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筒井康隆・蓮實重彦『笑犬楼vs.偽伯爵』

☆mediopos-3021  2023.2.24

なんと
筒井康隆と蓮實重彦の対話
そして往復書簡である

興味津々で読み始めた対話は意外なことに
「ずっと大江健三郎の時代だった」というもの

あの蓮實重彦が
「大江さんほどの作家はいないと思います。
絶対に今後も出ない。」と明言し
筒井康隆もそれに同意している

そして両者とも『同時代ゲーム』が
大江健三郎の最高傑作だとしている

面白いのは
筒井康隆が大江健三郎と親密であるのに対して
大江健三郎はどうも蓮實重彦を
快くは思っていなさそうなところだ

これはおそらく蓮實重彦特有の
褒めているのか貶しているのかわからないような
ひねった表現ゆえのことでもあるのだろうが

たしかに日本の同時代として考えて
大江健三郎ほどの作家はおそらくいないし
比べることのできるほどの作家もいないのは確かだ

もちろんそれは
ストーリーのある散文を書く作家としてであって
筒井・蓮實両氏とも
大江健三郎が詩を書くことは認められないという
そこらへんのところが
筒井・蓮實両氏に共通する
「散文」に対する思い入れでもあるのだろう
(両者とも詩的なものからは遠い)

さて筒井・蓮實両氏に共通しているのは
「民主主義という制度を全く信じていない」ところ

大江健三郎に敬意を捧げながらも
その戦後民主主義への擁護はよくわらないという

筒井康隆の疑問に
蓮實重彦はこう答えている

「大江さんにとっての戦後民主主義というのは、
渡辺一夫先生の精神を引きつぐことだと思っています。」

「大江さんの場合は、
制度としての民主主義一般が問題なのではありません。」

たしかに大江健三郎の政治的発言や行動は
ふつういわれる「民主主義」とはどこかずれているし
「民主主義」を無批判に擁護してしまっているような
そんな文学者はどこかでなにかがねじれている

しかし蓮實重彦がいうように
「そうした政治的な立ち位置とはまったく無縁に、
大江文学はやはり偉大なんです。」
ということは深く頷ける

笑犬楼vs.偽伯爵は意外なことに
ひねりのためのひねりのようなものもなく
ずいぶんと率直な対話となっていて
なかなかに貴重なvs.である

■筒井康隆・蓮實重彦
 『笑犬楼vs.偽伯爵』(新潮社 2022/12)

(「Ⅰ 対談 同時代の大江健三郎」より)
※二〇一八年五月十七日、講談社にて

「蓮實/筒井さんは「群像」(二〇一七年九月号)に「ずっと大江健三郎の時代だった」という随筆をお書きになりました。それを読み、あれこれ感ずるところがありました。「ずっと大江健三郎の時代だった」とは、筒井さんご自身にとっての「ずっと大江健三郎の時代だった」ことでもあるのでしょうが、同時に、日本文学、あるいは世界文学にとっても「ずっと大江健三郎の時代だった」とおっしゃっているような気がいたしました。わたくしたちは、まぎれもなく「大江健三郎の時代」を生きているのであり、量の上からも質からしても、他の作家は大江さんの偉大さにはとても追いついてはおりません。

 それから、大江さんと筒井さんの仲が、周りの人たちが嫉妬したくなるほどまでに親密なものだったのではないかという気もいたしました。事実、筒井さんは大江健三郎について何度か語っていらっしゃいますし、大江さんも『筒井康隆全集』の長い解説で「海」の塙嘉彦編集長に筒井さんを「同時代の優れた作家」として推薦したと書かれています。そのような大江さんと筒井さんとの親しい関係は、わたくしにとってはひたすら嫉妬の対象でしかありません。大江さんと同じ大学の同じ学部、しかも同じ学科の卒業生でありながら、二年後輩のわたくしは、大江さんとお会いしたことはほんの数回しかありません。一九八九年に読売新聞主催で、ノーベル文学賞受賞者のクロード・シモン氏を招いた討論会があり、司会と通訳をしたことがあります。そのとき、受賞以前の大江さんが日本を代表して討論に加わっておられたのですが、親しく言葉を交わす機会はありませんでしや。その後、二〇〇五年のソウルでの国際文学フォーラムでご挨拶したこともありますが、きわめて限られた遭遇体験しかありません。ところが、筒井さんと大江さんとの関係は、遙かに密なものがある。わたくしの感じでは、ある意味で、大江さんが作家筒井康隆を発見されたとさえいえそうに思います。」

