見出し画像

丸山俊一「ハザマの思考6 承認欲求と自己実現のハザマで」(群像2024年3月号)

☆mediopos3375  2024.2.13

丸山俊一の連載「ハザマの思考」の第六回目は
マズローの五段階説における
四段階目の「承認欲求」と
五段階目の「自己実現」のハザマがテーマだ

ビジネスセミナーなどでもよく使われる
マズローの五段階説では
人間の欲求が
「生理的欲求」「安全の欲求」「所属と愛の欲求」
「承認と自尊の欲求」「自己実現の欲求」に分けられている

それらはピラミッドを構成し
最下層を「生理的欲求」とし
一段づつそれぞれの欲求を満たしていくことで
頂点である「自己実現」へと向かっていく

通常の理解では
「承認と自尊の欲求」は「評判、信望、地位、名声」といった
じぶんを認めて欲しい!という欲求のことだと思われがちで
それらの要素はあるものの
マズローが意図しているのは
「自らのありように自信を持ちたいという願望」を持ち
「自らの心の強固な足場」を築くということである

その前提に立てば
次の段階の「自己実現」は
「社会的成功」「社会的達成」といった欲求というよりも
「何気ない日常の中に、日々新選な歓びを見出」し
「瑞々しい感性を失うことなく、
あらゆる事象との遭遇を楽しめる精神の状態」であるといえる

そうした「自己実現」を妨げてしまいがちなのが
「分ける」「カテゴリー化する」「レッテルを貼る」といった
「ある思考の癖のようなもの」で

部分に「分ける」ことは分析的な面での利点はあるものの
それは「同時に全体を見えなくさせること」でもあり
それによって「心の自由自在さ」が奪われることにもなる

重要なのは「「分ける」ことによって生まれた対極の概念を
突き詰めていく過程の楽しさと、それらが
同じに感じられてくる瞬間の喜び」を感じることである

対極としての概念は変わらずある
たとえば「日々生きていくことは
苦行であり快楽でもある」のだが
その「二分性を味わい思索する過程で、一瞬光が射す」
その「光」を見逃さないことである

本稿ではそこまで言及されてはいないが
そう考えてくると
「承認欲求と自己実現のハザマ」だけではなく
マズローの人間の欲求の五段階すべてにおいて
それぞれの段階を「味わい思索」すること
その「ハザマ」にも「一瞬」光が射すのではないか

「生理的欲求」がすべて満たされるわけでも
それらが必要ではなくなるわけでもない
「安全の欲求」も「社会的欲求」も「承認欲求」も同様だが

ある意味それらの「ハザマ」に射す「光」を見出すことこそ
「中庸」「中道」を事とする
「中観」にほかならないともいえるのではないか

「二分性」の矛盾に耐えられなくなると
生きることを苦だとしそれをあえて行ずるか
快楽を求めそこに溺れてしまうか
片方だけを生きようとしてしまいがちだが

身体を持ちながら霊性を生きるということは
そうした「二分性」の片方ではなく
その矛盾を生きるということではないだろうか

「自己実現」にしても
それは「私」でありながら
「私」を超えているということだろう

そのために重要となる「承認と自尊の欲求」も
「私」に対する欲求でありながら
「私」への固執を超えたものへの欲求でもあるだろう

■丸山俊一「ハザマの思考6 承認欲求と自己実現のハザマで」
 (群像2024年3月号)

*(「巷で独り歩きする「承認欲求」 そもそも意味されていたのは?」より)

「よく知られる、人間の欲求の段階を、五つの回想に分けて図示したピラミッド。人々の欲求は、社会状況の変化とともに「高度」なものへとピラミッドを登っていくように変化していくと語られる。曰く、一「生理的欲求」、二「安全の欲求」、三「所属と愛の欲求」、そして四「承認と自尊の欲求」、さらに五「自己実現の欲求」という具合に。翻訳により多少の表現の違いはあるが、「マズローの五段階説」は、アメリカ心理学会の会長も務めた大家、アブラハム・マズローの名前とともに日本のビジネスパーソンたちに馴染み深い。

 動物でもある人間、まずは生存に必要な欲求を満たし、さらに身の安全を確保し、集団への帰属などを欲し、いよいよ文明社会の中で生きていく欲求へ、さらには自分らしさを発揮したい思いへと移っていく、という流れだ。常識に照らしても、なるほど、そんな順序だろうと多くの人が納得するストーリーではある。実際、これが多くの人々の標準的な理解と言えるだろう。まさに、「衣食足りて礼節を知る」を地で行くような話とも受け取れるわけで、国を越え文化を越え、多くの人々が実感する物語となっているのもわかる気がする。

 その中で四段階目に位置すると語られるのが「承認欲求」だ。三段階目の「所属と愛」と五段目の「自己実現」間に挟まれた、「承認欲求」。「自尊の欲求」というのもセットで語られているわけだが、そもそも原典はどんなニュアンスだったのか? さらに、「承認欲求」と「自己実現」という二つの欲求の段階を分かつものは何なのか?」

*(「そもそも「マズローの五段階説」における「承認欲求」の重点は「自尊心」?」より)

「「承認」という言葉に引っ張られると、その行為は、社会の側に主導権があるイメージが強い。もちろん、マズローも評判、信望、地位、名声などを挙げている。しかしそれは「第二」の話であることに注目したい。まずは、「第一」として、強さ、達成、独立、自由などの言葉が並び、根本は自尊心の問題であること、すなわち自らのありように自信を持ちたいという願望である色合いの方が強い。「第二」の結果が「承認」であり、「承認」は現象のように思えてくる。つまりは軸足があるのは、言わば、自らの心の強固な足場の築き方の方なのだ。」

