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伊勢武史『生態学者の目のツケドコロ』

☆mediopos2267  2021.1.30

コロナ禍は仕事上では
ずいぶん面倒や困難を抱えてしまっているが
個人的にはむしろ快適な環境になった

もともと群れることは避けるほうなので
宴会的な付き合いが減るのも
人とのディスタンスが求められるのも
とってもウェルカムである

そもそもステイホーム(歪な用語だ)がベースで
遊びに出かけるところは
人の少ない野山くらいなので影響はない

むしろコロナ禍が去って
人付き合いが増えたりしないように
やがて新たに編成されるだろう
「新しい生活様式」(これも歪な用語だ)なるものが
バランスされたものになることを願っている

どちらにしても
必要なものは復活するか
あらたな形に再編されることになるだろうし
不要だったものはやがて姿を消していき
新たに必要なものが生まれてくることになるだろう

世界中がさまざまに混乱しているのは悲しいが
その混乱によって見えてくるものがあることも
見逃してはならないように思われる

コロナ禍やアメリカ大統領選挙のような
極端なことが起こったときに
ひとがどのような態度をとり
どのような発言・批判などをするか
そうしたことを注意深く見ていると
それまでには見えにくかった
いってみれば魂の性質のようなものも顕わになる

まずリテラシー
なにがわかっていて
なにがわかっていないのか
わかったふりはむずかしくなる

そして関心
なんに関心をもっているか
逆にもっていないか
魂の志向するものがはっきりと見えてくる

さらにいえば心ばえ
心が外へ向いているか内へ向いているか
批判が好きか自省を心がけているか
心の温度(冷たいか逆に熱しやすいか)も隠せなくなる

ともあれ変化のさなか
そこでしか学べないものは
たしかに学べるようでありたい

■伊勢武史『生態学者の目のツケドコロ』(ベレ出版 2021.1)

「レリジエンスという概念がある。外圧によって変化してしまっても、もとに戻る能力のことである(ちなみにレジスタンスとは、外圧が加わっても変化を拒む能力だ)。ほんとうに人間にとって必要なことなら、コロナウイルスの影響でそれが一時中断しても、早晩もとに戻るだろう。
 食べることや人と話すこと。これらはウイルス蔓延の渦中では「悪」のようにみなされることもあったりするが、これらは人間の本能的なものだから、コロナ騒ぎが収束したらもとに戻るんじゃないだろうか。もとに戻るどころか、自粛の反動で、とてもテンションの高い数年がやってくるような気がしてならない。
 その一方で、満員電車で出社して、ときには新幹線に乗って出張して会議して、という現代日本の習慣は、コロナ騒ぎが終わってからも、もうもとに戻らない気がしている。」
「もっとも、満員電車で通勤するという選択にはメリットもあった。田舎で農業をするよりも都会で会社勤めをするほうが経済的に安定するので、トレードオフとして満員電車をがまんするのもわるくない。生態学的な表現をすると、都会で会社勤めをするという戦略にはデメリットもあるものの、総合的にはその人の生存と繁殖の役に立ってきたのかもしれない。
 このようなわけで、高度経済成長期には合理的だった「満員電車通勤戦略」だが、そのような生活習慣が廃れる機は徐々に熟していた。その最たる要員はインターネットだろう。インターネットが普及しはじめて20年あまり、いまでは有線でも無線でも高速で安定した通信が提供されていて、職種によってはその気になれば出社しなくても、全国どこにいても仕事できる状況はすでに整っていたのである。」
「コロナウイルスの影響強制的に、対面での会議はとつぜんの終焉を迎えることになった。在宅勤務未経験だった僕らは、最初は戸惑ったものの、慣れていまえば、毎日の通勤が必要ないことに気づいてしまったのである。」

