見出し画像

吉岡乾「連載 ゲは言語学のゲ⑧嘘吐きはヒトの始まり」/坂部恵『かたり』/三木清『人生論ノート』/白川静『字通』

☆mediopos3390  2024.2.28

吉岡乾の連載「ゲは言語学のゲ」
第八回目は「嘘吐きはヒトの始まり」

吉岡氏は「嘘が嫌い」で
「倫理的にも腹立たしい」といい
「どうしてヒトは嘘を吐(つ)くのだろう」と問う

おそらく個人的な理由からだけではなく
昨今のように政治家やメディアから垂れ流される
夥しいまでの「嘘」の数々に
心底ウンザリしていることもあるのではないだろうか

そして言語学的な現象として
「ヒトは嘘を吐く。
 ヒトしか嘘を吐かない。」
という現実を前にして

私たちはHomo mentiens(嘘を吐くヒト)
という種なのだとする

嘘を吐くということは
「騙(かた)る」ということでもある

ひとは騙らずに生きてはいけない

しかし「騙る」ことは
「語る」ことと無縁ではない
むしろ「「騙る」ことは
「かたる(語る)」ことに内包されている
「かたる(語る)」からこそひとは「騙る」

ちなみに白川静によれば
「騙」という漢字は
「馬」がついているように
もとは曲乗りのような馬技のことで
人を欺きだます意味で使われるようにもなったという

それに近しい意味をもった漢字としては
「嘘」や「詐」などがある
それらの篇は「口」や「言」で
それが「虚」や「乍(作為)」と組み合わされている

ではなぜ「かたる」ことが
「騙り」にもなるのか
それについて
坂部恵は「かたり」について
以下のように示唆している

〈かたる〉ことが〈はなす〉ことと異なるのは
〈かたる〉ことが
「反省的屈折と二重化の構造、
それもかなり統合度の高いものを前提とすることの
一つのあらわれないし結果」として考えられる

つまり〈かたる〉ことには
「他者との間の距離と分裂をみずからのうちに
はらみつつ統合するという二重化の構造」が
あらわれているのである

ランボーの「わたしは一個の他者である」
という言葉もまさにそのことを示している

〈かたる〉のは
わたしのなかにいる「語り手」なのだ
その「語り手」ゆえに「騙る」ことさえ可能となる

ゆえに
言語を用いるようになった人間は
「嘘を吐くヒト」にもなる

さて先日は「嫉妬」のテーマについて
三木清の『人生論ノート』から
「嫉妬について」を参照したが
今回もそのなかから「偽善について」を参照してみた

嘘吐きには「偽善」や「虚栄」「阿諛(あゆ)」等が関係し
「道徳的退廃」にもつながるという

「人間が生まれつき嘘吐きであるというのは、
虚栄が彼の存在の一般的性質であるためである。」

そして「偽善者が恐ろしいのは、
彼が偽善的であるためであるというよりも、
彼が意識的な人間であるためである。
しかし、彼が意識しているのは自己でなく、
虚無でもなく、ただ他の人間、社会というものである。」

つまりこういうことだろうか
みずからの嘘や偽善そして虚栄などについて
反省的にとらえるのではなく
それらを外に対して行使するがゆえに「退廃」する

「ひとは騙らずに生きてはいけない」としても
みずからの内的な反省意識においてあらわれるとき
それはポエジー=ポイエーシスともなり得るが

みずからの虚栄のために
無自覚あるいは意図的に他者へと行使されるとき
みずからもそして他者や社会をも腐敗させてしまうのだ

■吉岡乾「連載 ゲは言語学のゲ⑧嘘吐きはヒトの始まり」(群像2024年3月号)
■坂部恵『かたり』(弘文堂 平成2年11月)
■坂部恵「かたりとしじま」
 (『坂部恵集4〈しるし〉〈かたり〉〈ふるまい〉』岩波書店 2007/2)
■三木清『人生論ノート』(新潮文庫)
(昭和四十九年十二月・五十冊(昭和四十二年三十五冊改版))
■白川静『字通』(平凡社 1996/10)

*(吉岡乾「ゲは言語学のゲ⑧嘘吐きはヒトの始まり」より)

