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大谷能生『〈ツイッター〉にとって美とはなにか/SNS以後に「書く」ということ』

☆mediopos3334  2024.1.3

『〈ツイッター〉にとって美とはなにか』というタイトルは
吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』の
「言語」を「ツイッター」に置き換えたもの
(いうまでもなく「ツイッター」は
二〇二三年に「X」と名称を変えている)

サックス奏者であり批評家の『大谷能生』による
インターネット環境とデジタル・デバイスの発達以降
「書くこと」と「話すこと」が限りなく近接する
現代における「表現」に関する論考である

「書く」ことや「読むこと」は
ほんらい「話す」ことの対極にあり
「話す」わたしたちのあいだを隔てることになる

つまり「読み書きという言語活動は、目の前に
自身の発話を聞いてくれる人がいない状態でおこなわれる。」

「自分の声を文字にして書くに当たって、会話とは異なり、
自分自身を聞き手として」
言語活動のための〈場面〉を作り上げながら
表現を行わなければならないのである
そしてそれはわたしを「引き裂く」(疎外)ことでもある

それに対して「写真」あるいは「映像」においては
多くの場合そうした「言語活動」は不在である
それらは表現主体が不在でも成立するからである

SNSにおいては
多くそうした写真や映像が主となることで
「書く/読む」ということから
「話す/聞く」ということに近づいている

「書く/読む」ということは
その「疎外」を最大化することで
「いま目の前に存在している「映像」から目を逸らし、
自分の内側でおこなわれている「言語活動」の
〈場面〉にひきこもることによって初めて」可能となるが

SNSでの「表出」においては
そうした「書く/読む」ための能力は
あえて必要とされるわけではない
もっぱら映像や記号のみでもそれは可能となる

それを可能にしたのが
①機材の個人使用化・高性能化
②音響と映像の同期化
③文字情報の入出力の簡便化
④常時接続化
⑤大容量通信化
といったメディア環境である

そうしたメディア環境においては
まさにツイッターにおける投稿が
「つぶやき」と呼ばれているように
「書くことの出来る人々」でなくても
「表現」することができる

「書くことの出来る人々」だけの世界に
そうした「体制とは異なったシステム」が
持ち込まれることになったのである

本書ではそれを否定的にとらえているのではなく
そこにこれまでは表出することのできずにいた
「自分が自分から追いだした経験と向きあうことで生まれる力」
「そこで生まれる恐怖や怯え、興奮や悦びといった、
つまり、言葉が生み出す感情の広がりそのもの」を
「話すことと書くこととのあわい」に見出そうとしている

「ぼくたちの手の中にはいまだにラスコーの洞窟があり、
山の彼方で焚かれる篝火があり、
打ち砕かれたベルリンの壁の破片が薄く青く発光している。」
というのである

著者の大谷能生はそうした本書の「結論」について
「スマートフォンを所持していない人間のSNS論として、
やはりきわめて凡庸な結論に辿り着いてしまったようだ」
としているが

「凡庸」であるがゆえに
たとえそれが多くの「打ち捨てられた排泄物としての、
糞尿としての「コトバ」」を伴うものだとしても

それは特権的なメディアにおいて
特権的な表現者だけに許されていたような
「表出」からの自由のための光の種ともなり
そこから新たな可能性がひらかれもするはずである

■大谷能生『〈ツイッター〉にとって美とはなにか
      SNS以後に「書く」ということ 』
 (フィルムアート社 2023/11)

(「はじめに」より)

「ぼくたちの世界ではすでに「ツイッター」というソーシャル・ネットワーキング・サービスは存在しない。これからも存在しないだろう。日本版の開始は二〇〇八年とのことなので、最大四千五百万人ほどの人々が毎日「自己表出」のパフォーマンスを繰り広げた。わずか一五年ほどだったぼくたちの「ツイッター時代」の終焉に、タイトルにその名を残すことで哀悼の意を示したい。合唱。

 とはいえ、本文でも書いたのだが、ぼくはこの数年ケータイ不所持のまま生活しており、ツイッターは自分の活動の予定を(家のPCから)投稿・記録するだけ、フェイスブックその他に至っては利用してもいない。これはなんらかの心構えによるキリッとした選択というわけでは全然なく、単に必要ないしメンドくさいから、というきわめて消極的な振る舞いの選択の結果であって、逆に言うと(逆に?)、この本を書こうと思った動機のひとつは、ケータイを持っていることを多くの人がすでに当然とみなしていることへの若干の違和感があったのだと思う。ケータイって失くすと大変だから、いちいち以て歩くのって不安じゃないですか? そうでもないですか?」

(「第3章『言語にとって美とはなにか』/書くことによる「疎外」について」より)

