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秋山さと子 『メタ・セクシュアリティ』

☆mediopos-2353  2021.4.26

ユング心理学をはじめてまとまって知ったのは
河合隼雄さんとこの秋山さと子さんの著書からだった
1970年代の終わり頃から1980年代のはじめの頃のこと

セクシュアリティについて考えるときにも
ここでふれられているような
「メタ・セクシュアリティ」のことは
基本となると思っているのだけれど

この本のでた1985年からさえ
すでに36年も経っているというのに
世の中の多くのセクシュアリティに関する意識が
大きく変わっているとはいえないようだ

その意味でこの「週刊本」で書かれていることは
現在でもその啓発性を失ってはいない

むしろ現代のような
社会制度的な側面での男女平等への方向性は
多くは女性の男性化さえも促進してしまい
男性にとっても女性にとっても
こうした「メタ・セクシュアリティ」という
魂におけるセクシュアルなものの自覚化と意識化による
新しい人間像を描くほうへは向かっていないようだ
セクシュアリティに関する少数派なる存在にしても
その存在を承認することを求めるようなものでしかない

社会制度や社会における承認も重要だろうが
もっとも重要なのは魂の統合
ユング的に言えば「個性化」なのではないか
ひとりひとりの魂が「個性化」され得ているとしたら
セクシュアリティにおける不平等などはあり得なくなるから

男だから女だからではなく「私だから」であり
その前提のなかで男性としてのセクシュアリティや
女性としてのセクシュアリティが
それぞれの特性を発揮することができればいい

そういえば以前同性愛的な傾向をもっている方から
「ヘテロな方はいいですね」といわれたことがあるが
そのとき思ったのは
「メタ・セクシュアリティ」な視点でいえば
ひとりひとりは独自の差異をもった
「セクシュアリティ」を持つのだから
すべての人は「ヘテロ」であるはずだということだった
(とはいえその言葉はあまり好きではないけれど)

さて今回ほんとうに久しぶりに
秋山さと子さん(1923年-1992年)の著書を
ひっぱりだしてきたのだけれど
ハンス・ヨナスの大著『グノーシスの宗教』の訳者でもある
その訳書はようやく昨年
遅まきながら目を通すことができたところである
そんなきっかけもあり今回その懐かしい著書から少し

■秋山さと子
 『メタ・セクシュアリティ』
 (週刊本27 朝日出版社 1985.4)

「精神分析の中でもとくにユング心理学は、人間はそもそも両性具有であるという立場に立っているんです。意識も無意識もひっくりめた人間そのものは、両性具有だろうというわけです。
 もちろん人間が限られたこの世界に住んでいて、限られた命を持っていて、時間・空間に縛られて生きている限り、実際は両性具有の全部を持つわけにはいかない。われわれはそのほんの一部を意識化するわけだし、その意識化された自分というのは、恐らく心理的に女性か男性か。どちらかをとることになる。
 社会における役割では、結局は人間は男性か女性かのどちからであるようになっている。しかし、最近の遺伝学の研究ではいろいろな面白い研究があるんですけれど、その中で、人間は身体的に恐らく両性具有なのだろうとも考えられています。
 しかし、実際に機能している人間のあり方というのは、女性か男性に分かれていますね。だから、生理的な男女の別と、社会的な役割における男女の別と、心理的男女の別というものが、人間が意識というものを持ち、一貫した自我を育てることによって、どうしても出てきてしまう。そこで、男性と女性というものが分かれるから、非常に面白いことになってくるんだと思うんですね。
 そういうものを明らかにしようとして、精神分析のような学問が、恐らく生まれたんだろうと思います。われわれがわかっているのは、本当は自分の心のはたらくの一万分の一ぐらいかもしれないわけですね。大部分は埋もれた無意識の世界ですから、いくら男性が自分と正反対の極にいる女性をわかろうとしても、男性にとって、ある意味では女性は永遠の謎であるし、また女性にとって、男性というのは非常に神秘的な存在ということになってしまう。
 そこで、さっきもいったような精神分析を中途半端に行うために、自分で解放されたと思った女性たちが、いろいろな間違いを起こしてしまう。しかし、やっぱり試行錯誤をやってみなければ、人間というのは何事も意識化できないし、自分一人のことといえども、理解することはできないということもいえます。
 ユング心理学の大きな立場というのは、これはアメリカの女性解放論者などから、非常に非難されるところなんですけど、やはり意識の世界では、明確に男性と女性が心理的に別れている、と考えていることなんです。しかし、無意識も入れたら、当然男性も女性も両性具有になるわけです。
 それで、これもとてもよく知られていることなんですが、男性は、男性的な性格をある程度意識化するために、その反対の女性的なものが無意識のままで埋もれている。それは、抑圧というより、むしろ未発達といったほうがいい。未発達というのは、意識的に未発達ということです。本来は両方持っているんですから。
 だから、もし、男性が男性であろうとすると、どうしても、女性的なものにまで手がまわらないから、女性性が未発達になってしまう。」

