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〈対談〉中島岳志×浜崎洋介「神なき世界をどう生きるか」/下西風澄「演技する精神へ−−−−個・ネット・場」(文學界)/福田恆存『人間・この劇的なるもの』

☆mediopos-3130  2023.6.13

文學界7月号(2023年)で
「甦る福田恆存」という特集が組まれている

そのなかから
中島岳志と浜崎洋介の対談と
下西風澄の批評「演技する精神へ」をとりあげ
なぜいま福田恆存が「甦る」のかを見ておきたい

まず対談から

浜崎洋介は福田恆のアンソロジーなども編んでいるが
若いころ福田の「一匹と九十九匹と」によって
「たとえ社会を変えて、
「九十九匹」を幸福にできたとしても、それでも、
「この一匹」として生まれた自分の問題は
残ってしまうのではないか」という
一匹と九十九匹のジレンマから
それをつなぐ道を示唆される

つまり「一匹」である個人の自律性や自由の背後には
「政治的全体主義ではない文化的全体性」
つまり「自然・歴史・言葉」という「全体」があって
そうした全体のなかの部分として生きる
自己の「調和」を問題とする必要があるということである

中島岳志はいまでも福田の
『人間・この劇的なるもの』を座右の書としているというが
その冒頭にある言葉を引いている

「私たちが真に求めているものは自由ではない。」
「私たちが欲するのは」「一定の役割をつとめ、
なさねばならならぬことをしているという実感だ。」
「その必然性を味わうこと。それが生きがいだ。
私たちは二重に生きている。
役者が舞台のうえで、つねにそうであるように」

福田は役割を演じる自分と
それを味わう自分が二重に存在しているといい
中島はこのことから
「近代は個人に自分が演じるべき意味や役割を
与えてくれるトポスを失った時代なのではないだろうか」
と考えるようになった

しかし人は演じる意味や役割だけでは生きていけない
自分を支えてくれるものをじぶんの外にもつと同時に
個人として時代に対峙できる課題をもっている

その意味で福田恆存は時代や社会への距離感をもった
柔軟な「個人主義」を「楽屋」として表現している

「世界劇場」という捉え方があるが
福田は世界は舞台だとはいわず
「舞台から引っ込んで、
自分が演じていた役を味わいなおす
「最後まで守るべき自分の場所」である
「楽屋」が必要なのだ

下西風澄「演技する精神へ」も示唆的である

河合隼雄も示唆していたように
日本では母性原理による「場の倫理」「場の原理」から
抜け出すことは非常に困難である

福田恆存はそうした場の磁力に対する態度として
「蠅取り紙にくっつく蠅の振る舞い」の比喩を語る

「場」に飲み込まれてしまうということは
「蠅取紙に六本の脚を悉く附けててしまふ様なもの」で
「いつでも場から離れ、個に還る事が出来る」ためには
「精々一本か二本の脚だけを蠅取紙に附けてゐれば足りる」

つまり福田にとって近代的個人の理想の姿は
「世界を一挙に一つの視点から眺め渡すのではなく、
自分自身がその場に参入しながら、
しかもそこに埋没しない」でいることなのだ

「生まれながらの特性に固執し、
帰属すべき世界をひとつしか持たず、
頑固に自分でありつづけようとするのは、
個人として成熟するまへの幼児の特性であらう。」
「おとなの個人性とは」
「演じられたいくつかの役の背後で、
つねに静かに醒めてゐる俳優の心の同一性のこと」だ

「空気」による「同調圧力」のなかで
その視点だけしかとれなくなっている
あるいはみずから積極的に同調しがちななかで
こうした「楽屋」をもった「演技する精神」を
「九十九匹」に対する「一匹」としてもつこと

そうした精神を持ちえないとき
ひとはすべての行為において
「真か偽か、敵か味方か、
場の内部にいるのか、外部にいるのか、
その単純な政治的ゲームへと転落していく」ことになる

思い出すのはグルジェフ・ワークである
日本においてだけではなく
自我は「演技する精神」を育てるワークを
じぶんなりに行っていく必要がある

ワーク・ショップというと
すぐに人が集まって「場」をつくりあげてしまうが
そうではなくどんな「場」のなかにおいても
「演技する精神」を意識化できる
そんな「楽屋」をもつということである

■〈対談〉中島岳志×浜崎洋介「神なき世界をどう生きるか」
■下西風澄「演技する精神へ−−−−個・ネット・場」(批評)
 (文學界 2023年7月号【特集】甦る福田恆存)
■福田恆存『人間・この劇的なるもの』(新潮文庫 新潮社; 改版 1960/8)

(〈対談〉中島岳志×浜崎洋介「神なき世界をどう生きるか」〜「冷戦後の出会い」より)