「蓮實/このわたくしは、かなり早い時期に『大江健三郎論』などというものを書いてしまった人間です。いろいろと問題のある書物ではありましょうが、同時代の作家についたまとまった書物など一冊も出したことはなかったのですから、それだけでも大江さんに対する敬意をわかっていただけるのではないかと思っていました。ところがわたくしは、少し目上の方————大江さんは一年か二年年上で、それから山口昌男さん、あの方も四年か五年上で、井上ひさしさんも二年下ですが————年齢的に若干上の世代の方々に絡んでやろうという、やんちゃな次男坊的な役割を自分に当てはめていた一時期がありました。大江さんがそれに対してあまり良い印象をお持ちにならなかったということはあろうかと思います。
(・・・)
 ただ、大江さんには『大江健三郎論』を快く読んでいただけたとは思えません、『大江健三郎論』の大方を書き終えた頃に『同時代ゲーム』が出版されたので、『同時代ゲーム』以降はまともに論じておりません。これを大江さんに対する負債としていつか書かねばと思っているうちに書く力は衰えてしまったのですが、わたくしがうれしかったのは、『同時代ゲーム』に関して、筒井さんが「荒唐無稽」とおっしゃっておられることでした。わたくしの『大江健三郎論』の最後も、まさしく「荒唐無稽」というゴシック体の一語で終わっていたからです。大江さんのこの種の作品を、出版当時、荒唐無稽だからいいのだと捉える人がいかに少なかったか。わたくしは、もちろん「荒唐無稽」を褒め言葉で使っています。大江さんにはどうも褒め言葉と取ってはいただけなかったような気もしていますが、筒井さんの場合も「荒唐無稽」を褒め言葉として使っていらっしゃるわけですよね。

筒井/はい。大江さんは、「荒唐無稽」と言われて、悪い気はなさらなかったと思います。私がもし批評の仲で「荒唐無稽」という言葉を使ったとすれば、大江さんは喜んでくださったと思います。

 『同時代ゲーム』が発売されたときに全否定した連中がおります。これはよくわかるんです。大江さんの作品、特に長編は、最初、非常に入りにくい。これは特に『同時代ゲーム』に顕著で、第一章がむちゃくちゃわかりづらくて、ここで脱落する人がいっぱいいたんです。そのかわり、第二章以後はスーッと読めてしまう。その世界の中に入っていけてしまう。だけども、失敗作だ、失敗作だという人が非常に多いんです。私がある批評で「これは確かに失敗作かもしれないけれど、失敗作であるというこさえ度外視すれば成功作である」と書いて、それを大江さんがものすごく喜ばれたということがありました。

 私は、はっきり言って、『同時代ゲーム』が大江さんの最高傑作だと思います。(・・・)

蓮實/それはまさしくおっしゃるとおりで、『同時代ゲーム』に関しては、先ほど申しあげたように、わたくしが『大江健三郎論』の原稿を書き上げたときはまだ刊行されていませんでしたが、わたくしが使った方法で十分語れるはずの傑作だと思いました。」

「筒井/山口二矢を戦後民主主義の破壊者と言えるのであれば、大江さんはその時代からずっと今までご自分を戦後民主主義の擁護者だと言ってらっしゃる。それはなぜかということがよくわからないんです。

 私自身は、ああ、これが戦後民主主義のはしりだったんだと今になって思い返すのは、中学二年ぐらいのときかな、ホームルームというものができたんです。それはクラスの全員が、屋上で飼っているヤギの世話を誰がするかとか、生徒会に誰が立候補するかとか、そういうつまらないことばっかり決めるんです。生徒がいくら決めたって、どうせ最後は全部学校が決めるんじゃないか、変なことをするなあと思いました。

 これは何かに似ていると思っていたんですが、あのころラジオ番組で「街頭録音」というのがありました。藤倉修一というアナウンサーが、その辺の通行人に向かって「新憲法をどう思いますか」「今の国会をどう思いますか」「収入はどうですか」とか、つまらないことばかり聞くんです。(・・・)民主主義は何かおかしいなあと当時から思っていたんですけれども、その後、自分で納得のできないことが次々とあって、民主主義嫌いと言いますか、私と同い年で眉村卓というSF作家がいて、今、本が売れていますけど、彼も民主主義が嫌いなんです。何で大江さんが戦後民主主義を擁護するのか、私にはいま一つわからない。その辺をきょうは蓮實さんに教わりたくて。

