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山本芳久『世界は善に満ちている/トマス・アクィナス哲学講義』

☆mediopos2268  2021.1.31

禅に啐啄同時という言葉がある

鳥の雛が卵から出ようとするのと
母鳥が外から殻を啄くのが
同時であるという意から
弟子の求めと師の教えが
相通じることを意味している

トマス・アクィナスの「感情論」は
それにも似たところがあるようだ
マタイ福音書にある
「求めよさらば与えられん」という
ことにも通じている

以下の引用にもあるように
最近よく錯誤されて使われていることの多い
「自己肯定感」と関連していうならば

「自己」を「肯定」しようとするならば
「自己」だけを「肯定」すればいいのではなく
「世界」を同時に「肯定」し
さらにいえば「愛」さなければならないということだ
好きこそものの上手なれということにもつながる

もちろんそれは
人を愛したら必ず愛されるとは限らないように
与えたら必ず与えられるという
短絡的なありようではない

逆説的なたとえでいえば
手を握りしめ閉じてしまえば摑むことができない
器に容れるところがなければ
器に盛ることはできないということでもある
そのときの掌や器は空だけれども空ではない
その場所は愛を満たすためのポテンシャルなのだ

シュタイナーが教育において
また霊性を高めることにおいて
畏敬を重要視しているのもそれと同じだ
空として虚心坦懐に受け容れるための
魂の場所が必要だということ

畏敬というのは
いってみれば世界を肯定すること
人を畏敬するというのも
その人という扉を通じて
世界を肯定できる魂をつくるということだ
逆に批判のための批判は魂を貧しくする

世界を肯定的に求め
そのことで世界の「善」を「愛」を
みずからのうちに「刻印」する
そのことでさらに
世界の「善」「愛」も豊かにしていく

そのとき
「求める」ことと
「与えられる」ことは
啐啄同時となる

■山本芳久『世界は善に満ちている/トマス・アクィナス哲学講義』(新潮選書 2021.1)

「愛とは「愛されるもの」から被る「刻印(impressio)」だというのがトマス感情論の基本的な洞察である。その感情論のテクストそのものが、そしてその著者であるトマスという人物が、私の心の奥深くに刻印されて現在に至っている。」

「哲学者/ここ十年くらい、「自己肯定感」という言葉が使われることがとても多くなりましたね。本屋に行くと、そういう感じのタイトルの本があふれていますし、ネットでもこの言葉が使われることがとても多いと思います。
学生/そですね。先生の「肯定の哲学」もその流れに棹さすものではないのですか。
哲学者/人間が生きていくにあたって「肯定」というものがとても重要だと考えるという意味においてはそうですね。
学生/なんだか、先生の「肯定の哲学」は、それらとは違うと言いたそうですね。
哲学者/はい。「自己肯定感」を主題にしている本では、やはり、文字通り、「自己」を「肯定」することの大切さが強調されていることが多いと思うのです。
学生/それではダメなのですか。
哲学者/ダメというわけではありませんが、すべての人間が、この世界と切り離しえない関係性のうちに生きています。そうである以上、自己を愛するということは、自己と切り離しえないこの世界をも同時に肯定し愛するということだと思うのです。「この世界にはろくなものが存在しないし、ろくな出来事も起こらないし、周りも虫の好かない奴ばかりだけれども、自分のことだけはとても好きだ」というようなことはありえないように思います。
学生/たしかに私も「何も好きになることができない自分自身も好きになれない」と考えていましたね。
哲学者/君の言葉を逆転させて、「様々なものに心を動かされ、それらを好きになることができている自分のことが好きになる」ということも言えるのではないかと思うのです。たとえまだ実際に獲得することはできていなくても、様々な「欲求されうるもの」との「心における一致」が実現していて、多様な「欲求されうるもの」の「刻印」が心の中に存在している人は、自分を肯定しやすくなる。逆に、心の中にそういったものが全く存在しないと、心が空疎になってしまい、自分を肯定するのが難しくなってしまうと思います。
学生/先生がおっしゃりたいのは、「自己肯定感」を抱きたいのであれば、「自己」にこだわるのではなく、むしろ、「この世界に満ちている様々な事物や人物の「欲求可能性」に気づくことが近道だということですね。」

