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荻本快・北山修 編著 『コロナと精神分析的臨床/「会うこと」の喪失と回復』

☆mediopos-2366  2021.5.9

精神分析的臨床も
コロナ禍において
大きな影響を受けている

これまではクライエント(患者)と臨床家は
同じ部屋で実際に会って話すということが
前提になっていたのだが
それが難しい状況がでてきたのである

心理療法や精神療法は
「不要不急」のものとされ
それを継続して行うためには
「会う」ということで成立する「臨床」が
オンラインに移行せざるを得ないという状況である

これまで表面化していなかったことが
ある事態が起こることによって
表面化してくることがあるが
今回のコロナ禍における臨床に関してはとくに
実際に会うか会わないかということに関わるだけに
個々の患者のありようはもちろんのこと
その患者や治療に対する
臨床家の世界観や人間観の違いが
明らかになってきているのだろう

そこで鍵になるのは
やはり「あう」ということを
どのように捉えるかということだ

本書はコロナ禍にあたって
その「あうこと」とは何かを問い直すことを
目的としているという
そしてそれに対して
「安易に答えを出そうとはせず、思考をつづけていくこと」が
「「あうこと」を重層的に取り戻すことに
つながっていくのではないか」という

臨床は人と人が「会い」「合う」劇場でもあり
それは「愛」を問うことにもつながっている

「愛」はむずかしい
人生を生きるということは
まさにその「愛」を
学ぶことにあるともいえるほどだ

マタイ福音書のなかでイエスは
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、
と思ってはならない。
平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」
と言っているが
それもまた「愛」についてのことばに他ならない

人が「会い」「合う」とき
そこにさまざまな「愛」が生まれる
それは必ずしも調和的なものではなく
「合わない」という不調和なものであるときもあるように
「愛」は重層的なかたちでとらえていかなければならない

この地上に生を受けるということは
おそらく「他者」と「会い」「合う」ことで
つまりは「愛」を体験し
それを重層的な経験に変えるためでもあるのだろう

今回のコロナ禍のような事態も
その意味でいえば
新たなかたちで「愛」を問うためでもあるのだろう

世界は「愛」を演じる舞台である
そこでどのような役割を演じそこで何を学ぶか
脚本を書くのも演じるのもじぶんにほかならない

■荻本快・北山修 編著
 『コロナと精神分析的臨床/「会うこと」の喪失と回復』
 (木立の文庫 2021.3)

(荻本快「はじめに 月・不要不急?・会うこと」より)

「精神分析的臨床では、クライエント(患者)と臨床家が同じ部屋で会って話し、無意識の領域に向けてこころの探求をおこないます。特に日本においては、人と人が実際に会って、実在の部屋に居るというのが、疑いようもない前提となっていました。それが、今回のコロナ禍において全く変わったのです。
 「不要不急」の外出の自粛を要請する政府の緊急事態宣言を受けて、臨床心理士や精神科医、看護師あるいはソーシャルワーカーといった臨床家たちは、コロナ禍のなかで、自分たちが面接を続けることができるのか、あるいは面接をどのような形で続けられるのか、クライエント(患者)と話し合いながら、手探りで進んだといえるでしょう。臨床家とクライエントは、自分たちが続けてきたことは不要不急のものだったのか、そして自己にとってあるいは人間にとって「会うこと」とは何なのかを、根底から見つけ直さざるを得ない状況に投げ込まれたのです。
 オンラインの臨床に移行した方、実在の部屋で会うことを続けた方、休止や中断に追い込まれた方、さまざまだったと思います。関連して、心理臨床の業種における格差も浮き彫りになりました。非常勤や委託で働く臨床家の多くは、セッションの継続の可否を決めることができず、オンラインへの移行に関する決定権を持っていない場合があります。そのため、自分たちではセッションの継続を決めることができず、所属組織において心理療法や精神療法は「不要不急」のものとされ、半ば強制的にセッションが休止・中断することになった例を聞いています。臨床家としての仕事自体が無くなったということもあったようです。治療設定therapeutic settingの変更やセッションの休止・中断によって、それまでに蓄積した作業の何が失われたのかを見つめ、語り、悼む「喪の作業」をすることができなかったのです。
 そして、コロナ禍によって、これまで表に上がっていなかった個々の患者、臨床家と所属している組織がもつ世界観や人間観の違いが、かなり明らかになってきているように思います。
 例えば、新型コロナウイルスというものの驚異をどのように考えるのか、緊急事態宣言を出した政府に対する考え方の違い、患者やクライエントと実際に会うのか会わないのか。また、人間というものは円覚の通信によって成長できるものなのか、といったことです。職場によっては、長い議論が交わされたと聞いていますし、議論が物別れに終わったという話も耳にしていました。」

