見出し画像

岩川ありさ「養生する言葉〜アンラーンの練習 学びほぐすことと学び返すこと」/西平直『稽古の思想』/東浩紀『訂正可能性の哲学』/大江健三郎『定義集』/鶴見俊輔『新しい風土記へ 』

☆mediopos3487  2024.6.4

学ぶ「ラーン(learn)」に対して
学んだことを忘れる・離れる「アンラーン(unlearn)」
という言葉があるが

クィア批評・トラウマ研究の岩川ありさが
『群像』での連載「養生する言葉」で
「アンラーンの練習————学びほぐすことと学び返すこと」
について書いている

岩川の学びかたはこれまで
「「物知りの人」に「正しいこと」を
教えてもらう態度にほかならなかった」が

「自分よりも上の世代の人たちにしか学べない
という強固な思い込み」をほどき
「あらゆるものから新しく学」ぶために

そして「自分はもう全部知っていると思い込む」ことで
「何も学べなくなってしまう」危険性から離れるために

「「アンラーン(unlearn)。学びほぐす。学び返す。」

この言葉が「とても大事になってきた」という

その言葉に出会ったのは
大江健三郎の『定義集』に収められた
「学び返す」と「教え返す」というエッセイ

大江はそのエッセイのなかで
鶴見俊輔がunlearnを
「まなびほぐす」と訳していることに触れている

「大学で学ぶ知識はむろん必要だ。
しかし覚えただけでは役に立たない。
それを学びほぐしたものが血となり肉となる。」
というのである

「学ぶ」ことは「一度で終わる営み」ではない
「これまでもつづき、これから先もつづいてゆく
長い過程の総体」であり

「「型通り」に編むこと」も困難だが
「ほどくこと」はそれにもまして困難である

その「アンラーン」について
西平直が『稽古の思想』で要を得た説明を加えていて
それを「脱学習」と呼んでいる

「「世阿弥が「似せぬ」と語った
「離れる・手放す・明け渡す」方向」で
「学んだことを忘れる・離れるunlearn」ということ

「稽古」は「わざ」を習い
「技術を学び、技芸を身につけ、その道の「わざ」を
完全に習得することを目指している」が
それが最終到達点なのではなく

「「わざ」に囚われることを警戒し、
「わざから離れる」ことを勧める」

「わざ」に囚われるを言い換えると
「型に縛られる」ということでもある

そのため「「型」に縛られる危険を語り、
「守破離」という仕方で「離れる」こと」が
稽古プロセスの中に最初から組み込まれている

ただ「稽古」といえば
かなり特殊な学習−脱学習のシステムだが
学校やそれに準じた場においては
おそらく「守破離」というプロセスは困難で

「型に縛られる」
つまり与えられたものをそのまま
知識として覚え込むだけの
いわば「洗脳」システム的に機能し
そのシステムに「脱学習」を組み込むのは
きわめて困難であると思われる
むしろ「脱学習」が排されてしまっている

視点はいわゆる知的な領域に限定されるが
哲学の領域でも昨年
東浩紀『訂正可能性の哲学』が刊行されている

そこで説かれていることは
「まずはそのルールを変える力、
ルールがいかに変わりうるかを示す力」が
必要なのではないかという
きわめて常識的なことではあるのだが

「哲学はまさにその変革可能性を示す営みであり、
だから生きることにとって必要」だという

これまで「哲学者の使命」は
「正義や愛について「説明する」」ことだったが
必要なのは「それらの感覚を「変える」ことにあるのだと
考えるようになった」というのである

哲学にもようやく
「アンラーン(unlearn)」のエッセンスが
加わりはじめたということでもあるかもしれない

しかし「洗脳」を「解除」することは
きわめてむずかしい
それは宗教的な回心のようなものでもあるからだ

しかし学習−脱学習が
持続的なプロセスとして可能とならないかぎり
事態が変わっていくことはなさそうである

■岩川ありさ「養生する言葉 連載第11回
 アンラーンの練習————学びほぐすことと学び返すこと」
 (『群像』2024年6月号)
■鶴見俊輔『新しい風土記へ 鶴見俊輔座談』 (朝日新書 2010/7)
■大江健三郎『定義集』 (朝日文庫 2016/11)
■西平直『稽古の思想』(春秋社 2019/4)
■東浩紀『訂正可能性の哲学』 (ゲンロン 2023/9)