*「昔の社会では嘘がなく、言った言葉がすべて真実であり、疑う心もなかった————という話を他の授業で聞いたのですが、それは本当ですか。大学の教養科目の授業を受けていた学生が、そう訊いてきた。
 誰だ、そんなガセを学生に教え込んでいるのは。いや、そもそも、「昔の社会」って、いつの時代のどこの話をしているのか。雑な括りで奇妙な一般化をしないで欲しい。
 どこの誰先生が何を想定して話したのかは知らないが、例えば遅くとも紀元前のイソップ(アイソーポス)寓話からして嘘は題材になっている。「#210 嘘吐きの羊飼い」、「#173 ヘルメースと杣人」、「#569 猿の王と旅人たち」、「#7 猫と鶏」、「#33 法螺吹き」などなど。題材になるくたいだから、社会に十分数の嘘が蔓延っていたことは疑いがない。日本でも、文字記録が残ってすぐの『古事記』(下巻)に早くも嘘は登場する。」

「僕は嘘が嫌いだ。
 倫理的にも腹立たしいし、自分で吐こうとしても巧く言えないし。どうしてヒトは嘘を吐くのだろう。」

「この文章は日本語で書いているので、便宜的にひとまず、現代共通日本語(日琉語族)の〝嘘〟について考えることとすると、漢字としては口偏が付いており、口に、延いては言語活動に関わるものであると理解できる。訓でもある〝うそ〟という単純語は、〝嘯く〟と関連しているであろうということ以外、根を掘ることができない。
 言語はヒトのみに通用しているコミュニケーション手段である。Homo loquens「喋るヒト」————言語を操るという側面に光を当てて、我々ヒト(現生人類)をそう定義することだってあるのだ。
 ヒト以外の生物の情報伝達手段で、未来の話をし、条件付きの禁止命令を出し。物語を述べ、推察の論拠を述べられるものはない。動物の言語的行動は言語ではなく、故に嘘もない筈である。異なる名の付く概念を同一視するのは、最後まで保留すべき無分別である。単に騙すのを嘘と呼ぶのは的確ではなかろう。嘘がすべて騙す行為だったとしても、騙す行為が全て嘘だとはならない。ヒトは誰もが哺乳類だが、哺乳類が全てヒトではない。」

*「嘘に近いもので、〝二枚舌〟などという言葉もある。下は発言の隠喩であり、つまりは二重の発言ということだ。本来は2つの局面で相反する発話をすることを意味している。」

*「音声認識や音声合成の技術が進み、ガイダンス機械が言語活動的なことをする場面が増えてきた。では、そのベースで動いている人工知能=AIは嘘を吐けるだろうか。
(・・・)
 ヒトは嘘を吐く。
 ヒトしか嘘を吐かない。
 だから我々は Homo mentiens「嘘を吐くヒト」という種だとすら言える。
 だけど僕は嘘が嫌いなのである。
 お世辞も言うに苦手で、聞くと真に受けてしまう。嘘を見抜けないのは情報リテラシーが足りていないのだなどと嘯く人もあるが、そもそも嘘を吐いているという悪徳を棚上げして、何を言っているのか、お門違いも甚だしい。
(・・・)
 全てを批判的に考え出すと、したり顔で語られる政治家の発言に始まり、ニュース報道、バラティー番組にSNSと、あらゆる情報が捻れ過ぎていて、見聞きに堪えない。責任を拭い捨てて決め込まれる沈黙の金も、痛む核心に迫るまいとする饒舌の銀も要らず、いつだってシンプルに必要十分で正しい情報が欲しいのに。
 そして嘘嫌いな僕は、人嫌いにもなる。」

*(坂部恵『かたり』より)

「〈騙る〉ということばは、〈かたる〉こと一般にありかたについてさらに立ち入って考えるための有力な手掛かりとなりうるひとつの注目しべき用法をもっている。すなわち、「誰某をかたる」、たとえば「富豪の息子をかたって金品を詐取する」といった類の表現である。
 この種の用法が重要性をもつのは、いうまでもなく、ここでは、〈かたり〉の内容でも、その言語行為のさしむけられる客体でもなく、まさにその主体のありかたが問題となるからである。
 「誰某をかたる」という表現においては、その言語行為の主体は、あきらかに意図的、意識的に二重化されている。「誰某をかたる」とは、みずからの舌先三寸の〈かたり〉によって、(本当はそうではない)誰某としてみずからを相手に信じこませることにほかならないからである。
 わたくしは、こうした二重化を、たんなる付帯的なものとしてではなく、むしろ、およそ〈かたり〉なるものが(無意識的にせよ、あるいは神がかりなどの場合のようにいわば超意識的にせよ)本来すくなくとも潜在的にもつ二重化的超出ないし二重化的統合といったはたらきのひとつの顕在的なあらわれと解したい。このように考えてみれば、「誰某をかたる」という表現が、〈かたり〉の主体のありかた、さらにはおよそ人間の主体一般の元来二重構造をそのうちにはらんだありかたについてひとつの透徹して見通しをあたえる所以がただちにあきらかとなるだろう。ここに見られる〈かたり〉の主体のありかたは、〈かたり〉という言語行為が、「わたしは一個の他者である」というランボーの有名なことばに示される人間の自我主体の二重構造(・・・)の真実がもっとも典型的にあらわれる場面にほかならないことを示していると見なされうるのである。」