「浜崎/やっぱり僕も「戦後の子」なので(笑)、若い頃は、個性を求め、自由を求め、自分とは何かを自問していたんですね。と同時に、高校時代に、柄谷行人に傾倒して、「現代思想」にかぶれ、社会変革の夢に憑かれてもいました。端的に言えば、自分自身が抱え持った苦しさの原因を自分ではなく、社会に求めていたわけです。社会を変えればこの苦しみからも逃れられるんじゃないかと。そして、自分の自由を実現できるのではないかと。でも、そう考えている限り、結局、脱け出せない隘路に嵌まり込んでしまうんですね。
 というのも、政治的に社会を変えようとすると、どうしても敵と味方の境界設定が要るので、どこかで他者を切り落とさざるをえない。それで自分が幸福になるなんてことはあり得るだろうか。あるいは、福田恆存の有名な「一匹と九十九匹と————ひとつの反時代的考察」(『保守とは何か』文春学藝ライブラリー所収)の言葉を借りれば。たとえ社会を変えて、「九十九匹」を幸福にできたとしても、それでも、「この一匹」として生まれた自分の問題は残ってしまうのではないかと。
 とはいえ、もちろん「一匹」に引き籠もったところで、他者との絆を失うばかりで、何の解決にもならないことは分かっていました。まさに、若い頃の僕は一匹と九十九匹のジレンマのなかでずっとギッコンバッタンしてたんですね。一匹と九十九匹をつなぐ道が見えなかった。

(・・・)

 先に結論を言えば、この問題に答えるためには、実は、自他を超えたものへの「信仰」の問題に取り組まなければならないんですが、「信仰」などと言うと、「何と反知性的な・・・・・・」というのが、現代というか、戦後のお決まりコースです(笑)。
 そんなときに福田恆存に出会ったんです。福田を読むと、いま要った問題が全て押さえられている上に、「信仰」を理念にしない方法までが非常に明瞭に提示されていた。つまり、経験を切り落とさないどころか、むしろ、私の身体の内側から信仰へと至る道が具体的な理屈とともに書かれていたんです。」

(〈対談〉中島岳志×浜崎洋介「神なき世界をどう生きるか」〜「「近代の宿命」の衝撃」より)

「中島/真っ先に読んで、今でも座右の書になっているのは、『人間・この劇的なるもの』(新潮文庫)です。その冒頭の方で福田はこう書いています。
「私たちが真に求めているものは自由ではない。私たちが欲するのは、事が起こるべくして起こっているとうことだ。そして、そのなかに登場して一定の役割をつとめ、なさねばならならぬことをしているという実感だ。なにをしてもよく、なんでもできる状態など、私たちは欲してはいない。ある役を演じなければならず、その役を投げれば、他に支障が生じ、時間が停留する————ほしいのは、そういう実感だ。(中略)
 生きがいとは、必然性のうちに生きているという実感から生じる。その必然性を味わうこと。それが生きがいだ。私たちは二重に生きている。役者が舞台のうえで、つねにそうであるように」
 自由ではなく、宿命を求めて人間は生きてきたし、これからもそうやって人間は生きていくだろう、と福田は言います。そのためには、必然性や宿命を役者のように演じる自己とともにそれを味わう自己も必要だと。この二重性を強調するのが、福田の特徴ですね。
 僕はこれを読んで、近代は個人に自分が演じるべき意味や役割を与えてくれるトポスを失った時代なのではないだろうか、と考えるようになりました。」

「浜崎/個人の自律性や自由な成り立っている処でが、必ずその背後に、その支えが存在しているのだということにもなります。そして、この認識が、後に「九十九匹」から零れ落ちた「一匹」を支える「全体」————すなわち「自然・歴史・言葉」という福田恆存の信仰のかたちを作っていくことになります。それらのものに支えられて初めて個人が個人であり、また、その個人の自由も可能なのだと。
 先ほど僕は、一匹と九十九匹を結ぶ道を見出すには、信仰の問題を考えなければならないと言いましたが、それは、今言ったような理屈があるからです。どうすれば私たちの自由が実現できるのか、と考えていくと、福田と同様、全体のなかの部分として生きる自己の「調和」というものを考えざるを得ない。つまり、政治的全体主義ではない文化的全体性、要するに「伝統」に対する信仰の問題に突き当たらざるを得ないのだろうと思います。」

(〈対談〉中島岳志×浜崎洋介「神なき世界をどう生きるか」〜「「楽屋」が必要」より)