**(岩川ありさ「アンラーンの練習」〜「学こと学びほぐすこと————鶴見俊輔の言葉から」より)

*「自分の先生にあたる人たちがこの世からいなくなるのが怖かった。

 幼い恐れであるが、「そのとき」が訪れてしまったら、もう教えてもらえないのだと、さみしくて仕方がなかった。しかし、ある時期から、自分よりも上の世代の人から教わるのが学ぶことだという考えかたが大きく変わってきた。一方的に何かを教えてもらえることを当然のものとしていた自分が恥ずかしくなった。私の学びかたは「物知りの人」に「正しいこと」を教えてもらう態度にほかならなかった。「偉い人」に学ぶという、上から下への学びのモデルや「正しい答え」を導き出すことが一番大事だという教育のモデルは、一九八〇年に生まれた私と同じ世代の多くの人が共有している学びかたかもしれない。

 だが、積み重ねられてきた知見を正確に引き継ぎながらも、現在の社会や世界のありかたを問いなおし、新しい時代をつくるような学びを発見するためには、「これはあっていますか?」と答えあわせをするだけでは足りない。引き継ぎながら、どう新しくするか? 私よりも上の世代の多くの人々はこの大きな問いと戦ってきたように思う。私は今、その姿勢そのものをどう引き継ぐか試行錯誤している。

 それに加えて自分と同じ世代の人々、自分よりも後に生まれてきた世代の人々の仕事に学ぶことが多くなってきた。自分よりも上の世代の人たちにしか学べないという強固な思い込みはほどかれ、あらゆるものから新しく学ぶ。その度に、自分の無知が恥ずかしくなった。ある人たちの文化について私は無知だった。ある世代の人たちが切実なものとしている問いに応答するに足る言葉を私は持ちああさせていなかった。それに加えて、近年感じるのは、無知であることよりも、自分はもう全部知っていると思い込むほうが危ないということだ。思い込んでしまうと、もうそれ以上、何も学べなくなってしまう。自分は無知であると知ることこそ、本当のはじまりである。とはいえ、これまでと同じような方法で、同じ枠組みでもって、別のことを知るだけでは十分ではない。」

「アンラーン(unlearn)。学びほぐす。学び返す。

 この言葉が私のなかで去年からとても大事になってきた。

 私は大江健三郎の『定義集』(朝日文庫、二〇一六年)のなかに収められた「学び返す」と「教え返す」というエッセイでこの訳語と出会った。それまでにも、unlearnという言葉について、ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァクの『サバルタンは語ることができるか』(みすず書房、一九九八年)にある「忘れさっれみる」(上村忠男訳)という訳語を知っていた。上村は、「訳者あとがき」で、『スピヴァク・リーダー』という本を取り上げ、「学び知って獲得してきた特権」が「別の知識を獲得するのをさまたげてきたのかもしれない」というのが、スピヴァクの議論のなかでは重要だと指摘されていると紹介している。そして、それらを忘れ去ること、unleranすることについて書いており、私はこれを重要な概念であるとこれまでも思ってきたが、大江の本を読み、unlearnという概念がほかのさまざまな事柄にも広がってゆくような気がした。」

「大江は、「学び返す」(unlearn)と「教え返す」(unteach)という言葉を「対の英単語」として覚えたという。そのエッセイのなかで、大江は鶴見俊輔がunlearnを「まなびほぐす」と訳していることに触れている。」

「鶴見はいくつかの著作や対談のなかで、この「アンラーン」という言葉と自分がどのようにして出会ったのかについて書いている。大江は、ホスピスケアに力を尽くしてきた医師の徳永進と鶴見の対談の後記にあたる「死に臨む人の言葉をくみ取る」が「朝日新聞」に掲載されたさいのバージョンを読んで言及しているので、ここでも、その対談が収められた鶴見俊輔編著『新しい風土記へ————鶴見俊輔座談』(朝日新書、二〇一〇年)から引用する。

  戦前、私はニューヨークでヘレン・ケラー(一八八〇〜一九六八)に会った。私が大学生であると知ると、「私は大学でたくさんのことを学んだが、そのあとたくさん、学びほぐさなければならなかった」といった。学び(ラーン)、のちに学びほぐす(アンラーン)。「アンラーン」という言葉は初めて聞いたが、意味はわかった。型通りにセーターを編み、ほどいて元の毛糸に戻して自分の体に合わせて編みなおすという情景が想像された。
 大学で学ぶ知識はむろん必要だ。しかし覚えただけでは役に立たない。それを学びほぐしたものが血となり肉となる。(『新しい風土記へ————鶴見俊輔座談』、五一−五二頁)