*(坂部恵「かたりとしじま」より)

*「(〈かたり〉は)具体的な現勢態としての言語行為であること。起承転結を典型とする一つのまとまったすじを成立のための自明の前提としてもつこと、さらには、高度の反省的屈折をはらみ、ときに誤り、隠蔽、自己欺瞞などに通じる可能性をもつこと、人間から人間へと水平の方向にさし向けられた中間形態帯な言語行為であること、などが抽出された主要な特徴であった。
 これらの特徴のうち右で三番目にあげたもの、すなわち、高度の反省的屈折をはらみ、ときに誤り、隠蔽、自己欺瞞などに通じる可能性をもつという点は、とりわけ注目に値するもののように思われる(・・・)。
 より端的にいって、〈語る〉ことは〈騙る〉ことに通じるという周知の事実を、ここでおなじ特徴のより強い例証としてあらためてひき合いに出しうることはいうまでもない。(・・・)
 当然、〈かたる〉ことが〈はなす〉こととちがって、もともと、「はなしをかたる」という場合にも典型的に見とどけられたような、反省的屈折と二重化の構造、それもかなり統合度の高いものを前提とすることの一つのあらわれないし結果と解することができるだろう。」

*「〈かたる〉ことは、〈語る〉ことであると同時にときに〈騙る〉こととして、(・・・)だます、あざむく、などと通ずる用法がある。と同時に、それは、だます、あざむくということばで単純に置き換えることによっては表現不可能なこの語特有の用法をもつ。しかも、その事実は、〈かたる〉ことの成り立つ位相を見定めるうえで決定的といってもいい重要性をもつようにおもわれる。
 ここでわたくしが念頭に置いているのは、ほかでもない。「誰某をかたる」、たとえば、「富豪の息子をかたって金品を詐取する」といった類の表現である。
 それはとりわけて重要性をもつというのは、いうまでもなく、ここでは、〈かたり〉の内容でも、その言語行為にないしいわゆる〈発語内行為〉(illocutional act)のさしむけられる客体でもなく、まさにその主体が問題となるからである。
 おわかりのように、「誰某をかたる」といった表現の場合には、〈かたり〉の主体は明白に二重化されている。意図的に二重化されている。いうまでもなく、「誰某をかたる」とは、みずからの舌先三寸の〈かたり〉によって、(本当はそうでない)誰某としてみずからを相手に信じこませることいほかならない。
 わたくしのここでの主体の二重化を、派生的、例外的等々のものとしてではなく、〈かたり〉の主体一般のもつ根本的な二重構造の一つのあらわれないし結果として考える方向に合致するものであることを確信している。(そして、ちなみにいえば、わたくしは、この方向が、主体や主語をいわば不可視の述語面の幾重にもおよぶ二重化としてとらえる西田哲学の思考に基本線において合致するものであることを確信している。)
 ともあれ、「富豪の息子をかたる」は、例外的事態ではなく、〈かたる〉ということがそもそも二重化の構造、よりくわしくいえば、他者との間の距離と分裂をみずからのうちにはらみつつ統合するという二重化の構造をもつことのおのずからなるあらわれにほかならないのであり、その意味で、それは、例外どころか。むしろ範例的事態であるともいえる。」

*(三木清『人生論ノート』〜「偽善について」より)

「「人間は生まれつき嘘吐きである」、とラ・ブリュイエールはいった。「真理は単純でり、そして人間はけばけばしいこと、飾り立てることを好む、真理は人間に属しない、それはいわば出来上がって、そのあらゆる完全性において、天から来る。そして人間は自分自身の作品、作り事とお伽噺のほか愛しない。」人間が生まれつき嘘吐きであるというのは、虚栄が彼の存在の一般的性質であるためである。そこで彼はけばけばしいこと、飾り立てることを好む。虚栄はその実体に従っていうと虚無である。だから人間は作り事やお伽噺を作るのであり、そのような自分自身の作品を愛するのである。真理は人間の仕事ではない。それは出来上がって、そのあらゆる完全性において、人間とは関係なく。そこにあるものである。」

