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『円をめぐる冒険/幾何学から文化史まで』

☆mediopos2266  2021.1.29

世界は
円(あるいは球)でできている

世界というより
存在といったほうがいいだろうか

存在するということは
円があり
それが展開するということだ

存在の原初には
点という無があり
その無が有になるということ
それが円であるともいえる

円には中心がある
太陽という中心をめぐる
惑星のイメージがあり
かつては地球という中心をめぐる
宇宙のイメージがあった

どちらにせよ
宇宙は円でイメージされる
中心があれば円周があるが
宇宙の円周はどこにあるのだろう

宇宙の円周ということは
宇宙の果てということである
ではその外にはなにがあるのだろう

おそらくその外は
宇宙の始原にあった無ではないか
極大は極小と
メビウスの環のように結ばれている

そして中心を神とするのでなく
すべての場所を中心としてとらえるならば
(すべての存在を神とするということでもある)
中心にいるすべての私が無限の彼方を指させば
その先にいるのは裏返ったすべての私である

円周率πが超越数であるのも
そうした無と有の
虚と実のあいだを
むすんでいるからではないだろうか

「円をめぐる冒険」ならぬ
「円をめぐるファンタジー」はいつもそんな
どこにもない場所に向かって飛翔してゆく・・・

■アルフレッド・S・ポザマンティエ&ロベルト・ゲルトシュレーガー(松浦俊輔 訳)
 『円をめぐる冒険/幾何学から文化史まで』(紀伊國屋書店 2020.9)

「初等平面幾何学では、引ける線は基本的に二つだけ、線(直線)と円弧(あるいは円)である。そして直線が織りなす幾何学図形の基本的な要素は三角形だ。ゆえに、直線で構成される幾何学図形の性質を調べる場合、三角形に分割して考えることが多い。そのため、直線による幾何学の世界では、その調査と評価には三角形が要となる。とはいえ、円は他のどんな成分に劣らず、平面幾何学の相当部分を占める。さらに、球面上で引ける「線」はこれだけだ。そう見ると、幾何学の世界では円のほうが直線よりも出番が多いと言える。球面幾何学に直線は登場しない。著者二人はこのことを念頭に置きつつ、幾何学における円の性質を調べる旅に乗り出した。
 数学史では、円はおそらく他のどんな図形よりも数学者を魅了してきた。円の歴史の道のりの一方には、円周率π(パイ)の探究がある。πの正確な、あるいはほとんど正確な値という目標は、何世紀にもわたって数学者をとりこにしてきた。」

「円と球は古来、あらゆる文化で象徴として用いられてきた。先史時代の儀式の場は円形であることが多く、今もいくつもの先住民の居住地が円形をとっている。キリスト教での被造物が成す階層構造や禅宗での悟りの段階など、中心から広がる円は調和の象徴だ。円は反復のシンボルであると同時に、自然に存在するあらゆるもの(太陽、月、我らが大地)の基礎も成している。大地そのものが、球形であることが知られていなかった時機には円盤と見られていた。円形を基盤に配置される曼荼羅は、物質的な世界から精神的な世界へ至る道筋を示している。チベット仏教の僧は今日でも、念の入った円形や曼荼羅を砂に描き、アルキメデスとは違い、そのうえで無常の象徴として自分でそれを消してしまう。
 数学の理論上では、円と球は完璧な幾何学的形態と考えられ、その概念はあらゆる概念の指導要領に浸透している。幼児はさまざまな円形を描き、そこに色を塗るところから始める。円の作図の練習は、対称性の概念をつかむ手助けになる。生徒はそのあたりから学びを進めて、円にかかわる多くの幾何学関係に遭遇することで数学の学習を続ける。その学習はもちろん、「ジオミーターズ・スケッチパッド」や「ジオジブラ」などの動的幾何学ソフトで大いに補強される。円の応用範囲を円錐、円柱、球に広げたり、三角法を使ったりすることで、円の重要性がくっきりと浮き彫りになる。球面上の大円に関する学習にまで広がれば、平面幾何学を球面幾何学に拡張することになる。πの値の計算といった、初等的な範囲にあってもアマ・プロを問わず何世代もの数学者たちをとりこにしてきた問題もあれば、円積問題や、確率論的なシミュレーションを用いて円の面積を求めるような、高度な問題もある。」