「読み書きという言語活動は、目の前に自身の発話を聞いてくれる人がいない状態でおこなわれる。ぼくたちは自分の声を文字にして書くに当たって、会話とは異なり、自分自身を聞き手として、つまり、自分が使っているこのコトバが一体どのような〈指示表出〉と〈自己表出〉の織りなしによって出来ているのかを、一文書くたびにいちいち自分に確認を取りながら、言語活動のための〈場面〉を作り上げてゆく必要がある。」

「自身が使う言葉の〈自己表出〉性と〈指示表出〉性の傾きを、「書く」ことによって自覚すること————吉本によると、このような言語の二重性の経験こそが、これまで人間が生み出してきたさまざまな制度を支えている最大の原動力である。彼は『言語にとって美とはなにか』において、個人のものであると同時に社会のものでもある、古代から現在に至るニッポンにおける〈表出〉のアンサンブルを、おもに文学作品を例に取ることによって辿ってゆく。」

「やはり、書くこととは、それがどんな小さなツイッターへの書き込みであったとしても、吉本によればそれは、言葉の〈自己表出〉性と〈指示表出〉とのあいだで自身を引き裂かれる、マルクスにおける「疎外された労働」的な経験なのだ。」

(「第4章ヘーゲルの『精神現象学』/いまは夜である?」より)

「「書くこと」とはこのような複数の〈主体〉で作られる〈場面〉から切り離れ、文字でもって文字の上に自らの〈場面〉を押し広げてゆこうと試みる言語活動である————ヘーゲルの「真理」とは、「紙に書きつける」ことによっておこなわれる、このような単一主体による〈場面〉の積み重ねを通して始めて出現するものなのである。」

(「第5章ロラン・バルトの『明るい部屋』/〈それはかつてあった〉」より)

「写真はその明証性によって、その映像を巡る「言語活動」を抜きにして、いきなりそれが「かつてあった」ものであるということをぼくたちに理解させる。逆に言うならば、写真は自分自身の存在を証明するために、ぼくたちとわざわざ「言語活動」をおこなう必要はないのである。「写真」はその内部に、自分だけで成立する〈場面〉と〈主体〉と〈素材〉を予め備えている、ということも出来るかもしれない。「写真」の〈場面〉はそれだけで完結しており、遅れて来たぼくたちがその〈場面〉にもう一つの〈主体〉として参加する回路は、そこではあらかじめ閉ざされているのである。
 バルトを悩ませたのは、このような「写真」における「言語活動」の不在である。」

(「第6章吉本隆明のイメージ論/『記号の森の伝説歌』」より)

「言葉は自分に属するものであると同時に他人属するものである。そしてまた、言葉にはその外側があり、言語活動に属さないそのようなものたちによって(も)世界は支えられている。ぼくたちは「書くこと」によってこのような矛盾に直面し、また、現在は、そのような「言葉を書くこと」の上や横にひっきりなしに「映像」が重ねられることによって、書くことの矛盾から生み出される運動の力は大きく削減されることが常態となっている・・・・・・SNSへの投稿が「映像」中心になり、多くの人が「RT」あるいは「見たよ!」的なチェックだけで視線を次の映像へと移してゆく現在、言葉を書くことによる「疎外」はすでに希少的価値を持った経験となってきているのかもしれない。」

(「第22章〈喩〉と録音物、「ツイッター」と詩と批評」より)

「現在のSNSにおける「表出」を支えている条件について、これまでのメディア環境と比較しながら考えてみると、およそ次のような特徴が取り出せるのではないかと思う。

①機材の個人使用化・高性能化(による視聴の私有化。エディソン的映像への回帰)
②音響と映像の同期化(による表現の変化)
③文字情報の入出力の簡便化(による書き文字の会話化)
④常時接続化(による情報のフルタイム・トレード化)
⑤大容量通信化(によるマス・メディア的プログラムの一般化)

 だいたいこれくらいだろうか。メディア史的に捉えるならば、二〇世紀いっぱいをかけて映像・音響作品のどのどちらも、視聴覚のスタイルは「大勢で一緒に」から「一人で自由に」をスタンダードにする方向へと進んで来たように思われる。

