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松村潔『人間は宇宙船だ』

☆mediopos-2257  2021.1.20

わたしたち人間は
惑星・地球で進化している存在だ
霊的人間観も
その惑星・地球でのそれである

シュタイナー神秘学では人間の構成要素を
霊・魂・体の三分節で説明したり
そのそれぞれを
霊人・生命霊・霊我という霊
感覚魂・悟性魂・意識魂という魂
肉体(物質体)・エーテル体・アストラル体という体
という九分節で説明したりする
七分節の場合は
肉体・エーテル体・アストラル体・自我
そして霊我・生命霊・霊人だ

その構成要素は
あくまでも惑星・地球システムにおける
現在の人間のそれであり
システムが変わればその構成要素も変わる

シュタイナー神秘学で重要視される
太陽霊であるキリスト存在が
惑星・地球システムのなかで存在し得たことが
地球紀における最重要なゴルゴタの秘儀となったのは
恒星システムにおける存在形態をもった存在が
人間の霊的進化に衝動を与えるために
惑星・地球システムにおける人間として
顕現したという稀有の現象だったからだ

シュタイナーが現代においてキリスト存在が
エーテル界に出現していると示唆しているのは
キリスト存在は現代では物質界には肉体を持ちえず
その七分節の最低レベルにおける身体が
エーテル界であるということでもある

惑星・地球で進化している存在であるということは
物質を認識する存在として
グルジエフ的にいえば
惑星意識H48を生きているということがいえる

H○○というのは存在の振動密度のことで
数字が少ないほどそれはいわば高次になり
H48より高いH12やH24を知覚することはできない

知覚できるのは月H96やH192の空気
H384の水・H768の土だ
ちなみに絶対(全宇宙)はH1・全太陽はH3
恒星はH6・全惑星へと下に向いた太陽はH12
そして全惑星はH24ということになる

惑星・地球で進化している人間は
現在H48の惑星意識のなかでしか
宇宙を認識できないということである

逆にいえば、H48よりも高次の意識システムの存在は
わたしたちが認識している物質のなかには顕現できず
それを認識することはできないということである
つまりエーテル界以上の構成要素しかみることができない

「人間は宇宙船だ」というのは
現在の在H48の惑星意識を越えて
宇宙を旅するということは
みずからの意識システムを変えることそのものが
宇宙船となってそのシステムで顕現するということである
その場合に宇宙船というのは
わたしたちのイメージしているような
物質的な宇宙船ではなく
意識システムそのものとしての存在ということだ

さてここからが本題なのだが
人間はなぜこのH48の惑星意識という
物質しか認識できない世界に存在しているのか

かつて仏陀はみずからが経験した高次の意識は
だれにも理解できないだろうということもあって
涅槃(高次の宇宙システム意識)に赴くことを断念
地上に留まって教えを説いた

じぶんだけが涅槃にゆくのではなく
すべての人類にその衝動を与えようとしたのだ
往相と還相ということにもみられるように
涅槃に赴くだけが目的ではなく
むしろ還相こそがその営為にとっては重要となる

ほんらい太陽霊は受肉できないにもかかわらず
さまざまな霊的プロセスを駆使して
キリスト・イエスという人間としての秘儀を行ったが
それは高次の存在の供犠でもあった

みずからが宇宙船となって
高次レベルの宇宙を旅することもできるにも関わらず
そうした衝動をどのようにとらえればいいのだろうか

この地球のなかで流転を繰り返すことを
地球に囚われているとすることもできるが
その囚われのなかでしか得ることのできないものが
この物質的なものの経験にあるととらえることもできる

しかしどのシステムにおいて存在するとしても
おそらく重要なのはそれぞれのシステムおいて
目覚めているということなのだろう

キリスト・イエスが十字架の上で
「父よ。彼らをお赦しください。
彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
そう言ったように
じぶんが何をしているのかを自覚していること
ゲッセマネの園で眠り込んでしまわないように

■松村潔『人間は宇宙船だ/次元を越えて隣の地球へ』
 (ナチュラルスピリット 2020.12)
■アルバート・ズスマン(石井秀治 訳)『人智学講座 魂の扉・十二感覚』
 (耕文舎+イザラ書房 1998.春)

(「松村潔『人間は宇宙船だ』より)

「わたしは12感覚を占星術の12サインと結びつけたシュタイナー−ズスマン説はかなり便利なものだと思った。生命は縦に七つの層を持ち、そして横に12の感覚を持つ。世界は感覚で受け取るものなので、感覚の働きがないなら、何も見ない、何も感じないというものになり、世界を認識できない。」

「シュタイナー−ズスマンは視覚や思考の反映ということをしつこく説明している。これは視覚というものはよく見間違うということとも関係する。事前に自分の抱く概念や思いがあり、それを裏書きする映像を見て、ほら、やっぱりと思うのだ。そしてそれ以外のものはなかったかのように見落とす。原初の二極化として、聖書にあるように、神は天と地をわけたという思考を作り出した。すると、わたしたちはこの天と地があるという思考から逃れることができず、視覚で上空の空と下にある大地という光景をそのまま見る。思考はそもそも個人所有ができないものだが、惑星意識H48人間は物質的個体に捕まっているので、物質的に見えるものに依存して生きる。個人所有できない思考が、視覚に反映されていくことで、思考は個人が所有できるものだとみなす傾向も出てくる。多くの人が目の前に同じものを見るというのは、個人所有できない思考が、それぞれの視覚に映し出されているということでもある。」