 ヘレン・ケラーの言葉を鶴見はまさに自分自身の血肉として理解しようと試みる。」

「おぼえた。知った。ときほぐした。編みなおした。

 学ぶということが一度で終わる営みのように私は思うようになっていた。けれども、学ぶというのは、これまでもつづき、これから先もつづいてゆく長い過程の総体だった。鶴見がいう「毛糸」と「編」むという比喩に倣うと、私たちは、一度、身につけ、いわば編み終えたと思い込んでいる「知」をもときほぐし、新しくする過程を必要とするのだといえる。鶴見の文章からは、編むこと、ほどくことの鮮烈なイメージを受けとるが、「型通り」に編むことの困難さと同時に、私はほどくことの難しさを思う。

 絡みつき、自分を縛る鎖のような「セーター」を私たちはこの社会で着せられることがある。それをほどき、編みなおすとき、編み目の強固さゆえに、ほどく作業に時間がかかり、その労力がマイノリティによりたくさん、一方的に求められることが多い。自分の形を知ることが容易ではない場合もある。それでも、この世界にある学びの体系のなかに組み込まれた途端、私たちはすでにある「型」にはまることを求められる。

 言葉、仕草、呼吸の方法、遊びかたや休みかたにいたるまで、「正しく学ぶべきだ」とされている事柄があまりにも多すぎる。正解はないはずなのに「正しさ」から外れていないか気になるようにつくられた学びが今の社会にはあふれている。学んだことをゆっくりとときほぐす時間も、検討する時間も、味わう時間も、消化する時間も、しばらく休む時間もないまま、駆り立てられるように、どれだけ自分が多くを知っているのか示すために学ぶことがブームになっているのが現状のように感じる。

 学校教育では、「型通り」に学び、自分を苦しめるかもしれない「知」を編むことが求められる場合がある。そのうえ、編むための「毛糸」がそもそも自分をあらわすための言葉がなかったとしたら、私たちは上手く自分の物語を紡げないだろう。」

**(西平直『稽古の思想』〜「第1章 「気にする」のか「気にしない」のか」より)

・「わざを習う」と「わざから離れる」

*「稽古は「わざ」を習う。技術を学び、技芸を身につけ、その道の「わざ」を完全に習得することを目指している。
 ところが、「わざ」の習得が最終到達点ではない。その先がある。というより、稽古は「わざ」に囚われることを警戒し、「わざから離れる」ことを勧めるのである。

「稽古の思想には「囚われる」に類する言葉がしばしば登場する。例えば、繋縛(けばく)される、あるいは「居づく」という言葉が用いられることもある。

 その中で、最も知られているのは「型に縛られる」という用例である。型が流れを妨げ、自由に動くことができない。型に執着してしまう。稽古はそれを危惧する。「型」は必要なのだが、しかし「型」によって束縛され・拘束されてしまう危険を、稽古は繰り返し警告するのである。

 同じことが「わざ」についても語られる。長い時間をかけてようやく身に付けた「わざ」であるから大切である。大切であればあるほど、守りたくなる。「わざ」を遵守するために、自由な動きが固まり、「わざ」に縛られてしまう。稽古はそれを危惧するのである。そして「わざから離れる」方向を示す。

 つまり、二つのベクトルが区別される。ひとつは<わざを習う>方向、もうひとつは<わざから離れる>方向。

 順序としては前者が先立つ。「わざ」を習得していなければ「わざ」から離れることはできない。まず習得し、その後、離れる。離れることなく習得した「わざ」にそのまま留まってしまうと、そこに囚われてしまう。」

・反転する

*「「重要なのはその先である。稽古は、この二つの方向を、ただ対立させるのではなく、微妙な仕方で組み合わせようとする。」

「実は、「わざから離れる」ことが最終目的なのではない。(・・・)本当に大切なのはその後であって、それまでの「わざ」から離れようとしていると、おのずから、新たな「わざ」が生じてくる。その「生じてくる」出来事を大切にする。

 しかし、その生じてきた「わざ」も、再び自由な動きを縛ることになるなら、そこからも離れようとする。いわば次のサイクルに入る。しかし単なる繰り返しではなく。むしろ、そのつど、あらたな反転の機会を作るのである。

 こうして稽古は「反転」を大切にする。そして反転するためには、逆方向に向かう二つのベクトルが必要になる。その意味では、やはり逆方向であることが大切である。しかしそれは決して相手の消去を願うのではなく、「一方がなければ他方も存在できない」という意味において相補的である。
 そして、ここまで理解してみれば、稽古がなぜ常に「全体」を重視するのか、その理由が少し見えてくる。稽古は、最終的には、この二つのベクトルを併せ持った「全体」を大切にする。逆方向に向かう二つのベクトルが互いに補い合う「全体」が重要な目標なのである。」