「原典においては、自らの存在への不安などから世間に求める欲求、という、現代に多く流布するニュアンスからはかなり遠い、むしろ対極にある意味内容ではないかと思われるのだ。」

*(「四段階目の「承認欲求」から最終の「自己実現」へと到る境地」より)

「「承認」の欲求を満たした上で、さらに上位に現れる「自己実現」という欲求の段階については、さらに多くの言葉が費やされているのだが、マズロー自身の言葉を丁寧に辿っていくと、「承認欲求」同様、一般のビジネスシーンなどでイメージされているものとはかなり異なるイメージがあふれ出してくる。」

「素朴な表現で端的に言い換えれば、何気ない日常の中に、日々新選な歓びを見出せること、ということになるだろうか。瑞々しい感性を失うことなく、あらゆる事象との遭遇を楽しめる精神の状態が表現されている。マズロー自身によって語られる「自己実現」、それが野心的なビジネスパーソンによる野望の実現でもなければ、教条的に倫理を説く活動家による楽園感性の夢などでもない。華やかな「社会的成功」「社会的達成」などとはまったく異なる心の状態であると言えるだろう。」

「どんな状況にあっても常に虚心坦懐、明鏡止水とも言うべき心の状態=境地というイメージが湧いてくる。その意味では、「禁欲主義者」と表現されているが、むしろ僕はこの文脈でエピキュリアンを連想した。エピキュリアン=快楽主義者という変換がなされてしまうと少々困るのだが、古代ギリシャの哲学者、エピクロスが原初に説いたと思しき思想の意味合いにおいて、だ。その哲学の主たる目的は、心の平安を得ることを求めるものであり、自然学に基礎を置くことで欲望や劇場から生まれる乱れた想念や、死の不安、また神の処罰という迷信から人間を解放しようとするものだったと言えるだろう。その意味でのエピキュリアンだ。」

*(「ちょっとイヤミな? カントの人間観察から見えるもの」より)

「(カントは『道徳形而上学原論』において)経験や義務からではなく、「自己」から生まれる道徳心。それは観察によって見出すことができるのだという・そして。そうであるにもかかわらず、それは想像力による妄想だと笑う人々、経験からと思いこんで疑わない人々には、思いたいように思わせておけばよいという(・・・)。
 想像力でも経験でもなく、観察から導き出される、人間の本源的な性質、それが道徳心だというのだ。観察と思考を繰り返し、歩きながら考える人、カントの姿が目に浮かぶ。」

*(「「承認欲求」と「自己実現」のハザマの向こうに」より)

「承認欲求と自己実現のハザマをめぐる思考、その連想のおもむくままに精神の運動を楽しんでいるうちに、カントの自由自在さまで辿り着いたわけだが、そうした境地を獲得する為に忘れてはいけない大事な助言を、マズローは残している。そして、自己実現という、子どものように柔軟で伸びやかな、豊かな心の境地へと到るのを妨げるのは、人間の持つ、ある思考の癖のようなものだと指摘する。

   いわゆる経験の陳腐さというものは、おそらく、豊かな知覚をそれが有益でも脅威でもなく、また、自分とも関係がないということがわかると、あるカテゴリーや題目の中に押し入れ、レッテルをはってしまう結果であると考えられるからである。(『[改訂新版]人間性の心理学 モチベーションとパーソナリティ』A・H・マズロー 小口忠彦訳)

 経験や慣れによって、日々の新鮮さや喜びを忘れてしまいがちな人間の性を見つめた上で、カテゴリー、レッテル貼りで「効率的」な整理から日々逃れられない現代人げの警告だ。

 放っておけば、日々僕らは、「分かる」為に「分ける」作業の連続の中を生きる。様々な分析ツールを使うことに価値があり、そのスピードが優秀さの証しであるかの如く語られることも多い。「分ける」ことで情報を生む方法論が全盛の時代に生きているのだから。実際、今僕自身が向かっているディスプレイの向こうで作動するコンピューターが、「分ける」作業を代わってくれるありがたい相棒であることも間違いない。

 だが、「分ける」ことの不幸というものがある。実は「分ける」ことは、部分に分けることで分析を可能にするが、同時に全体を見えなくさせることでもある。「分ける」「カテゴリー化する」「レッテルを貼る」ことが、心の自由自在さを奪っていくこともある。」

「安易に「分ける」ことの危険性を考え続けたマズローはこう記す。

   たとえば、昔からの問題である情緒と知能、理性と本能、また、認知と動機の対立はそれらが敵対物ちいうよりは協働作用をしている健康な人にあっては、消滅するのが見られた。健康な人は、対立するものを同じものだと言い、同じ結論を示すと考えるので、それらの間の葛藤は消えてしまうのである。一言で言えば、これらの人々においては、要求と理性はすばらしい調和状態になるのである。(中略)
 原則として、あらゆる行為は利己的であり、同時に利己的でないのにで、健康な人においては利己的であることと利己的でないことの二分性はまったく消え失せてしまう。(同書)

 二分性の消失。語られているのは、「分ける」ことによって生まれた対極の概念を突き詰めていく過程の楽しさと、それらが同じに感じられてくる瞬間の喜びだ。そこに到って、「利己的であることと利己的でないことの二分性」が消えるように、自己のありようも解放され、葛藤が消え調和が訪れるというわけだ。そして、この二分性の消失は、それ自体を意図しているわけではないというのも面白いポイントではないだろうか。

 相変わらず、「承認欲求」も「自己実現」も概念としてはある。日々生きていくことは苦行であり快楽でもある。だが、この二分性を味わい思索する過程で、一瞬光が射すのだ。

 「ハザマの思考」の苦行と快楽も、終わらない。光を求めて。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?