「浜崎/時代や社会への距離感、これが福田恆存のコアにある感覚なんでしょう。もちろん、人は一人では生きられませんから、目の前の人間に「媚態」を示す必要がある。でも、譲れない部分では「意気地」を示す必要もあるし、時には「諦念」によって現実を突き放す必要もあるでしょう。福田恆存の「個人主義」は、その柔軟性の別名です。でも、それは福田が、目に見える集団性の外に足場を持っていたから可能になった態度だったとも言えます。自分の外に個人を支えるものを感じていればこそ、いつでも個人として時代に対峙できるという課題を、福田は戦前、戦後と変わらず常に生きていたんだと想います。

中島/その逆説を福田自身が表現した言葉が「楽屋」なんだと思います。『人間・この劇的なるもの』で、福田は世界は舞台だ、とは書いていないんですよね。全部が舞台になったら、常に演じていなければならないから、自殺してしまうと言うわけです。舞台から引っ込んで、自分が演じていた役を味わいなおす「楽屋」が必要なんだと。福田の私小説への批判も、端的には、そこには楽屋がないことから来ている。最後まで守るべき自分の場所としての楽屋を持つことこそが、福田の個人主義の根幹にあると思います。」

(〈対談〉中島岳志×浜崎洋介「神なき世界をどう生きるか」〜「後ろから押してくる力」より)

「中島/信仰の問題を真剣に考えた福田が、では宗教学者になるかというと、ならないんですよね。
 自分を後ろから押してくる力を福田は伝統や歴史、神である、と言いますが、歴史や文学について語ることはできるけれども、神の力を振り返ってどうするんだ、とどこかで書いていたのを思い出しました。

(〈対談〉中島岳志×浜崎洋介「神なき世界をどう生きるか」〜「「全体性」とは何か」より)

「中島/福田は『人間・この劇的なるもの』で、「私たちは自己の宿命のうちにあるという自覚においてのみ、はじめて自由の溌剌さを味わえるのだ」とも書いています。自分が何に拘束されているのか、その枠組みを得たときに初めて自由になれる、というのが福田の思想だと思いますし、自由の真理だと思います。「〜からの自由」を徹底していくと、アノミーになるしかない。逆に「〜への自由」を徹底しすぎると、社会主義のようにすべてがコントロールされた、人為的で設計主義的な全体主義になっていく。自己を後ろから押してくる力に支えられながら、またそのことに自覚を持ちながら、その両極のあいだでバランスを取っていく。するとはじめて自由が最大化される。福田恆存から導かれるのは、そのようなビジョンではないでしょうか。今の世界はその均衡を失っていると思います。」

(下西風澄「演技する精神へ−−−−個・ネット・場」(批評)〜「「個」の倫理と「場」の倫理」より)

「絶対的なる神なき日本において、しかも「自然」という全体性が失われた近代以降の日本において、「全体」なるものはいかに倫理として機能するのか。正確に言えば、全体性がほとんど機能しないこの国においては、実際的には中途半端な全体性としての中間的な母体が、擬似的な全体性のごとく機能している。日本において個人を否定するものは、別の個人でもなく、絶対なる神でもなく、集団的な「場」なのだと指摘したのは河合隼雄である。彼は日本でしばしば「同調圧力」と呼ばれるものの正体を、精神分析的な観点から読み解いている。「場の中においては、すべての区別があいまいにされ、すべて一様の灰色になるのであるが、場の内と外とは白と黒のはっきりとした対立を示す」という倫理こそ日本の本質的な問題である。
 河合はそれを一種の「母性社会の原理」と「診断」している。
(・・・)
 「母性の原理」は「包含する」機能だ。
(・・・)
 「父性の原理」は「切断する」機能だ。
(・・・)
 母性原理の絶対的な平等主義は、「与えられた『場』の平衡状態」を優先し、平衡状態の維持こそが倫理となるのに対して、父性原理は各個人の欲求の充足と成長こそが倫理となる。日本社会において、一方では「出る杭を打つ」同調圧力的なコミュニケーションが充満しつつ、他方ではネオリベ的な自己責任論が叫ばれる状況であることは、このような分析が説得力を持つだろう。」

(下西風澄「演技する精神へ−−−−個・ネット・場」(批評)〜「《偉大な母性》と《永遠の少年》の二層構造社会」より)

「平衡状態の場を切断する「母殺し」に失敗したモノは「永遠の少年」になる。河合隼雄はユング派の神話的分析を参照しながら、成人になることのできない永遠の少年と、それを許容する母性社会こそ日本の病理であると考えた。
(・・・)
 河合隼雄の日本的構造を端的に図式化すれば、この国では「すべてを包む母性《グレートマザー》」のレイヤーと「無限に上昇と下降を繰り返す《永遠の少年》」のレイヤーの二層構造によって成立している。そしてこれが、日本における悪い意味での「全体」(母)と「個性」(少年)の現実的な具体化となっていると言ってもいいだろう。」

(下西風澄「演技する精神へ−−−−個・ネット・場」(批評)〜「二本の蠅の足」より)

