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河合隼雄「コンステレーション」(『最終講義』)/『物語と人間の科学』/ユング『個性化とマンダラ』/高橋純一『ヴァルター・ベンヤミン』

☆mediopos3507  2024.6.24

河合隼雄の最終講義「コンステレーション」は
当初講演集『物語と人間の科学』に収められていた

「コンステレーション」の
「コン」は「with(ともに)」
ステレーションの「ステラ」は「星」
星が一緒になっている「星座」を意味している

この「コンステレーション」は
今世紀の初めにユングが
「コンプレックスがコンステレートしている」というように
言語連想の関係でよく使っていた言葉

その後「元型(アーキタイプ)」ということで
「元型がコンステレートしている」と表現されるようになる

ユングは人間の心の深みには
そうした元型のようなものがあり
それが絵やマンダラのようなものとしてあらわれるという

河合隼雄は「箱庭療法」を行っているが
箱庭療法でもマンダラの表現がでてくるという

その「星座(コンステレーション)」は
「物語」を生み出してくる

「人間の心というものは、
このコンステレーションを表現するときに
物語ろうとする傾向を持っている」というのである

河合隼雄はじぶんが心理療法の仕事をしているのは
「来られた方が自分の物語を発見して、
自分の物語を見出していかれるのを
助けているのではないか」と語っている

絵にせよ図にせよマンダラにせよ
また箱庭にせよ
そうした「コンステレーション」の表現を通じて
「個性化」へと導かれるが

心理療法家はそれぞれの人間が
みずからを導くことを助けている

さて「コンステレーション」といえば
心理療法ではないが
ベンヤミンの歴史哲学に関する考察において
「理念(真理)の星座=状況」として
「星座(コンステラツィオーン)」という用語が使われている
(「コンステラツィオーン」はドイツ語読み)

ベンヤミンによれば
「かつて————ありえた」真理は
「分割=細分化され、断片的形態として
現象の個別性の下に潜在化され」ているがゆえに

喪失している「コンステラツィオーン」を再現するべく
それは「いまだ————ない」真理を求める
未来への投企のまなざしによって
読みとられなくてはならない・・・

ベンヤミンの星座を心理療法的な星座と
そのまま比較するわけにはいかないが

ベンヤミンの歴史哲学的なアプローチは
それそのものを見ることのできない
「理念(真理)の星座=状況」である「元型」を
歴史哲学的な視点の助けによって
「個性化」へと導こうとするものだといえるのかもしれない

ひとりひとりの人間も
共同体や社会そして国家
それらをふくむ世界全体にも「星座」があり
それぞれの個別的なあらわれのなかで潜在化されている

その「星座」を読み取り
病のようなかたちであらわれている現象を
「個性化」へと導くために
私たちはこの地上を生きているともいえるのではないか

■河合隼雄「コンステレーション」
 (『最終講義 学究の極み』角川ソフィア文庫 令和6年5月)
 *一九九二年(平成四)三月一四日 京都大学法経四番教室
■河合隼雄「第二章 コンステレーション」
 (河合隼雄『物語と人間の科学』岩波書店 1993/7)
■C.G.ユング(林道義訳)『個性化とマンダラ』(みすず書房 1991/9)
■高橋純一『ヴァルター・ベンヤミン』(講談社現代新書 1991/10)

**(河合隼雄「コンステレーション」〜「概説」より)

*「コンステレーションとはユングが言語連想を通して発見したもので、心の中にできた感情を核とする一つのかたまりのようなものを指す。河合の心理療法はC・A・マイヤーに学んだものであり、曰く、クライエントに対して心理療法がしているのは、答を言うことでも解釈をしてあげることでもなく、その人の自己実現の過程をコンステレートし、ついていくことであるという。河合もまさにこうした考え方に従うことで研究成果をあげており、その一つの母性社会の問題の発見があった。コンステレーションの意義として彼が挙げるのが、因果的な考え方ではない方法で意味を見出すことである。例えば不登校の子の親が、自身のことを因果関係の要素として度外視して不登校の理由を考えようとするところに因果的な考え方の特徴がある。そうではなく、「私」も含めた全体として何がコンステレートしているのかを見ることこそが必要であり、そうすることで「私」もその中に生きるような、全人的なかかわりができるようになる。またマンダラがコンステレーションを共時的に示すものであるとすれば、コンステレーションを相手に伝えようとして展開したものが物語であると言える。河合にとって心理療法とは、来た人が自分の物語を発見することを助けることなのである。

