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荒川紘『龍の起源』

☆mediopos-2285  2021.2.17

蛇への信仰があった

蛇は恐怖されたがゆえにむしろ崇拝され
渦巻く水をとぐろを巻く蛇のように見て
水を蛇と一体化させることで
より強力な豊穣のシンボルともなった

龍はどのようにして生まれたか

西方の龍と東方の龍は
形態は共通していても性格は逆である

西方の龍のもととなったメソポタミアの龍は
ティグリスとユーフラテス河の氾濫を防ぐために
確立された強力な王権と官僚制によって
大河を治めるということから
龍は氾濫する大河を象徴するものとなり
そのシンボルであった蛇が悪神視されるようになった

それに対して東方の龍つまり主に中国の龍だが
黄河の治水に功のあった「㝢」が
龍の王と考えられていたように
巨大でかぎりない力をもった聖なる獣である龍が
天子の権力の強大さを示すシンボルとなった

龍という観念はそのように
東方では権力のシンボルとして
西方では反権力のシンボルとなったが
どちらにせよ「政治化された蛇」として
中央集権的な国家権力と関連して生まれた
というのが著者の基本的な捉え方である

そしてさらに
「天と地」という古代の宇宙論においては
洪水神話にもあるように
その「天と地」における水の秩序が重要になる

古代ギリシアの哲学者タレスは
万物の根源(アルケー)を「水」と考え
世界は水から成りやがて水に帰るという説を唱えたが
龍の始原的属性であった「水」は宇宙の原質として
「天と地」の宇宙論を基礎づけているともいえる

万物の始原にある水は
生命の源であるエーテルの働きでもある
その働きが蛇として表象され
さらにそれが角や足をもった龍として
権力及び反権力のシンボルとなったというわけだが

龍神でもありまたドラゴンでもある龍の力は
「天と地」つまり霊的な力と物質的な力のあいだで
両義的に働く力であるともいえる

その両義的な力は
自然の力としても
わたしたちの内的な生命力としても
龍神としてまた退治されるドラゴンとして
常に働きつづけてやまない

その力を使いながらどのように調和させていくか
それは現代そして未来においても重要な
生の課題として再認識される必要があるだろう

■荒川紘『龍の起源』(角川文庫 令和3年1月)

「蛇は忌みきらわれてきた動物である。」
「それにもかかわらず蛇は豊穣のシンボルとなった。とくに現実に猛毒のコブラまでもが護法の神となり、王権のシンボルとなった。そこには、恐るべき猛獣のライオンやトラが聖獣視されたのと同じような心理がある。恐怖心は畏怖に変わる----むしろ恐怖されたがゆえに崇拝されたのではなかろうか。このような蛇に対する先天的な恐怖心に起因する蛇の崇拝が男根との類似性に結びつき、それによって強力な豊穣のシンボルとなった。」
「古ヨーロッパ」の土器に施されている渦巻紋は、ギンブタスによれば、水の文様でもあり、蛇の文様でもあった。渦巻く水であり、とぐろを巻く蛇でもある。」
「いうまでもなく水はより直截的な豊穣のシンボルである。したがって、蛇が水と一体化することによって、豊穣性は強化される。その一面で蛇の表現は抽象的になり、蛇のイメージは薄められるのであるが、豊穣のシンボルとしての意味は逆に強められたのである。」
「渦巻文にしてもメアンダー(雷文)にしても二つの文様を単位とする例が多く、しかもそれが連続文の形で表現される場合が少なくない。この対形の文様は、ギンブタスもいうように、雌雄二匹の蛇の合一体であると考えてよいと思う。それは、水と蛇に生殖力を加えた、より強化された豊穣のシンボルである。」

「龍はどのようにして誕生したのか。」
「蛇の信仰は全地球的な広がりをみせたのだが、しかし、角や足をもつ複合動物の「龍らしい龍」の発生がみられたのは中国とメソポタミアだけであった。なぜ両地にのみ「龍らしい龍」は生まれたのか。この東方と西方の龍は、形態は共通しても性格は逆であった。それはいったいなぜなのか。」
「まず、西方の龍の祖先であったシュメールの龍から考えよう。
 最古の文明都市であったシュメールの経済的な基礎は、ティグリスとユーフラテス河の灌漑による農業にあった。両河の治水と灌漑によって、それまでは丘陵地帯で天水と湧水に依存していた農業は平野部ませ広がり、メソポタミアは文字通り「肥沃な三日月地帯」となる。そして、灌漑農業による農作物の増産は商・工業の発展、都市国家の形成をうながした。他方で、大規模な灌漑を可能にしたのはシュメールの強大な国家権力であった。間欠的に洪水のくりかえされるティグリスとユーフラテス河の氾濫を防ぐための堤防をきずき、耕地に水を注ぐための水路をひらくには、強力な王権と官僚制の確立が不可欠だったのである。
「生産と生活の前面に控えるのがティグリスとユーフラテスの大河。シュメールの王権が制圧・退治せねばならないこの両河は耕地を潤す水をもたらす河ではあるが、ときには濁流が生産と生活を壊滅させてしまう暴れ河である。このことも、水のシンボルであった蛇が悪神視されるようになった理由にあげられよう。
 そのとき、このような大河に小さな蛇は似つかわしくない。そして、より強烈なイメージを放つシンボルが求められたのではなかろうか。こうして、従来の水のシンボルである蛇を基体としながらも、巨大で、角や足もつ強力な動物、「龍らしい龍」が創造されたと推察されるのである、
 それに政治権力の示唆のためにも、権力に治められるべき大河のシンボルはできるかぎり強大であるべきだったのである。」
「メソポタミアの龍はメソポタミアの地で、新石器時代からの蛇の信仰をもとに、侵略者であったシュメールの政治権力とティグリスとユーフラテスの大河とから生まれたといえるのである。」

