてしているとはかぎらない
それは生徒が『先生』呼びを止めたとしても
「お砂糖ありますか?」に対してひょっとしたら
「あります」と答えただけのことになるのかもしれないし
場合によればその「依頼」という行為は
「強制」という行為を伴ってしまい
「「教える者と教わる者との不均衡な関係」を
むしろ強化することになってしまうかもしれない
そうした意味で
言葉というコミュニケーションというのは
そのコミュニケーションのなされる状況や
その発信者と受信者のあいだの関係性のなかで
「支配も、侮蔑も、否定も」起こる可能性をもっている
それは言葉の構造でも意味でもなく
それがどのように使われどのように働くかということである
個人的にもすでに四五年ほどまえになるが
このオースティンやウィトゲンシュタインなどの
言語行為理論(語用論)にふれる機会を持ったのもあり
(卒論でもその延長線上にある
「文学的テクストのコミュニケーション構造」をテーマとした)
今回とりあげた内容は
とても懐かしいテーマでもあるのだが
もうあれから数十年も経ったのに
こうした内容がいまだにあまりポピュラーには
なっていないようなのがむしろ不思議なくらいである
しかし平成もとうに過ぎ令和となって
やっとこうしたテーマがやさしく語られはじめているのは
ようやくそうした議論の背景がでてきたということなのだろう
表面的には時代はずいぶん変化しているが
その内実(人間性)はなかなか変化してはいないようだ
上記の卒論を書いてその後ずっと
いわば「コミュニケーション的暴力」に充ちた状況のなかで
なんとか働いてきたなかでの実感としても
むしろかつての無自覚な「コミュニケーション的暴力」から
昨今は管理主義的で巧妙な「コミュニケーション的暴力」へと
移行してきているように感じることが多くなっている
いわばホンネとタテマエがますます乖離しているようなそんな
■三木 那由他『言葉の展望台』
(講談社 2022/7)
(「プロローグ コミュニケーション的暴力としての、意味の占有」より)
「私は何かを語り、あなたがそれを受け止める。あなたが何かを語り返し、私もまたそれを受け止める。そんな、当たり前に日々おこなっていることが、とても不思議なことに思えていた。私とあなたは、なぜ通じ合えるのだろう? あるいは、なぜ通じ合えないのだろう? 通じ合えたとき、私とあなたのあいだで何が倦まれるのだろう? あなたに語り掛け、それを受け止められる前の私と、あとの私で、どう違っているのだろう? あなたは、以前のあなたとどう違っているのだろう?
コミュニケーションは謎に満ちている。二十歳のころに哲学を専攻しようと決めたときから、そうした謎が気になっていた。私の心は私だけのもので、それを手に取って、「はい」とあなたに見せるわけにはいかない。それなのに、私が「喉が渇いた」というと、手にとって見せたわけでもない私の渇望が、あなたに伝わる。あなたはそれを聞いて、紅茶でも飲みに行こうと私をカフェに誘うかもしれない。ひょっとしたらそれは、さらなるコミュニケーションの始まりかもしれない。
(・・・)
コミュニケーションは、確かに素晴らしいものであり得る。けれどそれだけではない。言葉による支配も、侮蔑も、否定も、コミュニケーションのなかで起きる。つまりは差別や暴力も、コミュニケーションにおいてしか起こらないわけではないが、コミュニケーションは少なくともそれらが現れるひとつの舞台だ。ここ数年でいくつかの、ここでは書くのは憚られるような経験をして、いまの私は、コミュニケーションのただなかでおこなわれる、コミュニケーション特有のかたちをまとったそうしたものたちを捉えたいと思うようになっている。」
(「そういうわけなので、呼ばなくて構いません」より)
「言語行為(「発話行為」と呼ぶこともある」)という考え方がある。これはジョン・L・オースティン(John L.Austin)というイギリスの哲学者に由来するアイディアで、それによると、私たちが日常のコミュニケーションにおいて発言をするときには、ただ単に何か抽象的な仕方で言語表現をその場に提示しているのではなく、発言をすること自体が、もっと積極的な力を伴った行為となっているとされる。