**(西平直『稽古の思想』〜「第4章 脱学習unlearn」より)

*「世阿弥が「似せぬ」と語った「離れる・手放す・明け渡す」方向。面白いことに、英語にはunlearnという言葉がある。「学ぶlearn」に対して「学んだことを忘れる・離れるunlearn」。本書は「脱学習」と呼ぶ。」

・獲得したわざに縛られる

*「あらためて、最初から見直してみる。学ぶことは大切である。分からなかったことが分かるようになり、出来なかったことが出来るようになる。そうした喜ばしい方向が「学習」である。それは「教育」「発達」などと重なり、知識やわざの習得を目指す営みである。

 ところが、稽古の思想は、そうした喜びの先に目を留める。習得した知識に囚われる危険、あるいは、獲得したわざに縛られる危険である。

 思い出すのは、あるピアノの先生の言葉である。「あなたの演奏には楽譜が見える」。

 正確に弾いているのだが「楽譜」が見えてしまう。流れていない、歌がない。音と音が溶け合うような滑らかな流れを、楽譜が妨げてしまっている。楽譜に縛られているというのである。

 楽譜通りに弾くことを目指した練習の先に「楽譜に縛られるな」という言葉が待っている。楽譜通りに弾くために大変な労力を費やし、ようやく楽譜に忠実に演奏できるようになったと思ったら、今度は、楽譜から離れて、のびのび気持ちを表現せよというのである。「わざ」の習得をもう一歩先に進めるためには、今までのように「似する(習得する・学習する)」のではなくて、むしろそこから離れる。楽譜を目指すのではなく、楽譜から離れ、楽譜のことなど忘れて、曲を楽しむ。

 あるいは、世阿弥で言えば、単に「忘れる」のではなく、もはや気にする必要がないほど、からだに覚え込ませてしまう。楽譜を目指す練習とは異なる、楽譜から離れからだに染みこませてゆく方向。その方向が「脱学習」、「学習」に対する「脱学習」である。」

・脱学習

*「稽古の思想は「わざ」に囚われることを危惧する。「型」に縛られる危険を語り、「守破離」という仕方で「離れる」ことを、稽古プロセスの中に最初から組み込んでおくのである。

 興味深いことに、今日の「イノベーション理論」が同型の議論を展開している。既存の技術や理論に囚われていては「イノベーション」が生じない。何らか行き詰まり、一度撤退して最初から模索し直していると、しばしば「偶然」をきっかけに、今までとはまったく異なる地平が開けてくる。この「回り道」のゆとりがないと、「イノベーション」は成り立たないというのである。

 こうしたプロセスは「パラダイム破壊型イノベーション」と呼ばれる。これまでの「常識的パラダイム」を破壊し、その囚われから離れるというのである。

 本書はその方向を「脱学習」と呼ぶ。そして一度、「学習」と対立的に理解する。その後に、あらためて相互の関係を「二重写し」に見ようとするのである。」

**(東浩紀『訂正可能性の哲学』〜「おわりに」より)

「正義なんて本当は存在しない。同じように真理もないし愛もない。自我もないし美もないし自由もないし国家もない。すべてが幻想だ。

 みなそれは知っている。にもかかわらず、ほとんどのひとはそれらが存在するかのように行動している。それは何を意味するのか。人間についえての学問というのは、究極的にはすべてこの幻想の機能について考える営みだと思う。」

「ぼくはいつごろからか、哲学者の使命は、正義や愛について「説明する」ことにあるのではなく、それらの感覚を「変える」ことにあるのだと考えるようになった。それが本書でいう「訂正」である。

 人間は幻想がないと生きていけない。自然科学はそのメカニズムを外部から説明する。本書で参照した言語ゲーム論の比喩を使えれば、正義や愛のメカニズムを、まるでゲームを統べるルールであるかのように説明する。

 けれどもいくら成り立ちが解明されても、人間が人間であるかぎり。ぼくたちは結局同じ幻想を抱いて生きることしかできない。同じルールのもとで、同じゲームをプレイし続けることしかできない。正義や愛を信じることしかできない。だとすれば。ぼくたちに必要なのは、ルールを解明する力でへなく、まずはそのルールを変える力、ルールがいかに変わりうるかを示す力なのではないか。

 哲学はまさにその変革可能性を示す営みであり、だから生きることにとって必要なのだというのが、ぼくがみなさんに伝えたかったことである。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?