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石井ゆかり「星占い的思考52 フォゲット・ミー・ナット」(『群像』2)/ケン・ウィルバー『インテグラル・スピリチュアリティ』/カルロス・カスタネダ『時の輪』

☆mediopos3498  2024.6.15

感情というのは厄介極まりないが
思考や意志と関係した感情もふくめ
ひとはその生のほとんどを感情とともに過ごす

いかに感情を豊かにするかということ
意識化し制御できるかということが
最重要の課題だといえそうだ

注意が必要なのは
感情が豊かであるということと
感情的になりやすいということとは
逆だということである

感情的になりやすいのは
むしろ感情が未熟でその器が小さいため
器からすぐに感情があふれてしまうことにすぎない
つまりキレやすい・・・

感情が豊かであるということは
その器が大きいということであり
しかもその感情が無数に分節化されている
つまり数えきれないほどの感情の質を持っている
ということでもある

感情が豊かであればあるほど
それを制御するのは難しくなるが
豊かさは自己制御とともに成熟へともたらされるといえそうだ

さて『群像』2024年7月号の石井ゆかり「星占い的思考」は
「フォゲット・ミー・ナット」というタイトルで書かれているが

そこで示唆されているのは
ひとの感情を支配しようとする感情の力のことだと思われる

「人は基本的に、本当の感情は隠し」
「自分の感情は見せまいとする」が
ひとの感情を動かすことで
ひとの感情を見ようとするという

相手にたいして「引き起こす感情が大きければ、
相手を支配できる」からである

石井ゆかりがSNSの世界で挙げている例でいえば
「自分の攻撃が相手の心をちゃんと動かした、
とわかったとき、初めて」「満足」するようなこと・・・

なぜわざわざそんなことを
しなければならないのか疑問にも思うが
逆説的にいえば
ひとは自分の無意識の感情に向きあうために
相手の感情を引き出し
それを支配しようしているのかもしれない

いうまでもなく
それで自分の感情が調和へ導かれたり
成熟したりするわけではなく
その逆の循環へと迷い込むことになる

いってみれば
感情の黒魔術だといえる

黒魔術があれば白魔術もあるだろうが
対極にある感情の白魔術にせよ
その質としては
支配しようとすることにおいては同じかもしれない

善き感情を喚起するものであるとしても
そしてそれはときに重要な働きを担っているとしても
相手がその感情を自己制御するように
導くものではないからだ

芸術表現は往々にして
そうした感情の黒魔術と白魔術によって
ひとを笑わせたり泣かせたり怖がらせたりする
そしてそれがある種のカタルシスをもたらす

ケン・ウィルバーの
「インテグラル・スピリチュアリティ」において
論じられている「影と切り離された自己」
という視点を使っていえば

自己の感情を自覚できない場合
それは影となって
じぶんから切り離され
「私自身の一人称の意識のなかで、二人称(あなた)、
さらには三人称(それ)の事象として現れる」

その意味で相手の感情を支配しようとすることは
じぶんの感情を相手に投影しながら
みずからその「影」となることでもある

相手はじぶんの「鏡」でもあり
その「鏡」にうつったじぶんを
じぶんのものとして「和解」できないと
投影した相手と闘うことになってしまう
投影した相手とはじぶんの無意識を対象化した姿である

そうしたことについて自覚的になろうとするとき
たとえばカスタネダの「戦士」の「教え」が役に立つ

相手に対して腹を立てるときには
相手の行為を「重要だと考えている」ということであり
なぜ重要だと考えるのかを意識化しすることで
それがそれほど気になってしまうのかを吟味する必要がある

「自尊心は、人間の最大の敵」であって
「良きにつけ悪しきにつけ、彼がともにいる
人間たちの行ないによって感情を害されること」で
「腹を立てたまま過ご」さなければならなくなるのである

それはある意味で姿を変えた
「うぬぼれ」であり「自己憐憫」だから
その仮面をはがし
それらへの「過度な関心から遠ざかる」動きが求められる

そうしたことをふまえ
じぶんの感情の言葉を豊かにし統合しながら
それを自己制御できるように方向づけられればいいのだが・・・

■石井ゆかり「星占い的思考52 フォゲット・ミー・ナット」
 (『群像』2024年7月号)
■ケン・ウィルバー(松永太郎訳)『インテグラル・スピリチュアリティ』(春秋社 2008/2)
■カルロス・カスタネダ(北山耕平訳)
 『時の輪/古代メキシコのシャーマンたちの生と死と宇宙への思索』
 (太田出版 2002/5)

**(石井ゆかり「星占い的思考52 フォゲット・ミー・ナット」より)

*「人間は感情を隠せる。社会的な生活において、人は基本的に、本当の感情は隠している。一方で、コメディアンは人を笑わせる。悲劇役者は人を泣かせる。アスリートやミュージシャンは観客を興奮させ、熱狂させる。人の感情を動かすことは「仕事」になっている。人間は人間の感情を見たがる。でも、自分の感情は見せまいとする。相手の心に何らかの感情をわきあがらせたとすれば、そこに自分と相手の関わりができたということになる。引き起こす感情が大きければ、相手を支配できる。感情は危険だ。ゆえに隠される。演技ではない、本物の感情を「できるだけ安全に」引き出すために、人間は奇妙な手段、様式を編み出した。たとえば祝祭や、SMプレイがそれである。