「その本性において虚栄的である人間は偽善的である。真理とは別に善があるのでないように。虚栄とは別に偽善があるのではない。善が真理と一つのものであることを理解した者であって偽善が何であるかを理解することができる。虚栄が人生に若干の効用をもっているように、偽善も人生に若干の効用をもっている。偽善が虚栄と本質的に同じものであるこちょを理解しない者は、偽善に対する反感からと称して自分自身一つの虚栄の虜になっている。偽善に対して偽悪という妙な言葉で呼ばれるものがそれである。

「ひとはただ他の人間に対する関係においてのみ偽善的になると考えるのは間違っている。偽善は虚栄であり、虚栄の実体は虚無である。そして虚無は人間の存在そのものである。あらゆる徳が本来自己におけるものであるように、あらゆる悪徳もまた本来自己におけるものである。その自己を忘れて、ただ他の人間、社会をのみ相手に考えるところから偽善者というものが生じる。」

「我々の誰が偽善的でないであろうか。虚栄は人間の存在の一般的性質である。偽善者が恐ろしいのは、彼が偽善的であるためであるというよりも、彼が意識的な人間であるためである。しかし、彼が意識しているのは自己でなく、虚無でもなく、ただ他の人間、社会というものである。」

「絶えず他の人を相手に意識している偽善者が阿諛(あゆ)的でないことは稀である。偽善が他の人を破滅させるのは、偽善そのものによってよりも、そのうちに含まれる阿諛によってである。偽善者とそうでない者の区別は、阿諛的であるかどうかにあるということができるであろう。ひとに阿(おもね)ることは間違ったことを言うよりも遙かに悪い。後者は他人を腐敗させはしないが、前者は他人を腐敗させ、その心をかどわかして真理の認識に対して無能力にするのである。嘘吐くことでさえもが阿ることよりも道徳的にまさっれいる。虚言の害でさえもが主としてそのうちに混融する阿諛に依るのである。真理は単純で率直である。しかるにその裏には千の相貌を具えている。偽善が阿るためにとる姿もまた無限である。」

「「善く隠れる者は善く生きる」という言葉には生活における深い智慧が含まれている。隠れるというおは偽善でも偽悪でもない。却って自然のままに生きることである。自然のままに生きることが隠れるということであるほど、世の中は虚栄的であるということをしっかりと見抜いて生きることである。

「現代の道徳的退廃に特徴的なことは、偽善がその退廃の普遍的な形式であるということである。これは退廃の新しい形式である。退廃というのは普通に形が崩れて行くことであるが、この場合表面の形はまことによく整っている、そしてその形は決して旧いものではなく全く新しいものでさえある。しかもその形の多くには何等の生命もない、形があっても心はその形に支えられているのではなく、虚無である。これが現代の虚無主義の性格である。」

*(白川静『字通』〜「嘘」「騙」「詐」より)

・嘘
「声符は虚。虚は廃墟。すでに実体を失ったもの。ことばにもならぬ気息だけのものを嘘という。〔説文〕に「吹くなり」とあり、〔玉篇〕に「吹嘘」とする。出気の急なるは吹、緩なるは嘘、慨嘆するときの息をいう。
1)なげく、うそぶく、なく 2)うそ、いつわり」

・騙
「声符は扁。もとは曲乗りのような馬技をいい、のち人を欺きだます意に用いる。だます意に用いるのは俗語。
 1)馬の曲則。 2)かたる、あざむく。

・詐
「声符は乍。〔説文〕に「欺くなり」とあり、〔詩、大雅、蕩〕「候(こ)れ作(さ)し候れ祝(しう)す」とあるのは詛(のろ)うの意。乍は木の枝をむりにまげて垣などを作る形で、作為の意がある。詐は言に従い、祈りや盟誓において鷺の行為はあるこよをいう。(・・・)1)あざむく、いつわる、嘘の盟誓をする。 2)ひとをだます、たぶらかす。おとしいれる。 3)ことばをかざる、たくみにさそう。 4)乍と通じ、たちまち、にわかに。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?