「宗教の舞台でも、円は根源的な役割を演じてきた。キリスト教においては、神は球で、その中心がいたるところにあり、外縁部というものはどこにもないと考えられていた。ギリシアの哲学者プロティノスは、無限の球という象徴表現による神秘的な幾何学の観点から、それを無限な始原の力と解釈した。ドイツの哲学者ニコラウス・クザーヌスは、中世から近代への移行期に、宇宙の範囲を球体の内側に限定するのではなく、潜在的に無限に広がるものだと説いた最初の人物であった。無限においては、円も直線も同じになる。そこでは、神は中心に、神の子は半径範囲内に、聖霊は外周に位置すると解釈されていた。その後、ケプラーはこの象徴表現を世界の姿を説明する際に用い、太陽の中心を父なる神のイメージと解釈し、有限数の恒星を神の子、エーテルで満たされる空間を聖霊の象徴と解釈した。それ以降は、知見や知識を得る方法は、主に自然哲学、つまり神が姿を変えた永遠の世界についての学問が、役割を担っていくようになった。神学、数学、自然学は、偉大な科学者の推論ではつねに密接に結びついていた(今でもそうだろう)。神学における球と円は、プラトンの「人間球体論」のような突飛な推論で使われたような絶対を表す象徴というよりは、神学者のオリゲネスによる、復活のあと、死者の魂と死者の体は、それぞれ球の形をとるというような見立てで用いられた。
 さらには、「永遠」という概念にさえ、完璧な円形となぞらえる向きもある。ダンテの『神曲 天国篇』第14歌にある円の二重の動きに、その一例が表れている。

中心から円の縁へ、そして円の縁から中心へと
一つの円い壺に入った水は、
外を、あるいは中を打たれたかに応じて動いていく。
(原基晶訳)

 この思想は、イタリアの神学者トマス・アクィナスの、以下のような教えにも表れている。「永遠は円の中心に等しい。単純で分割できないが、そこには時間の流れ全体が含まれ、時間の各区部分は同じように等しく存在する」
 また、神の受肉とは、世界を際限なく包み込む存在であるということが、共通の主題として歌われる。イギリスの宗教詩人リチャード・クラショーは、情熱的な詞、「われらが主、神の栄光の至福のなかで」に印象的な表現がある。

夜の昼なるあなた、西の東なるあなたへ、見よ、われらはついに道を見出した。あなたへの道、世界の偉大な普遍の東への道。すべての、平凡な比。すべて円を描く点。すべて中心のある球・・・・・・

 ここにも、神学と数学の奇跡的な邂逅がある。中心としての神は線へと続き、世界と人間は、中心の放射によって生まれる円のようなものなのだ。
 時をさかのぼるとピタゴラスも、点の生成力を指摘したいた。プロティノスにとって、中心は円の父だった。アンゲルス・シレジウスという17世紀ドイツの神秘思想家にして宗教詩人は、「神はわが点にして円」と題してこう綴る。

私が神を私のなかに収めるとき、神はわが中心。またわが円周。
愛のために私がそのなかで融けてしまうときは。

 しかし17世紀以降は、円と球の偉大なる象徴はその意味を、神から人間へと方向転換した。「私の魂は中心にある無限の球」と、イギリスの聖職者で詩人、トマス・トラハーンは述べる。
 近代における最も重要だと思われる信仰詩は、オーストリアのボヘミア詩人ライナー・マリア・リルケの作で、それはこう始まる。「私はわが人生を大きくなる円で過ごす。それは私のまわりの事物の上を輪のように広がる・・・・・・」

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