「こんなふうに不可逆の変化が生じることとは、自然界でもある。たとえば森林火災がそうだ。森の樹木は葉や枝を一定のペースで入れ替えていくので、地面には枯葉や枯れ枝(有機物)が堆積していく。森の成立から時間がたてばたつほど、これらの有機物は増えていくことになる。そしてこの有機物は、森林火災の燃料になるのだ。一見安定しているように見える森でも、じつは火災という劇的な変化を起こすための燃料を序序に蓄積しているのだ。森の樹木がさかんに活動すればするほど、森を焼き払うための燃料が蓄積されていく。そして、ずっと安定していると思われていた森林が、一晩で灰になったりする。
 これは、一見すると安定しているように見えた日本の「満員電車通勤社会」が、じつは変化を引き起こす要因を徐々に蓄積していたことと似ている。機が熟せばマッチ1本で大火事が起こるように、社会にも劇的な変化が訪れる。安定しているように見えるシステムでも、それがずっと続く保証はない。自然の生態系でも人間社会でもそれは真実だと思う。
『易変体義』という中国のマイナーな古典に「治が極まれば乱を思い、乱が極まれば治を思う」という表現があるらしい、
 安定しているように見えたら変化する、変化したと思ったらまた安定するみたいに、万物は流転しているという意味だろう。中国的な道教や老荘思想に通じる考え方であるが、現代社会を考えたり、生態系を科学的に捉えたりするときにも役立つ考え方である。とにかく、永続的な安定など幻想かもしれないのだ。」

「環境問題にかかわっている僕は、専門家目線とバランス目線の両方が大事だと思っている。このバランスは、政治家にも一般市民にとっても、とても大事である。(・・・)
 感染症の専門家は、感染拡大の最悪のシナリオを叫ぶ。何も対策をしなければ何十万人が死亡しますよと言う。それはちゃんとした根拠にもとづいて専門的に計算された数字である。しかし僕らは、科学者の計算にはすべて「仮定」が存在していることを忘れてはいけない。仮定を無視して、結果だけで大騒ぎしてはいけない。専門家の言うことを、感情的にならず冷静に受け止めることが大事。
 専門家は得てして、通常はあり得ないような仮定を設定しがちである。たとえば、まったくコロナ対策をしないい(予防も治療もしない)というシナリオを想定し、その場合は日本で何十万人が死亡する、とシミュレーションする。これは別に、市民をいたずらにおびえさせるためではない。最悪のシナリオを比較対象として設定することで、その後検討する種々の対策がどの程度の効果を持つのかを客観的・定量的に表現することが可能になるのだ。しかし、ショッキングな予想だけが切り取られてワイドショーで取り上げられると世間はパニックを起こす。過敏になって不謹慎狩りを起こす人まで出る始末だ。
 これは科学者とマスコミと市民それぞれが意識しなければいけない問題である。マスコミは、専門家が学術論文でやっていることをそのまま世間に出すとパニックが起きることを忘れてはならない。一般市民は、専門家は仮定にもとづいた計算を発表しているだけだから、それは単なる思考実験として捉えなくてはならない。これは科学リテラシーの一環だ。
 科学リテラシーは、研究者の話を聞くときにマスコミや市民が前提として知っているべき考え方のこと。SNSなどを見ていると、科学リテラシーが欠如した状態で世論が形成されていることも多々あり、あぶかっかしいなあと思う。」

「どんな対策がベストなのか。ベストな対策は、感染症の専門家の言いなりになることではない。経済の専門家の言いなりでもいけない。そのあいだのどこかにあるだろう。それを探すのが政治家の役割である。そして、政治家に権力を与えているのは僕ら市民である。これが民主主義だ。しかし、市民がマスコミに惑わされて、感情的になって過激なコロナ対策を求めるようになると悲劇が起こるのである。
 ちなみに、社会がからんだとき、「ベスト」とは「100点満点」ではないことを、僕らはちゃんと覚えておかなければならない。(・・・)
 世の中には案外、100点か0点か、という二元論でしかものを考えない人が多い。でもそれって弱さじゃないだろうか。100点を取れないなら意味がない、ならば努力は無価値だから0点でいいや、と考える人は、努力することから逃げていると思う。僕らは強いところをキープして、50点を55点にするための工夫をする・その次は57点を目指す。100点じゃなきゃ文句を言う人は、そんな僕らをあざけり中傷するだろうが、負けてはいけない。」

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