見出し画像

金子都美絵 編・画『〔白川静の絵本〕死者の書』

☆mediopos-2354  2021.4.27

かつては
人にも
死はなかった

死が生まれたのは
集合魂からはなれ
個別化するようになったからだ

死は記憶とも関係している
個別化したとき
過去の記憶は失われ
生において新たな記憶が紡がれ
死によってその物語は終わる

しかし集合魂の時代の人は
個体を超えて記憶は継承されていた
「種子によって連続する
草木の生のごときもの」ともいえる

かつては部族のなかで
同じ名が使われるとき
その名は死を超えた記憶の継承だったが

○代目ということで
芸能などで同じ名が襲名されるのは
その名によって
記憶が継承される名残のようなものだ

人は個として群れを離れ
自由に生きる代償として
死を必要としたのだともいえる

しかしそこで人は
矛盾を生きねばならなくなった

記憶が失われるということは
永遠から切り離されてしまうことだからだ

人が「永生をねが」ってやまないのも
先祖を崇拝したり
みずからの所属する血縁・地縁などに
帰属意識を強くもつのも
かつての時代への郷愁でもあるのだろう

中国で生まれた生死をめぐる漢字は
そうした死が生まれてきた時代の
さまざまな影響を受けているため
ほんらいの霊的なありようが
歪められた形で表現されてもいるようだ

個を成立させるために
記憶が個体化されてきた歴史を
私たちは生きている

そしてやがて
私たちは個でありながら
個を超えた記憶を持つようになるだろう
そのときの記憶は
すでに集合魂的な記憶ではない

しかし現代という時代は
記憶が個別化したがゆえに
死を恐れ老いを恐れ
肉体への執着を深め
自我が暴走してしまうとともに
承認欲求のような群れへの希求で
過去回帰しようとさえしている

現代において
新たに死者の書を書き記すとすれば
死への認識を深め
それを超えて生きる
霊性の物語でなければならないだろう

そこで語られる死は
恐れるべきものではなく
みずからを成長させるための
プロセスにほかならないからだ

■金子都美絵 編・画『〔白川静の絵本〕死者の書』(平凡社 2021.4)
■白川静『文字逍遙』(平凡社ライブラリー 1994.4)

(『〔白川静の絵本〕死者の書』より)

(白川静)
「人はみな、
 永生をねがう。
 思えば生より死喪の
 礼にいたるまで
 すべての儀礼がみな
 永生への祈求を含めて、
 生命の思想に連なると
 いえよう。

 しかしついに、その永生を
 うるものはない。
 またその永生への
 祈求は、真なる実在への超拳、
 永遠の世界への僊去という形で、
 表現されるのであるが
 真とはもと瀕死の人であり、
 僊よは屍主を遷すことにすぎぬと
 すれば、それはまことにはかない
 祈求であったというほかない。」

(白川静『文字逍遙』より)

「やがて人間は死ななければならない。それが命です。生命というものを持つ以上、人は死ななければならない。生というのは、本来は天地の大徳、無限の生成力をいう。「生生不息」ともいうように、流転しながらも絶えず新しい生として更改し、発展してゆくということでありますから、ここでは絶対の死というものは考えられない。種子によって連続する草木の生のごときものであります。ところが命の場合はそうでない。命を持つ者は限られている。生ある者がすべて命を持つとはいえないのであります。少なくとも、文字の上から申しますと、草木には生がある。しかし草木に命があるとはいえないのです。」
「命というのは、神の命(めい)によってその存在が認証せられ、また神によってその存在の目的が意味づけられているという意味です。そしてそのようなものである限り、人は命を、すなわち死を免れることはできない。「死生、命あり」とか、「命を知らずんば、以て君子たるなし」と〔論語〕にもいわれておりますように。人は命に従わなければならない。いつかは死ななければならないということであります。」
 
(金子都美絵「むすびに」より)

「今回、「死」という文字を中心にして、白川先生の著作の中から、人の生と死に関する文章を拾い出し、編んでみた。選んだ文字はどれも詩情にあふれていると思う。」

「人は生きてゆく、しかも老いなければならない、そして死ななければならない、ああそうか、そうだよなよ思う。モーリス・メーテルリンクは『ガラス蜘蛛』のなかで「虫は死なない」といっていた。人間にとって死とは完全な終わりであるけれど虫にとっては永遠に繰り返されるサイクルの環なのだと。草木も同様だ。生という字は草木の発芽の象だが、草木に完全な死はない。人の一生は「生」や「死」、「胚」や「秀」「禿」など、その時々の状態を植物に寄せて文字で表されたりするが、死に関してはそうではない。生ある全てのものに死があるわけではなく、「死」とは人間だけにあてはまる文字なのだろうか。
 じつは、私は感じの古代文字の中でもとりわけ「死」という字が好きだ。というと少しぎょっとされるかもしれないが、この文字の表すところはいわゆる生き死にの死ではなく、死者の骨を生者が拝する情景であり、柿本人麻呂や西行法師が死者を前に歌を詠むような厳かで静かな深い悲しみの場面を表している。死という現実に対し、この文字の形はあまりに美しく、敬虔な気持ちにさえなる。よく考えれば至極人間的だといえるかもしれない。今よりずっと死が身近であった時代、生きることがもっと困難であった時代、このような死者を悼む弔いの形を文字にする文字制作者たち、彼らが字形の中に仕込んだメッセージがこうして何千年も伝わっているということに、どきどきする。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?