 「文字」による表出は、印刷文化がスタートしてから率先してこの変化を体現して来た。つまり映像と音響の「個人ユース化」はその「文学」=「黙読」的経験へのシフトだと考えることも出来るわけだが。スマートフォン上で扱われる映像と音響のそのほとんどには、現在、もうものすごい数の「文字」が弾幕のように重ねられ、ぼくたちは「映像」をそれが伝達しようとする「意味」へとひたすら還元しながら、次々とリンクされてゆく情報を指先でくるくる捲ってゆくという行為を日々、一般的なものとして経験している。
 「映像」には〈場面〉がない、とぼくはこれまでに何度か書いてきた。これはもちろん時枝誠記の「言語過程説」を引き受けての話であり、視覚像はそのままでは「言語活動」を構成することは出来ず、それは「話すこと/聞くこと」「書くこと/読むこと」の中に混ぜ込まれることによってはじめて人間的な有用性を得る=〈場面〉あるいは〈素材〉としての力を発揮できるものになる、ということである。
 写真的映像は、ある日ある場所に存在した現実の切れっ端に過ぎず、たとえば、この女性の映像が誰かの「母」であるのか「娘」であるのか、きわめて貴重なものなのかどこにでもあるものなのか。先ほど撮られたものなのかそれとも半世紀前のものなのか云々についての情報を、映像それ自体から導き出すのは————それが「それを使用する」ためのコードに則って撮影されたものでない限り————きわめてむつかしい。
 そして、このような「映像」でもって「自分を見る」という行為は、おそらく、現在におけるもっともメジャーな「疎外」経験のひとつであるだろう。(・・・)
 ネットにアップされた映像は、すぐさま他の映像たちへとリンクされ、世界を満たしている膨大な映像群の一部へと編入され、そのようにして、世界にただひとつしかない「個」としての「自分」は、社会の中に映像として拡散された、いわば「類」としての自分の「指示表出」を見出してゆく。」

「ぼくたちは、いま書き綴られてゆく目の前の言葉をその内側だけで構成・展開させてゆくことを諦め、そこに接続される「映像」および他者の「言葉」を受け入れて、二四時間その価値と意味とが変化してゆくだろう「現在」の中に留まり続けるしかない。」

「「書く」ことによる疎外の経験を最大限に利用し、書かれたものによって展開される「自己表出」
性を最大限にまで高めることによって構成される〈喩〉としての世界は、いま目の前に存在している「映像」から目を逸らし、自分の内側でおこなわれている「言語活動」の〈場面〉にひきこもることによって初めて、作り上げることができるのだ。

 文章を書き始めた最初から、ぼくはこのような〈喩〉を作るための「言語活動」への疑問があったように思う。
(・・・)
 ライブによる演奏は、それについて書かれない限り、あるいは語り継がれない限り(ヘーゲル的な)歴史としては記録されない。もう終わってしまった事柄こそ言葉の語るべき対象であって、言語にちょる「表出」は、もうすでに目の前にないモノや経験を巡って初めて十分に起動される。人は言葉を書いたり読んだりしているとき、その言葉が指し示す対象を実際はすでに失っているのである。こうした世界は書き言葉の中で〈像〉や〈喩〉として再生されるが、レコードに録音された声や音楽は、それがコトバとして書かれているときも、読み終わったあとも、ずっと変わらずに何度でもぼくたちに同じ経験を与えてくれる装置なのである。ここには、もしかすると、「まなざす」ことから「きく」ことへと認識の中心をシフトさせてゆくためのきっかけが存在しているのかもしれない。このような予感とともに、こうした装置に対するための言葉とは。どのような「表出」のスタイルでもって書かれるべきなのか・・・・・・決して終わってはくれないものを。そこにあるだろう未知の力とともに再生するためには、読み書きという行為をどのような場所に連れ出すべきなのか。」

「ぼくたちは現在。自らを含む世界のイメージを「写真」に撮り、それをSNS上にアップすることを通して、日々くり返し「自分が作ったものが自分とは疎遠な対象になる」という「疎外」の経験を積み重ねている。「書く」ことを抜きにしても容易に経験することが出来るようになったこの「疎外」が、もっぱら「話す」ことによって日々の生活を営んでいる「大衆」を「歴史」の内側へと折りたたんでゆくための最大の動因となっているようにぼくには思われる。
 そしておそらく、このような「書く」ことの外側にある「疎外」の経験は、先ず真っ先に「録音された音楽を聴く」ことを通して、ぼくたちの娯楽の領域に侵入してきたのではないかと思う。」

「SNSにアクセスし、そこに表示されているものを眺め、書き込み、連絡し、そのような経験から得られる〈表現の厚みをくぐっているあいだ〉の〈遅延〉を感じ取り、「書く」ことと「話す」ことがかぎりなく近接しているこの表出から、具体的にまだ歴史の中に姿をあらわしていない存在を(〈海の方から、山の方からやって来た〉ものとしてではなく)ぼくたちの世界の主体としれ把握すること。「書く」ことによって歴史の中に場所を占めることの現在形とは、そのような作業になるのではないかとぼくは思う。」