「グルジェフの思想だと、絶対の一なる原理は、創造のために自己分割をしていくが、1、3、6、12、48、96の順番で、創造の光線が降りることのでき低減は96の法則までだ。創造の光線を意識とか、想念とかみなしてもいい。96は月の振動密度や動物磁気、低次エーテル体などと名づけられるが、意識や想念にしたがって変化するのはここまでで、それよりも振動密度の低い物質は想念になかなか従わないということだ。想念に従わないからこそ、反対に言えば、不安な気分などがあっても、それに動じず、物質は安定してじっとしており、多くの人はそのことに依存して生きている。」

「わたしはマクロコスモスについては、グルジエフの体系を考えることが多いのだが、グルジエフの体系は太古から続く精神体系をすこし細かくしたようなもので、コスモスの単位についての尺度は、一つの音は七つに分割され、この七つのうち一つのなかにさらに七つができ上がるというような7の連鎖で考える。これはグルジエフに限らず、神智学や古い宗教体系ではだいたい共通していると思われる。」
「恒星あるいは太陽の先に、七つの恒星を示す全体用がある。この先に全宇宙という定義のものを想定するが、全惑星の次に惑星群を抱え込んだ太陽、恒星としての太陽という区別をしたように、七つの太陽である全体用の先に、いきなり全宇宙、つまりこの宇宙においての無があるということにすると段差がありすぎるような気もする。」
「わたしは下に向いた太陽と、月として上に向いた太陽との二つに分けてしまったので、法則の数あるいはグルジエフ式の水素の番号がグルジェフの説明とは合いにくくなった。
 <絶対>は法則1、全宇宙は法則3、太陽は法則12と説明されているが、最近よく説明する方式としては、<絶対>と全宇宙は法則1、全体用は法則3,上に向いた太陽としての恒星を法則6,下に向いた太陽を法則12と入れ替えた。」

「人間を身体的存在とみなすがゆえに、ともかくこの身体だけを強引に宇宙船に乗せて行けば、人間はどこかに生けると考える。だが、霊・魂・魄・肉という分類とは少し違うわけだが、人間を思考・感情・身体の三分節の生き物だと考えた場合は、実はどこかに旅行しても、身体はそこに行くが、感情と思考がついていくとは限らないということをもっと真剣に考えないといけない。」

「霊・魂・魄・肉という四つの分類もあれば、思考・感情・肉体という三つもあると言っても、基本の仕組みは別のことを指しているわけではなく、もっとくわしく分類すると人間は七つの要素でできている。グルジェフ式に言えば、霊を占める高次センター、魂を示す高次感情センター、加えて思考センター、感情センター、身体性。身体性の内部を三つに分割して、性センター、本能センター、動作センターに分けて、合計七つのセンターがあるという。これはチャクラの七つでもいいし、音階の7つの音と言ってもいいし、つまり人間は七つの中枢が精密に連動して生きているものであり、1つでも欠けがあるとその人間は維持できないのだと考えると、宇宙旅行をする時には、この全部が軸ずれすることなく運ばれなくてはならない。」

「どこかの宇宙に宇宙船に乗って入っていく時、宇宙と宇宙船は分離したものとして、大きな空間に異物が入り込んでいく光景を思い浮かべるが、これは地球に住む固形物としての人間が思い浮かべることで、実際は特定の宇宙に同調することでその宇宙の中に入る。つまり宇宙船はその宇宙そのものになる。この宇宙船の一番底部は、特定の時間・空間に同調し、他の感覚はそれにあわせていくことになる。
 世界のどん底にあるのが視覚と触覚だが、視覚はどん底に向かい、触覚はこのどん底から上昇しようとしている。どん底に降りたおとめ座の視覚こそ、感覚の中ではもっとも強固で重い。これは船をどこかに固定するために降ろす錨のようなものかもしれない。錨は小さなもので、ピンポイントの場所に釘付けするので広範囲にわたる場所に下ろすわけではない。人は見たもにに支配される。錨は何かを見ることで下ろしたことになる。
 かなりの人が人間は視覚に支配されていると自覚しているはずだ。何かを見た時、確かに見たのだから、それは現実だと感じる。ということは反対に、この視覚と、となりにある触覚を自由に扱うことができたら、他の感覚がそれについてくるもはそう難しくないので、かなりの比率で自由を獲得するのではないかと思える。どれかの感覚にひどく固執して、すなわち特定の世界とそれに結びついた感覚にしがみつくと、もちろん宇宙船の移動は難しいので、まずはこの世界と深く結びついた12の感覚とその結びつきをすこしずつ緩めて、可動性が高くなるようにしつけておくとよい。」

「視覚は広い範囲を見ることができない。視覚は狭い範囲を見るようにすればするほど明確になり、広い範囲を見ようとすると視覚の重さが減じて、だんだんと曖昧で力のないものになる。何より、わたしたちは身体の前方に目がついていて、後ろには目がない。この段階で、視覚は世界の前半分しか見ることができない。この部分化、分割というものが物質界の特徴で、目で見ることのできる前半部分を昼、目で見ることのできない後ろを夜に対応するとたとえてもいいかもしれない。
 この区分けの結果、たとえばわたしたちは起きている時を自分の活躍する時間帯だと思い、寝ている時は何もなかったことにしようとする。(・・・)
 前だけが見えるのが目だが、さらに、この前に見える視界をすべて見渡すわけではなく、視野狭窄症のように、興味を向けたものにフォーカスして、それ以外についてはあたかもなかったかのようにする。意識は射出されることで働くという時、意識と対象、すなわち主体と客体の二極化が起こることで、意識は客体に束縛されるが、同じように視覚は見たものに捕まり、それ以外のものを排除することで、自分の存在をどんどん限られた小さなものにしていく。真偽、善悪など白黒はっきりさせるのがおとめ座という点では、これをもっとも忠実に表現しているのが視覚なのだ。」

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