これは哲学者によっては斬新な考え方だったのだが、それ以外のひとたちにとっては当たり前のことを言っているだけに聞こえるかもしれない。このアイデアが出て来くる以前の哲学者たちは、言語を私たちの普段の活動から切り離された抽象的な記号体系と見なし、その記号体系が世界とどう関わっているのか、世界のありかたをどのように反映しているのか、といったことを考えていた。オースティンはそれに対し、「いや言語というのはそのような宙に浮いたものではなく、私たちの日々の活動のなかで、私たちの行為に結びついたものなのだ」と言ったのであり、要するにこれは、地上から離れがちだった哲学者たちの思考を、その足を摑んで大地へとひきずりおろそうという試みなのだった。
ともあれ、言語行為というアイデアにおいては、例えば「今夜は雨が降る」という文は単に抽象的な記号体系に属す表現ではなく、私たちが予測したり、賭けをしたり、報告をしたりするために使われる、私たちの具体的な活動と結びついたものとされる。」
「さて、私が「『先生』呼びはやめてください」と学生に言ったとしたら、私はどういう行為をしていることになるのだろう? この言葉を見ると、(・・・)お願いのために使われる表現であるように思える。言語行為論的には、「『先生』呼びはやめてください」という文には、依頼という言語行為と慣習的に結びついた形式(「ください」)が備わっている、といった言い方がなされる、ただ気になるのは、この状況で、私の行為は単純に依頼で終わるのかということだ。
(・・・)
私から学生に「『先生』呼びはやめてください」と言うとき、私はこれよりも大きな強制力をこの学生に及ぼしているように思える。私は、自分がそう言いさえすれば相手が基本的に断れないということを自覚している。そして、おそらくはその力を発揮しようとしている。これは依頼とは別の行為だ。
言語行為のなかでよく語られるテーマのひとつに、間接言語行為というものがある。ある言語行為をすることによって別の言語行為をもするときに、そのふたつめの言語行為のほうを「間接言語行為」と呼ぶ。例えば私がカフェで「お砂糖ありますか?」と訊けば、これ自体は(疑問文を浸かっているという点に照らしても)質問という言語行為に該当することになるのだが、たいていの場合において、私の真の目的はそのお店に砂糖があるかどうかの情報を得ることではなく、砂糖を自分のところに持ってきてもらうということであるはずだ。私は、「お砂糖ありますか?」と言い、それによって直接的には質問をしているだけなのだが、間接的には依頼をしている。これが間接言語行為という現象の例だ。」
「私は教える者と教わる者との不均衡な関係をできるだけ弱めたいのだった。しかし、それを弱めるために言う「『先生』呼びはやめてください」は、まさにその不均衡な関係を梃子にして強制力を伴うようになりかねないのだった。言っていることとやっていることがちぐはぐだ。
このちぐはぐに目をつぶって私が「やめてください」と果敢に言ったとしたら、例の学生はきっとその通りにするだろう。しかし、そのときに私が望んだ仕方で私たちのあいだの力の不均衡は弱められているのだろうか? いやむしろ、私が要求をおこない、学生が従った結果、より強固なものになっているのではないか? それなのに言葉のうえでだけ「先生」という呼び方が消え去り、不均衡な関係が強められつつも、表面的にはそれが見えづらくなるというだけではないだろうか?」
【目次】
プロローグ コミュニケーション的暴力としての、意味の占有
そういうわけなので、呼ばなくて構いません
ちょっとした言葉に透けて見えるもの
張り紙の駆け引き、そしてマンスプレイニング
言葉の空白地帯
すだちかレモンか
哲学と私のあいだで
会話の引き出し
「私」のいない言葉
心にない言葉
大きな傘の下で会いましょう
謝罪の懐疑論