「たとえば、これまでの社会を運営してきた「書くことの出来る人々」という存在が、彼/彼女がそのような状態になるまでのプロセス(弁証法的過程!)の一切を一旦、忘却の淵に沈めてでなければ成立しないものだったとするならば、おそらく「ツイッター」には、乳幼児から前青年期までの、まだ「書く人」=「大人」に達しない状態のぼくたちの姿が、その曖昧な社会性とともに映し出されているはずである。そこには「書く人」として暮らすぼくたちが切り落としてきた世界のルールが温存されてあり、つまり、現在の社会を支えている体制とは異なったシステムへの予兆が含まれている。もし社会が「書くこと」以降の文化だけで出来ているとするならば、自分たちが子供の頃に覚えたルールや感情でもってそこに適応することはむずかしく。そうやってぼくたちは、いつのまにか、自分の「趣味」と「社会」を分離させながら暮らすことを当然としてゆくのだろう。資本主義のシステムが強力なのは。それがまったくもって「書くこと」=「大人としての能力」を全面展開させることで成立するものだからであって、自身が「書く」ことへと向かったプロセスを忘却したままでは、このシステムの終焉を想像することは困難であるのも当然ではないかとぼくは思う。ぼくたちは自身の幼年期を何度でも「書く」ことによって思い出さなくてはならないし。そこで反復される疎外と退行の経験を抱えながら、現在、あらためて、社会的存在として暮らしてゆく必要があるのだとぼくは考える。

 ぼくたちの社会はすでにそのような「幼年期」抜きでは成立しない状態にあり、具体的には、たとえばコンビニその他に行けば、現在のニッポン社会の埒外=ぼくたちの歴史に属さない場所から来たと思われている多くの人がそこでレジを打っている。彼ら彼女らはもちろん〈書こうとすればたちまち傷つく人々〉である。そして、ぼく自身の生の中にもこのような「大人」的カテゴリーから弾き飛ばされたままの人々が生きており、そこには〈哲学の規範的な言葉〉では語られることのなかった声がある。」

「自分が書いたものであり、そしてもうすでに自分のものではない、打ち捨てられた排泄物としての、糞尿としての「コトバ」。このようなコトバとともに生きること————SNSの普及によって明らかになったことは。必ずしも「話す」ことだけでは浮き上がってこない、このような「書く」ことによって生まれる、自分が自分から追いだした経験と向きあうことで生まれる力であり、そこで生まれる恐怖や怯え、興奮や悦びといった、つまり、言葉が生み出す感情の広がりそのものである。話すことと書くこととのあわいにあって、そこでは見ることと聞くことの近代もあらたに組み直されてゆくはずである。ぼくたちの手の中にはいまだにラスコーの洞窟があり、山の彼方で焚かれる篝火があり、打ち砕かれたベルリンの壁の破片が薄く青く発光している。

 スマートフォンを所持していない人間のSNS論として、やはりきわめて凡庸な結論に辿り着いてしまったようだ。これらの言葉が誰かの手の中で、あるいは唇の上でふたたび孤独に呟かれることを規定してここで論を終えようと思う。」

【目次】
はじめに
第1部 言語論を再起動[リブート]する
 第1章  ケータイを失くす/菅谷規矩雄の『詩的リズム』
 第2章  時枝誠記の『国語学原論』/「相田みつを」の〈場面〉について
 第3章  『言語にとって美とはなにか』/書くことによる「疎外」について
 第4章  ヘーゲルの『精神現象学』/いまは夜である?
 第5章  ロラン・バルトの『明るい部屋』/〈それはかつてあった〉
 第6章  吉本隆明のイメージ論/『記号の森の伝説歌』
第2部 一九世紀のオペレーション・システム
 第7章  ルイス・キャロルとコナン・ドイル/ヴィクトリア朝の「指示表出」
 第8章  写実主義という「表出」/ボードレールの「現代性」
 第9章  マネの絵画と「シネマトグラフ」/無声映画における「言葉」
 第10章  カフカとヴィトゲンシュタインの「指示表出」
 第11章  音声中心主義という制度/『声と現象』&『言語と行為』
第3部 近代日本の境界面[インターフェイス]
 第12章  『文学論』と『俳諧大要』/夏目漱石と正岡子規
 第13章  石川啄木の短歌と借金/「ローマ字日記」という表出
 第14章  『古事記伝』と、本居宣長の「音声中心主義」
 第15章  『小林秀雄の恵み』/橋本治と一緒に読む小林秀雄
 第16章  本居宣長にとって「歌」とはなにか/小林秀雄の「近代性」
 第17章  「声を聞く」という批評/表現の厚みをくぐること
第4部 疎外・退行・排泄による更新[アップデート]
 第18章  『世界認識の方法』/〈大衆〉という概念について
 第19章  「書かない」ことの領域/「対幻想」とプロレタリア文化
 第20章  熟議と書くこと、民主主義と話すこと
 第21章  ドナルド・トランプと「祭式」への参加者たち
 第22章  〈喩〉と録音物、「ツイッター」と詩と批評

○大谷能生(おおたに・よしお)
・1972年6月29日生まれ。日本の評論家、サックス奏者、ラッパーである。慶應義塾大学アート・センター訪問所員。

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