「学生/結局のところ、「肯定の哲学」の核になるのは、「愛」についての理論なのだと理解しました。だからこそ、トマスは、「愛」という感情のことを、「欲求されうるものから被る欲求能力の第一の変化」「愛されるものの刻印」「欲求されうるものが気に入ること」「善が気に入ること」など、実に様々な概念を駆使しながら定義しているのですね。
哲学者/そのとおりです。
学生/「愛」の話で面白かったのは、まず、「愛」という感情が、心の中から自発的に生まれてくるというよりは、むしろ、外界の魅力的なものから揺り動かされることによって受動的な仕方で生じてくるという点でした。
 また「complacentia(気に入ること)」という言葉のなかに、「placeo(喜ばせる)」という言葉が含まれていて、何ものかに対して「愛」を抱くこと自体のなかに、すでにある種の「喜び」が含まれているというお話は、とても啓発的でした。」

「哲学者/「欲求されうるもの」という概念は、欲求する主体の側にのみ根拠があると考えることも、欲求されるものの側にのみ根拠があると考えることも、どちらも一面的だということを表しています。欲求の運動が成立するのは、「欲求されうるもの」と「欲求する主体」との共同作業によるのです。」
「哲学者/「愛」が成立するにあたって、「欲求されうるもの」の側のはたらきかけのみではなく、はたらきかけを被る側の在り方も重要な役割を果たしています。
 たとえば、同じ時に同じ音楽が聞こえてきても、心を打たれる人もいれば、打たれない人もいます。また、同じ人であっても、以前はその音楽に心を動かされなかったのに、いまは激しく揺り動かされるというようなことも起こったりします。」

「学生/「徳」を身につけることができれば、より豊かに「善」と出会い、より「喜び」に満ちた人生を送ることができるということでしょうか。
哲学者/そのとおりです。(・・・)
 いま自分に見えているものが、この世界のすべてではない。この世界のうちには、まだ自分には見えていない様々な価値、様々な「善」が存在している。ある種の訓練(・・・)を積むことによって、または「徳」を身につけることによって、もしくは自分の心にふとした機械に訴えかけてくる何らかの「善」との出会いによって、より多様で豊かな「善」の世界へと自らが開かれていく。私たちの生きているこの世界には、未知なる「善」が計り知れないほど埋もれているのだ。----そういう感覚をもって生きることができれば、人生の奥行きというか広がりというか、そういうものが随分と変わってくるのではないかと思います。」

「学生/「刻印」を育んでいくということはどういうことでしょうか。
哲学者/(・・・)「いいな」と思うものから心を揺り動かされることによって、受動的な仕方で「愛」という感情が生まれてくる。「愛されるもの」が、愛を抱く主体である私の心のなかに住み始める、というような仕方で説明してきたと思います。
 ですが、もう少し踏み込んで言うならば、愛することのできる新たな対象に出会うということは、自分の心が、その対象によって活性化させられる、新たな生命を与えられる、少し難しい言葉を使うならば、賦活されるということなのです。」

「哲学者/「感情」を抱くということは、外界の事物から心を受動的に動かされることであり、しかも自分とは異なる何らかの事物や人物が、単に心の表層をなぞるだけではなく、自らの心の構成要素となるまでに深く入りこんでくることを意味します。ですから、自己の心の肯定をかき乱す出来事だとも言えます。
 じっさい、「愛」「憎しみ」「恐れ」「怒り」「絶望」といった感情に深く揺り動かされすぎることによって、人生を台無しにするような極端な行動に走ってしまうことはしばしば起こりますし、誰であれ、多かれ少なかれ、自分の「感情」のコントロールに苦慮させられた経験があると思います。
 ですが、そのようなある種の危険を孕んだ対象との出会いによってこそ、私たちの心は賦活され、能動的に新たな行為に取り掛かっていくための原動力を与えられていくわけです。そのような意味において、受動的に生まれてくる「感情」を抱くということそのものが、私たちの精神を、この世界に対して深く開いていく一種の「行為」であり「活動」だと言われているのです。」

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