「個を超えた全体を求めるかぎり、日本的な「場の倫理」がいつでも形成されるのだとしたら、福田恆存はこれにどう応答するだろうか。実は彼もまた日本の近代化における自我確立に失敗した原因を、同じように「場の原理」と呼んでいた。それが会社組織であれ、家族的共同体であれ、大学組織であれ、実は私たち日本人はこの場の磁力から抜けられない。そしてそのことが、最初に論じた日本近代文学の苦悩にさえ表れているというのが福田の考えだった。」

「私たちはこのような場の磁力に対していかなる態度を取ればよいのか。福田恆存は独特の比喩を提示してその思想を表現している。それは、蠅取り紙にくっつく蠅の振る舞いである。

  これは蠅取紙に六本の脚を悉く附けててしまふ様なものである。それどころか、飛び立たうとして踠けば踠くほど腹や羽まで紙に貼り付き、どうにも身動きが出来なくなつてしまふ。二人の人間が場を構成する為には、精々一本か二本の脚だけを蠅取紙に附けてゐれば足りる。さうしてゐれば、いつでも場から離れ、個に還る事が出来るし、相手の出方次第でまた別の場を形成しやり、他の相手との場に切換へたり、或は今まで二人切りで作つてゐた場に、第三者が気楽に入込んで別の場を形成したりする事が出来る。

 福田は場の力を単に否定しているのではない。むしろ逆であって、彼がシェークスピア作品に見出した「宿命」や、演劇の役者を拘束する力こそ、この場の力のメタファーでもあった。(・・・)
 世界を一挙に一つの視点から眺め渡すのではなく、自分自身がその場に参入しながら、しかもそこに埋没しないということ。このような存在こそ、福田にとっての近代的個人の理想の姿であった。」

(下西風澄「演技する精神へ−−−−個・ネット・場」(批評)〜「演技する精神————複数化する時代に」より)

「場に全体重を乗せずに、部分的に場と交わること。宿命を受け入れながらも、その拮抗において自由を演じること。身体化された言葉によってその思想の言葉を吐き出すこと。こうした福田の思想を実践する倫理は、やはり「演劇的」な精神であり、私小説的な文学が見逃していたかもしれない倫理である。興味深いことに、同じく劇作家であり思想家でもある山崎正和は、福田とほとんど同じような結論に達している。

  生まれながらの特性に固執し、帰属すべき世界をひとつしか持たず、頑固に自分でありつづけようとするのは、個人として成熟するまへの幼児の特性であらう。おとなの個人性とは、あくまでも柔軟な態度の同一性のことであり、演じられたいくつかの役の背後で、つねに静かに醒めてゐる俳優の心の同一性のことなのである。

(・・・)

 本論は冒頭でネット世界における自我の矛盾を指摘したが、アーキテクチャの設計が自己に一つのアカウントを与えながら同時に複数的な役割を次々に与えていくようなコミュニケーション環境の時代に、私たちがこの「演技する精神」から学ぶものはあるだろう。それは、複雑化する世界に対して、柔軟に変容しながら生きていく自己の想像力である。」

「いま私たちの世界から、アイロニーが失われている。複雑な現実の世界を多層的に捉える視座が、「少年」のように無垢で真っ直ぐな視線たちで溢れかえっている。世界は単純ではない。現実の世界は、黒から白へとオセロをひっくり返すようには塗り変わらない。歴史を背負った私たちは、崇高なる理念によって、完全なる自由な意志によって、自分を一気に根本から変えてしまうことはできない。もしも私たちが急速な変容ばかりを目指すとすれば。その変化の速度についていけない者を切り捨て、あるいは自らの潜在的な欲望を抑圧していくことになるだろう。私たちが変化すること、それは理想とする仮面をつけながら、演技を通じて少しずつそれを身体化して変容していくことでしかない。」

「演技すること。それは私たちがなんらかの役割を自ら自覚的に引き受ける訓練をすることに他ならない。それは、自由と不自由の両方の感覚を持つことだ。愛するということ、憎むということ、男であること、女であること、父であること、母であること。私たちは様々な役割を演じながら、その感覚を養っていく。はじめから与えられた人間の運命がない限り、そうして少しずつ役割と存在を近づけながらその距離を把握していくしかない。そうでなければ、すべての行為は、真か偽か、敵か味方か、場の内部にいるのか、外部にいるのか、その単純な政治的ゲームへと転落していく。
 六本のうち、二本の脚で場に留まること。いつでも離脱可能であるが故に流動的な場を形成できるという可能性。複雑化していくこの世界のなかで、世界に飲み込まれず、自己にも飲み込まれずに生きていくこと。それは、単純さと渾沌の狭間に引き裂かれながらも、安易に結論を出さずに、痛みに堪えながら生きていくことだ。」

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