**(河合隼雄「コンステレーション」〜「言語連想テストからの出発」より)

*「コンステレーションとは空にある星座を意味します。コンステレーションのコンというのは、もともとwith(ともに)という意味ですね。そして、ステレーションのほうのステラというのは星です。星が一緒になっているというので、コンステレーションという言葉は星座を意味しているわけです。」

*「ユングは一九〇五ー六年、今世紀の初めにコンステレーションという言葉をよく使っております。それはどこから来たかといいますと、言語連想のテストです。」

「ユングのそのころの文章を読みますと、コンプレックスという言葉は昔からあったんですが、ユングはそてを新しい意味をもつものとして使うようになったので、それを説明するために言語連想という実際的なことを使って、そして目に見えるようにしました。これはコンプレックスがコンステレートしているのである、そういう言い方をしています。つまり、「心の中にそういうかたまりができているんだ。それがこう出てるじゃないか」という言い方をしたわけです。」

**(河合隼雄「コンステレーション」〜「元型がコンステレートしている」より)

*「ところが、それ以降ユングはアーキタイプ(元型と訳しています)ということを言い始めました。」

「人間の心の深いところには、そういう元型のようなものがあって、そのあらわれがいろんなところに出てきているという見方で、ユングは人間の心の現象を見ようとしました。そのために、初めのうちは「コンプレックスがコンステレートしている」という言い方であったのが、一九四〇年ごろから「元型がコンステレートしている」というふうな表現が多くなってきます。」

**(河合隼雄「コンステレーション」〜「全体がお互いに関係をもつ」より)

*「コンステレーションという考え方をしますと、全人間、全人的なかかわりをしたくなる。因果論の考え方の方は、要するに頭だけで物事が処理できたり、指先一本でできるわけです。この指先一本で物事をするというのは、最近の機械がみんなそうですね。ぱっとワンタッチでダッダッダといろいろできるわけです。」

**(河合隼雄「コンステレーション」〜「コンステレーションを私が読む」より)

*「しかし、コンステレーションというのは、私がそう呼んだのだというふうに言えるところがおもしろいと思います。つまり、これを押したら動くという場合、これは私じゃなくてもどなたがやられても動くわけです。ところが、先ほどの易の話にしても、「ああ、そうですか、その易の意味を私はこう考えます」というふうに言われたために、その学生さんは態度が変わってくるわけです。ほかの人が易の話を聞いても、何も思われないかもしれません。コンステレーションの読みという中に、その人の個性が入ってくるところが非常に意味を持っているんじゃないかと私は思います。だから、私はこう読んだと言うべきだと思うんです。これが正しいというんじゃなくて、そんなふうに考えまして、私は心理療法家としてコンステレーションということを大事に考えるようになりました。」

**(河合隼雄「コンステレーション」〜「余計なことをしない、が心はかかわる」より)

*「最もコンステレートしやすい状況というのは、われわれが余計なことをしないということだと思います。これは簡単なようで、ものすごく難しいことです。自分が考えましても、反省しても、どうしても何かしてしまうんですね。」

「何もしないというと、ほんとうに何もしないんだと思う人がおりましてちょっと困るんです。(・・・)そんな単純なことではなくて、何もしないというのは、余計な手を出さない。余計な手は出していないですけれども、心はほんとうにかかわっていくわけです。」

**(河合隼雄「コンステレーション」〜「気配を読み取る」より)

*「われわれ心理学とか臨床心理学をやるものは、気配を読みとらなくちゃだめなんです。(・・・)気配をさとるというのも、これは僕はコンステレーションを読むということと大いに関係しているんじゃないかと思います。」