 現代のSNSの世界では、そのやりとりは基本的に、テキストで行われる。テキストの上には、生な感情は表れにくい。ゆえに、なにか失敗した人をまず、厳しく批判し、非難する。すると相手は言い訳したり、謝罪したりするが、「それは本心ではないだろう!」「嘘泣きだろう!」という追い打ちがかかる。「本物の感情」の証明を見るまでは、納得できないのだ。何らかの形で相手が「本当に打ちのめされている」「本当に後悔している」と感じられた段階で初めて、人々の「本物の感情が見たい」という思いが鎮静化する。自分の攻撃が相手の心をちゃんと動かした、とわかったとき、初めてみんなが「満足」する。これは危険な現象だ。」

*「この6月、双子座に集まった星々が次々に蟹座に移動していく。特に6月17日は、水星と金星が同日に移動する、少々特別な雰囲気の節目となっている。双子座は知とコミュニケーションの星座、蟹座は感情と記憶の星座である。「決闘」は、火星(闘争、刃傷)や射手座(射撃)と関係が深く思われるが、そのある種のゲーム性には、双子座的な匂いがある。双子座はルールによるゲームデザインとルールの破壊の両方を含む、非常に両義的な星座だ。一方の蟹座は、論理やマナー、ルールに守られた社会的な顔の「内側」にあるものを扱う。双子座的な決闘の銃弾に甲羅を打ち破られて、中から不安や死への恐怖、愛憎など、本物の蟹座的感情が出てくる。人間が何らかの行動を起こすとき、その動機には必ず、感情がある。でも、渡井たちは普段、それを「ないもの」として扱い、人に見せないよう徹底的に注意を払っている。なのにいざ他人に対すると、その中身を「見たい」と欲望する。親しくなるにせよ、敵対するにせよ、「中身を見せろ」と要求する。そこには、人と人が出会ったときに必ず働くある種の「力」が作用している。相手に忘れられたくないのだ。憶えておいてほしいのだ。どんな形であっても。」

**(ケン・ウィルバー『インテグラル・スピリチュアリティ』〜「第6章 影と切り離された自己」より)

*「私が、私を否定することができる、というのは驚くべきことである。私は、自分の自己、私の「私的」な部分を取り上げて、自己境界の向こう側に押しやり、その側面に対する、自己の「所有制」〔自分がそうした感情を持っていることを認めること=訳者〕を否定しようと試みる。それはたとえば、自分で受け入れるのは、あまりにも否定的であったり、あまりにも肯定的であったりする側面である。しかし、自己境界の向こう側に押しやることは、それを無くしてしまう、ということにはならない。ただ、それを神経症的な症状に変換させてしまうことを意味するだけである。切り離された自己の影は、私にとりつくため、戻ってくる。私が鏡を見ると、世界で最も自分を悩ませるものが見える。それは、切り離された自己の影である。」

*「現代西欧心理学の偉大なる発見は、特定の状況下では、一人称(私)の感情、衝動、性質などが、抑圧され、分離され、切り離される、ということ、そして、そうなった場合、それは私自身の一人称の意識のなかで、二人称(あなた)、さらには三人称(それ)の事象として現れるということである。」

**(カルロス・カスタネダ『時の輪』〜「ドン・ファンの教え(『呪術師と私』からの言葉)」より)

*「人びとにたいして腹を立てることは、その人たちの行為が重要だと考えていることを意味する。どうしてもやらなくてはならないことは、そのように感じることを止めることだ。人びとがやっていることが、もうひとつの選択としてわれわれに唯一実行可能なものにくらべて————つまり、無窮なるものとの変えることのできない遭遇に————相殺できるほどには重要なものではない。」

**(カルロス・カスタネダ『時の輪』〜「内からの炎(『意識への回帰』からの言葉)」より)

*「自尊心は、人間の最大の敵である。人がもろくなるのは、良きにつけ悪しきにつけ、彼がともにいる人間たちの行ないによって感情を害されることによる。尊大ぶることは、人が人生の大半を、誰かによって、あるいはなにかによって、腹を立てたまま過ごすことを要求する。」

**(カルロス・カスタネダ『時の輪』〜「沈黙の力(『意識の処女地』からの言葉)」より)

*「戦士の行なうことはすべて、彼らの集合点の移動のなせるわざであり、そうした動きは、彼らが自在に扱えるエネルギーの量に左右される。」

*「集合点がどのような動き方をしたとしても、それは、個々の自我への過度な関心から遠ざかる動きを意味する。シャーマンたちは、その集合点の位置こそが、現代人を、自己のイメージにがんじがらめになった人殺しのエゴイストにしていると信じている。万物の源に帰還するという希望を永遠に喪失してしまった並みの人間は、おのれの自我のなかに慰めを探し求める。」

*「戦士の道の目的は、うぬぼれを王座から引きずりおろすことにある。そして戦士たちのなすことはすべて、その目的の達成を目指している。」

*「シャーマンたちはうぬぼれの仮面をはがして、その正体が別のものになりすましていた自己憐憫であることをつきとめた。」

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