「当時はまだ両性具有という考え方は余りなかった。ただ、現代の女性にも、やはり二つのタイプがあると思うんです。
 一方は精神分析のようなものをやって、自分の中の男性的な要素を意識化していこうという人。ユング心理学でいう、アニムスといわれる精神のようなもの、つまり女性の心の中にお漏れている男性的精神みたいなもの、そういうものをはっきりイメージとしてとらえて、自分のものにしていこうというタイプです。そういう動きが一つはあると思うんです。
 それから一方では、現代は、だんだん、性というものの区別が非常にあいまいになってきている時代です。すると、意識的にしろ、無意識的にしろ、両性具有的な人たちというのは、必然的にたくさん出てくることになる。そういう、両性具有的な存在の女性がもう一つのタイプです。」

「かつて私は『シジジーと愛情乞食』という文章を書いたことがあります。このシジジーとかシュジュギュイとかいうようにいわれる人種は、生まれながらにして自己完結型、統合型の人間なんです。だから、他人の愛情はいらない、自分で一つのまとまったものとして存在している。それで一見非常に孤独で、孤高なる魂を持っています。
 たとえば、これもまた自閉症の問題にかかわってくるわけですが、ほとんど自閉的で、他人が必要ないわけです。自己充足的なんです。そういう一群の人たちがいます。
 一方愛情乞食という、これはやたらに自分の無意識的なものを、他人の上に投影して、自分の野心を偉い人の上に見るというタイプがいます。だあら、彼らは非常に従属的なわけです。常にグループ活動をして、偉い人をたてて、その回りに群がっているという形をとる。だから、人がいなくては、生きてはいられない。そこで、たとえば集合的に行動する一連のグループというのがあると、その人たちが愛情乞食というのではないかと、かつて私は書いたことがあるんです。」

「この自己完結型の人というのは、自己を完結しているから全然成長もしないのかというと、そうではない。おそらく自己完結の小さな芽からその芽がだんだん大きくなるという成長の仕方をするのでしょう。
 しかし、女性が男性にイメージを投げかけて、それで自分の無意識を意識化することでもって、男性と結ばれていくことで、自分も大きくなるというような形ではないわけです。だから、他人に投影して、そこで勝負していくという形ではない。自分が自己増殖していく。自分が自己増殖していく、細胞分裂を起こして増えていくというような形です。
 どうも私は、現代の傾向というのは、自己完結型のシュジュギュイが増えていくのではないかと思います。」

「最近、ニュー・サイエンスの世界で話題になっているホログラフィーのパラダイムなんていうのは、要するに人間の大脳がミクロコスムであって、この宇宙がマクロコスムである。そのどちらが実在しているのか、していないのかということではなくて、両方のかかわりの中でこの世界が現出しているのであって、どちらがどちらと、分ける必要がないんです。両方が全体としてあるという考え方です。こうういうことを言いだしたら、何が意識であって、何が無意識であると、何が実在であって、何が非実在であるとかいうことはもう関係がなくなってくるわけです。
 物と心にしてもそうだし、意識、無意識にしてもそうだし、善と悪についてもそうだし、すべてそういうものが全体として恐らく何ものかを醸し出していくんであって、当然男と女もそうなんじゃないかという考え方にもつながっていく。だから、女性という意識があれば、その背景に男性的な無意識があり、という時代ではなくなっているのではないかと感じるんです。」

「バイ・セクシャルというのは、たとえば、ある種のホモの人が、ある時は女性の役割を、また別の時に男性の役割もこなすというような時に使われるのですが、チューリッヒにいた時に、ホモ・セクシャリティの研究をしていて、日本では、ホモといっても、両方の役割をとれる人が多いといったら、それは未開人に多いなんていわれてね。別にいわゆる未開人種が悪いというわけではなく、最近ではかつての未開人の人々が持っていた、あまり分化されていない意識というのが、もう一度見直されている時代ですけれど、しかし、私の言うのは、意識化が遅れている未開の人々や、子供の持つ幼稚性のことではないんです。
 それに非常に近い、宇宙的志向を持った、思考と感情が巧みにまざり合って、特に分けずに発達している人たちですが、意識は非常に鋭く、決して迷信的ではない人たちのことなんですけれどね。そして、無意識的なものに妨げられて現実を見ないのではなくて、外の現実も、また心の内的世界である幻想も、共にしっかりと見ることのできる人を考えているのですが、そういう人たちが増えてくると思います。
 だから、バイ・セクシャリティというと、誤解があるから、メタ・セクシュアリティとでも言ったほうがいいかもしれません。これはホモやレズの人たちのことでは、もちろん、ありません。自分の意志で、どちらの役割でもできる人間のことです。」

「ちなみに、新しい人間像というほど若い人ではないし、別にスカートをはくわけでもありませんが、いささかこれに近い私の理想の男性像は、例の大島渚の『戦場のメリークリスマス』の原作者であるヴァン・デル・ポスト卿です。この人は軍人だし、砂漠の放浪者だし、冒険家だけれど、どこか非常にやさしい女みたいなところがあるんです。彼ならスコットランド風に、スカートをはいてあらわれてもおかしくはないんだな。そして、この人は、男性と女性はあらゆる意味で、まったく正反対だし、それでこそ、男女の出会いに火花が散って、新しい創造が生まれると考えているのですが、しかし、私は、どの通りだけれど、なぜ、それを一人の人が持ち合わせてはいけないのかと思っているんです。
 精神分析に危険が伴うように、この新しい人間像のあり方も、危険だらけのようですが。しかし、危険を恐れていたら、なにごとも前には進まないし、人間の自覚化と意識化はできません。新しいメタ・セクシュアリティな人間像の出現に期待したいと思います。」

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