**(河合隼雄「コンステレーション」〜「コンステレーションと物語」より)

*「コンステレーションというものをぴたっと見せる一番わかりやすいものとしては、図形によって見せるということがありますね。(・・・)例えば曼荼羅のような表現は、まさに世界全体を一つのコンステレーションとして読み切って表現している。」

「ユングは自分の精神的な危機を乗り越えるときに、自分もそういう絵をかいて克服してきあたわけですね。当時、ユングは曼荼羅のことを全然知らなかった。(・・・)ユングは何も曼荼羅のことなんかを知らずに、ものすごい精神的な危機を乗り越えて、それこそ心全体が何かでき上がってくる。まさに気配、治っていくという、その感じを絵でかこうと思って、かくことによって心がますます平静になってくるというのでかいていたわけです。」

「私は箱庭療法をやっておりますが、箱庭療法でも、こういう曼荼羅の表現が出てきます。」

*「皆さん、すぐおわかりだと思いますが、物語と星座とは関係があるでしょう。あんな星を七つか八つ、ぱっと見ただけで、あれが物語を生み出してくるわけです。人間の心というものは、このコンステレーションを表現するときに物語ろうとする傾向を持っているということだと私は思います。」

*「われわれの人生も、言ってみれば一瞬にしてすべてを持っている。例えば、私はいま話しているこの一瞬に、私の人生の過去も現在も全部入っているかもしれない。それは、時間をかけて物語ることができると考えられまして、私が心理療法の仕事をしているのは、来られた方が自分の物語を発見して、自分の物語を見出していかれるのを助けているのではないかな、と思っています、私がつくるのではなくて、来られた方がそれを見出される。」

**(河合隼雄「コンステレーション」〜「日本の神話をいかに語るか」より)

*「私自身はいま、その物語ということに関連して日本の神話にすごい関心を持っています。」

**(ユング『個性化とマンダラ』〜「個性化過程の経験について」より)

*「この研究はマンダラの内的な経過を理解しようとする手探りの試みであうr。その経過はいわばぼんやりとしか感じられない背後の変化の模造であって、その変化は「逆向きの眼差し」によって知覚されるが、しかしいま見たとおり理解もされなければ認識もされず、鉛筆と絵筆によって具象化される絵は無意識の内容の一種の象形文字である。」

「私はこの方法を一九一六年以来使っている。『自我と無意識の関係』のなかで私は初めてそれについて大まかな説明をした。マンダラについては一九二九年に『黄金の華の秘密』のなかではじめて述べた。私はこの方法の結果を三〇年ものあいだ秘密にしてきた。それは暗示を与えないためである。というのは私はこうした事柄————とくにマンダラ————がほんとうに自発的に生まれてくるのだということ、たとえば私自身の空想によって患者に暗示されたのではないということを、確かめたかったからである。こうして私は私自身の研究によって、マンダラが、私の患者がそれを発見するはるか以前にあらゆる時代のあらゆる地域で図形化され、描かれ、石に刻まれ、建築されてきたことを確信することができた。同じように、私の弟子でない心理療法家の治療を受けている患者にも、マンダラが夢に出てきたり、描かれたりするのを見たときは嬉しかった。」

**(ユング『個性化とマンダラ』〜「マンダラ」より)

*「サンスクリット語のマンダラは一般に「円」を意味している。宗教的儀式の領域や心理学においてはマンダラとは、線描され・彩画され・造形され・踊られる・円イメージを意味している。すなわちこの種の彫像はチベット仏教のなかにあり、また踊る姿としての円イメージはイスラム教の寺院に見られる。心理現象としてはそれはひとりでに夢のなかに、またある種の葛藤状態において、また分裂病において、現れる。それはごく頻繁に四者性ないしは四の倍数を、十字形・星・四角形・八角形・などの形で含んでいる。錬金術ではこのモチーフは《四角と円の組みあわせ》の形で見られる。」