蓮實/大江さんにとっての戦後民主主義というのは、渡辺一夫先生の精神を引きつぐことだと思っています。(・・・)渡辺一夫先生は、戦争末期、大学で授業をしておられたときに空襲警報が発せられ、空にアメリカ軍の飛行機が飛んでくる。そこに高射砲を撃ったりしてきわめて危険な状況なのでみんなは避難するのに、先生は一人屋上に立ち、じっと空を飛ぶアメリカ軍の飛行機を見あげておられたという。「避難なさらないのですか」と言葉をかけると、死ぬときはどうせ死ぬのだからということなことをおっしゃったのでしたかな。こうした渡辺一夫先生が以ておられた醒めた諦念からくすユマニスムの精神というものを、戦後の日本の民主主義の中に探り当てようとしたのが大江さんなんだと思います。わたくしは、個人的には民主主義という制度を全く信じていない人間ですが、大江さんが師の渡辺一夫先生経由でフランスのルネッサンス期のユマニスムを自分のものにしたことにいまだにこだわっておられるという点は、やはり感動的だと思います。

筒井/それはただの師弟のつながりじゃなくて、あくまで人文主義的なものですか。

蓮實/ではないかと思います。」

「蓮實/先ほどもいいましたように、大江さんの場合は、制度としての民主主義一般が問題なのではありません。まず、フランスのルネッサンス期のユマニスムを論じた渡辺一夫さんがおられる。またその後に大岡昇平さんがおられる。とりわけ、『レイテ戦記』の著者である大岡さんの詩情を排して散文に徹した反骨精神のようなものの影響も随分あると思います。これまだスタンダールに端を発する大岡さんの硬質な文章を戦後民主主義を象徴するものと思っておられる節もある。それが現在の大江さんの活動とどの程度結びついているのかはわかりません。「九条の会」などというわたくしの理解を遙かに超えた組織に入っていらっしゃいますが、それが渡辺=大岡両氏の思考態度とどのように結びついているかというのは正直わかりません。いまの自分にできることはこれだと思ってやっていらっしゃるというならわからないわけではありませんが、しかし。そうした政治的な立ち位置とはまったく無縁に、大江文学はやはり偉大なんです。

筒井/そうですよ。

蓮實/これが他を排して偉大なので、困ってしまう。わたくしは『大江健三郎論』を、彼の社会的な立ち位置というものとは一切無関係に論じてしまった。しかし、にもかかわらず。大江健三郎がいかに比類のない作家であるかということを書いたつもりですが、大江さんがそれを喜んでくださったかどうかはわかりません。」

「蓮實/古井由吉さんとの対談がありまして(『文学の淵を渡る』)、その中で大江さんが「私は弱ってきたら最後は詩を書くだろう」と言っていらっしゃる。わたくしは断固反対です(笑)。我々が大江健三郎の散文のフィクションをこれほどたたえてきたのに、いまさら詩なんか書かれたらこのわたくしは許さない、そういことも書いたりいたしました。筒井さんは詩はお書きになるんですか。

筒井/いや、書きません。私は詩というのは否定していますから。

蓮實/ねえ。そうなんですよねえ(笑)。

筒井/詩にはいい表現や何かが確かにあるんだけれども、何でこんないい表現をきちんとまとまったストーリーの中でもっと効果的に使えないか。

蓮實/(・・・)大江さんにとっての「詩」が叙情的な韻文でないことはよくわかるつもりです。しかし、とりわけ散文のフィクショを好む人間として、大江さんに詩だけは書いてほしくない。

筒井/私もそう思います。」

「蓮實/わたくしは大江さんとの関係は非常に冷ややかなものにとどまっております。わたくしは大江さんに対しては、書いたものの中ではもう最高度の敬意を捧げているつもりなんですが、どうも世の中はそうは思ってくれないようで、「あいつは大江のことをバカにしている」などと思う人がいるらしいんですが、大江さんほどの作家はいないと思います。絶対に今後も出ない。

筒井/そうですね。量から見ても質から見ても圧倒されます。」

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