「中国の龍についても、その誕生の背景と歴史はメソポタミアによく似ている。」
「中国でも為政者の関心が黄河の治水と灌漑にむけられるとともに、蛇は龍に変容したと考えられよう。それは大河・黄河のシンボルとしても、天子の権力の強大さを示すシンボルとしても、巨大でかぎりなく強力な獣が創造されねばならなかったのである。
 ただし、中国の龍は権力者の敵対者とみなされない。逆に、もっとも聖なる動物であった。しかも、中国の龍は河や水の神であると同時に、河や水を治める王権のシンボルでもあった。「㝢」の甲骨文は二匹の蛇から構成されているのであり、したがって、地水に功のあった㝢も蛇あるいは龍の王と考えられていたのは明らかである。
 この西方の龍にはみられない性格は、自然を人間に敵対するものとはみない中国人の自然観にもつながる。」
「龍とは何か----これまで、巨大性、角と足の具有、異種動物の混成、多頭といった形態、あるいは呪的・霊的能力からとらえてきたのであるが、その起源からいえば、龍とは政治化された蛇であると定義できよう。」
「それでは、なぜ、メソポタミアや中国と同じように大河にはぐくまれた国家権力を成立させたインドとエジプトの都市文明には「龍らしい龍が出現しなかったのか。」
「大河とそこに発生した都市国家が龍を生んだ。しかし、同じ都市国家でも、コブラの棲息していたインドとエジプトでは「龍らしい龍」は生まれず、コブラの龍まであった。もしも、ティグリスとユーフラテス河流域や黄河流域に大型で猛毒のコブラが棲息していたならば複合動物の龍が空想されることはなく、インドやエジプトとおなじようにコブラの龍が崇拝されたのではなかろうか。猛獣の虎やライオンがそのままの姿で聖獣視されたようにである。欠乏が人間の想像力を刺激したのだといえよう。」

「シュメールに誕生した龍は、その後メソポタミアの支配者となったバビロニアの龍ティアマトとなる。ティアマトの後裔であったのがユダヤ人の仇敵の龍レヴィアタン。メソポタミアの龍の影響のもとにギリシアで生まれたのがドラコーン。これらユダヤ人やギリシア人の龍をうけついだのがヨーロッパのドラゴンであった。シュメールの龍からドラゴンまでの歴史を要約すれば、このようになろう。
 この間、龍の姿形には変化がみられたが、しかし、反権力のシンボルという点で、その性格は不変であった。偏見力のシンボルとして、権力に取り入れられ、キリスト教がヨーロッパを支配するとともに、ヨーロッパ人の共通の悪魔となった。」
一方、中国の龍は、東では朝鮮と日本、そして西ではヴェトナムに分布する。中国の龍のほうは場所が変わってもつねに権力のシンボルであり、姿形も漢代の龍からほとんど変わることがなかった。ヴェトナムの龍と日本の龍とのあいだには目立った違いは認められない。」

「龍の観念は、権力のシンボルであれ、反権力のシンボルであれ、中央集権的な国家権力と不可分のものとして生まれたのである。政治化された蛇、それが龍であった。」
「古代の宇宙論の核心は天と地である。天と地という垂直的な構造の宇宙論は国家権力のイデオロギーとして機能、国家権力は「天」と結びつけて考えられていたのである。」
「この天と地の生成の場面で活躍したのが龍であった。」
「宇宙の生成では主役であった龍は宇宙論の舞台からしだいに姿を消すことになるが、龍の始原的属性であった「水」は、宇宙の原質として宇宙論を基礎づけるのである。そして、この宇宙論は、ギリシア、中国、インドの哲学的・科学的宇宙論と自然学をうみだした。なかでも、ギリシアの水の宇宙論は、現代の科学文明の淵源ともなるのである。」

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