*「「円と四角の組み合わせ」は、われわれの夢や空想を形づくる基礎をなしている、多くの元型的モチーフの一つである。しかしこれは他のモチーフのなかでもとくにとび抜けて、もっとも重要な働きをするものの一つである。すなわちこれはまさに全体性の元型と呼ぶことができる。」

**(高橋純一『ヴァルター・ベンヤミン』〜「四 認識の星座」より)

*「「星座」すなわちコンステラツィオーンという言葉は、ベンヤミンの生涯の中で特殊な意義を持つ言葉である。それは何よりも真理の配置図の謂である。そしてコンステラツィオーンとしての真理の配置図はその中にある個々の事物(現象)を根本的に規定しつつ、そうした事物(現象)からはつねに逃れ去っていく。ベンヤミンはつねに個々の存在をこうしたコンステラツィオーンの視点から、もう少し正確にいえば喪れたコンステラツィオーンの再現という視点からみようとした。それこそが各々の存在の真理を認識する道だからである。」

*「理念(真理)の星座=状況に注がれるベンヤミンのまなざしの中に、『ドイツ悲劇の根源』全体の中心的な課題が浮かび出る。それは現象の分割と救出の二重性からすけてみえる真理と現象の関係へと問いにほかならあい。ここでベンヤミンが問おうとする問題領域は歴史へと移行する。なぜなら、現象として現れる経験的世界は不可避的に時間が孕んでいる真理の根源性からの遠ざかりとしての歴史過程の帰属するからである。ここで「自然という書物」に「時間という書物」が重ね合わされねばならない。

「自然という書物」の中にあるプラトニズム的宇宙論(=存在論)の立場からすれば、あらゆる現象は根源的一者の「現在(いま)」における現出として捉えられる。現象はそこでミクロコスモスないしはモナドとしてマクロコスモス全体を十全な形で象徴しうる。個別としての現象において普遍としての全体が現前するのである。時間的側面からいえばそれは、あらゆる「現在」は永遠の現在としての根源の反復としてあるということを意味する。そこには歴史の介入を拒否する等質な根源的時間の永劫回帰が現れる。

 しかしベンヤミンは、こうした真理の無時間的な永劫回帰を彼の心理認識の核心において拒絶する。ベンヤミンにあって真理の根源性は現象の個別性において十全に現出するのではなく、歴史的時間という、うつろいゆく腐朽・衰亡の過程————真理の十全なる照応(コレスポンデンツ)の弱まり————の中で分割=細分化され、断片的形態として現象の個別性の下に潜在化される。

 本来のプラトニズム的思考にあっては、あらゆる現象が自らの中に真理の全体生へ至る象徴的回路を内在させているのに対して。ベンヤミンにおいては真理は歴史過程の中で自己解体して、いわば「破片」化するのである。この破片はもはやミクロコスモスやモナドではありえない。むしろ真理の星座=状況を潜勢的に内在化する暗号符のごときものである。ベンヤミンとっての細部とは、かかるものであり、それゆえベンヤミンの細部への執着には単なる趣味以上の歴史哲学的契機がかくされているというべきである。

 ここで現象をめぐって二重のまなざしが生じる。一つのまなざしは、現象が真理の破片たる資格において喚起する、「かつて————ありえた」真理の星座=状況への追想のまなざしである。今一つは、真理の破片としての現象に含まれている「かつて————ありえた」真理の星座=状況との不連続性(断続)の契機が強いる、「かつて————ありえた」を「いまだ————ない」へと転換させる未来への投企のまなざしである。それは、現象に対する「外から」のまなざしの介入から生じる。

 「かつて————ありえた」真理への追想は、現象と真理の不連続性を媒介としつつ「いまだ————ない」真理への投企へとつねに転換させられていくこと、別ないい方をすれば、現象の外にある真理への志向————それは現在における認識に内在している————を通して現象に潜在する歴史の腐朽・衰亡過程の不可避性の中にあって、真理が伝達する暗号化されたメッセージを読みとろうとする歴史哲学的かまえがみてとれる。」

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