「こうした状況のなか、新型コロナウイルスの第二派の直前の八月十日に、私たちは、この本の元となるシンポジウム(・・・)を開催しました。」
「本書は、コロナ禍における精神分析的な臨床とは何なのか、どうあるべきかを考えていくだけでなく、人間にとって重層的に「あうこと」とは何かを問い直すことを目的としています。すべての臨床がそうであるように、私たちは、この状況においては安易に答えを出そうとはせず、思考をつづけていくことが、コロナ禍において「あうこと」を重層的に取り戻すことにつながっていくのではないかと思っています。」

「きたやまはコロナの時代において、心と心が通い合わなくなった愛を通過していくために、「分かり合いの作業」が必要だと述べています。このときにきたやまが拠りどころにあうるのが〝共視〟です。二人のあいだには距離があり、困難があり、怖れや嫌悪といった違和感・異物感がある。それをせっきょきょくてきに言葉にし、横並びになって、眺める。そして時間をかけてそれについてはなしあう(離し-話し合う)。まるで二人で横並びになって月を観るように。これがきたやまの言う「分かり合い」の実践になっていくのかもしれません。」

(北山修「[序章]劇的観点から心を扱うこと/コロナ禍の「どさくさ」に紛れて」より)

「人生が「神の前で演じられる喜劇」であり、世界は舞台で「男も女も世をあげて芝居を演ず」という考え方がたんなる比喩以上のものだということが、ダンテやシェイクスピアらの作品を通して知られています。また、我が国の「浮き世」という言葉が示すように、人生とはどこかで非本質的でありながら、それなりに誠実に生きねばならないものなのです。」

「このように注目され特別視される〝愛〟に比べ、特に現代のマスコミや流行歌では「愛」は気軽に使用されるのですが、その意味の上滑り現象が、言葉を裏づける実体の不在のせいで歯止めがきかなくなっています。さらに社会的には、見合い、出合い、付き合い、知り合って、連れ合いになるとか、慰め合い、喜び合い、励まし合い、話し合うという具合に「合う」もまた大切な言葉として頻繁に口にされます。
 ただ、これが闘争・戦争を意味してきたことも忘れてはならないと思います。「仕合」は勝負や決闘を意味して、「渡り合う」のは喧嘩であり、「言い合う」は論争です。また、争うは「荒し合う」、「戦い」は「たたき合う」から出たと言われます。ゆえに、「愛」といっても輸入されただけの意味の使用では、また「会う」や「合う」の合一と調和を協調する意味論では、逆の争うことも「合い」とする事態全体の一面しか意識していないわけであります。
 実は好ましくない意味を捉えるためには「遭う」と書くのであり、繰り返し繰り返し愛の言葉を口にしてもない「あい」の全体は表現しにくいものです。「合わない」を知るために「遭う」点にこそ大きな意義のあることは言うまでもありませんが、それが偶然、良いことになるなら、「遇う」なんだそうです。」

「これだけ多くの治療で、そしてこれだけ多くの治療者が、会うこと、合うことを、治療の基本的な方法としているところを見るなら、これが人間の在り方の基本のひとつになることが納得できます。しかしながら、どのような「良い先生」にとっても合わない患者やクライエントがいるし、どのような「良い患者」にも合わない医者がいて、二人は相性が悪い、良いとも言います。精神科臨床では患者と話が合わないことが多いとしても、そのなかには調和しない、合致しないというマイナスの意味で合う場合と、合わないという意味でも合うことがない場合とがあるのです。前者の場合、合わなくても争い合うというかたちでなら合うことがあるかもしれないし、継続する治療関係ではその意味のあることが最初から貴重になるでしょう。
 「喧嘩友達」と言うように、すべてに平和な人間関係に争いのないことや会いたいという願望を前提にすることは危険であり、臨床でも合わせたくない患者や、会いたくない患者もいます。そして、外界との生きる接点を失う患者とでは、とりつく島がなく、接点を模索して無限の時間が費やされ、合うための島を作るために無数の創意工夫が求められることがあります。それは、赤ん坊と母親とが合わず、その唇と乳首が合わないなら、人生の開始における最大の不幸せに数えられることと平行するでしょう。」

「今こそ事態を、「コロナ禍のどさくさに紛れて」の観点から見るべきだと考えます。特に治療構造の中途半端な変更では、矛盾や二重性、逆説が際立ちますが、分析的観察者はその両面性に引き裂かれかけるところに立つのです。それを「評価の分かれるところに」立つと言い、良いか悪いかわからないけど、そこに中途半端に立ち続けて、そこで見えてくる「あい」のかたちに注目し、その意義を分析的に語り続けていける、そういうところに、今回のコロナ禍という事態の意義があると思います。」

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