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『闇の自己啓発』

☆mediopos-2431  2021.7.13

ある種の偽悪が魅力的で
ときに必要不可欠となるのは
世に偽善がはびこるときにこそだろう

読書会も「偽善の読書会」になると
じぶんでは考えることができず
じぶんを失い思考力をスポイルされ
「人形」に変えられ自我を自己を失うことにもなり
ここでいう「闇の自己啓発」とは
対極にあるものとなってしまう

だから「読書会」なるものは考えものだ
群れてしまうだけになりかねないからだ
基本はやはりひとりで向き合うこと

とはいえ偽悪はあまり好きではない
面倒だとさえ感じることも多く
あえて近づこうという気にもなれない
本書の議論も同様である(面倒な話も多い)

世の中をなんとか支えているのは
「偽善」などという狡猾な知恵ではなく
おそらくは深いところで働いている
闇さえ排除することのない
身体化された「善」の働きだろうから
そちらのほうをこそ信じたい

とはいえ昨今の世の中のように
人間を「偽善」さえおかまいなしの
自動「人形」に変えてしまおうとしている向きを
いやおうなく目の当たりにすると
ときにはあえて「闇の自己啓発」を
試みる必要もあるのだろうとさえ思えるところがある

そのときに思い出すのは
親鸞の悪人正機だ
「善人なおもて往生を遂ぐ
 いわんや悪人をや」である

勝手に解釈するとすれば
善人は善人でいいけれど
悪人を救うことも必要だというのではない
善人と称するような者はことごとく偽善で
ほんとうは自覚のない分だけ
さらに悪をつくりだしてしまうことが多いから
じぶんのなかの闇・悪を見据える者のみが
闇・悪をも変容させることができる
ということでもあるのだと思う

「黄昏時に、光と闇のあわい、
グレーゾーンに身をさらし、闇を見据え、闇を探り、
闇から出現する異物を受け止め、受け流し、
時には跳ね返す」ということ

そして
「じぶんに与えられた課題、
降りかかってきら悩みを分類し、
「類題の解答例」を真似するためではなく、
ひとつの謎になるために生きること。
己にしか立てられぬ問いを身で以て示すように生きること。
そのための「直観」を身に着けること」

政治や科学が
みずからの権力や経済効果に阿る視野狭窄となり
現在のように幼稚なバイアスのかかった
偽善をふりまわし続けるならば
こうしたときにこそ
「光と闇のあわい」に身を潜めて
悪への免疫を身に着ける必要がありそうだ
もちろん偽善への免疫をしっかり身に着けることが
そのまえに必要不可欠なのだけれど

■江永 泉・木澤 佐登志・ひでシス・役所 暁
 『闇の自己啓発』
 (早川書房 2021/1)

「世間や企業、集団は「自己」を嫌う。とにかく上司の言うことに逆らうなと、個人の思考や批評精神を封じる方向に動く。その波に押し流されてしまうと、個人はいつしか考えることをやめて、世間を構成する大波の一部になってしまう。さながら、押井守監督の映画『イノセンス』に登場する、「人形」に変えられ、自我を、自己を失っていった少女たちのように。そして我々個人がその思考力を奪われ、「人形」にされてしまうと、大きな存在はますます大きくなり、誰も批判できない存在になってしまう。
 そんあビッグブラザーの支配する世の中で、自己を奪われないためには何をすればよいのか。私は読書会こそがその答えであると思う。ひとりで思考し、学び続けることが難しくても、ともに語り、学び、思考する共犯者がいることで、自己を失わずに、思考することを続けやすくなる。そしてそれを発信することで、思考の種を蒔き、共犯者を増やしていくことが可能になる。少なくとも私はそういう思いで、読書会−−−−「闇の自己啓発」に参加している。」

「私の身体をこことは異なる地点に接続させる回路をつくること、私の身体をいまとは異なる時制に接続させる回路をつくること。自身と世界との間に、ディストピア的な世界/身体から逃れるような別のフィードバックの回路をつくり上げること。また、そのフィードバックの回路自体をモジュール化し、他者と共有したり、別の回路の一部に組み込んだりすることが可能な状態にすること。そして、そこから再び新たな回路を構築し、練り上げること。「闇の自己啓発」とはそのような営みに他ならない。それがもっぱら“闇"と呼ばれるのは、ただ既知を「わかる」と呼び、「わかりみ」を明るさで語る習慣からでしかない。“ここ"からの距離が遠くなるほど、言い換えれば不可知の圏域に私たちが近づけば近づくほど、光の速度が及ぼす支配力は弱まり、逆に闇はその本来の力能を増していくことだろう。」

「陰謀論からですら探求を始めることができる。たとえば、地球がおかしくなり太陽の沈む位置が昔とズレてしまったという、カナダの極北地方に住むイヌイットによる奇妙な話は、誤認や偽証の産物ではなく、地表を覆う雪氷や大気中の粒子状物質の変化を反映した大気光学現象の観測による知見おw表現していたのだと説明されもする。この話を引きつつ「陰謀論の多くはある種の民族知なのかもしれない」(『ニューヨークダークエイジ』)とも論じるジェームズ・ブライドルは、より疑わしい陰謀論、ケムトレイル(・・・)についても、何とかよい説明を与えようと試みている。「ケムトレイル論の浸透は、ティモシー・モートンによる気候変動そのもののハイパーオブジェクト的な解釈にとてもよく似ている。肌にしみつき、生活のあらゆる側面に入り込んでいく。[・・・・・・]陰謀論とは、私たちが暗黙のうちに世界に潜んでいると感じる恐怖を、そのまま解釈したものだ」。−−−−−−−−各々の身体の、手つかずの探求の軌跡としての民族知=陰謀論。その善用を試みること。ファクトとともに。「念のために行っておこう。ドラマチックな本能は、人生に意味を見出し、毎日を生きるために必要不可欠だ」(『FACTFULNESS』)。

「己とは相容れない領域があると認めること、それこそが肝要なのかもしれない。光の下にある者にとって闇とは、己と相容れない者が身を置き、身を安らう居場所のことだ。闇を認めるとは、己と相容れない者がこの世界に存在する余地を認めることだ。そこには少なくとも寛容の徳がある。そして黄昏時に、光と闇のあわい、グレーゾーンに身をさらし、闇を見据え、闇を探り、闇から出現する異物を受け止め、受け流し、時には跳ね返すことで、人は歓待の時をも身につけることができるのかもしれない。光の住人もいつしか闇の住人になり、かと思えば光の住人に戻るのかもしれない。「私」はそれを夢みる。「私」の幼稚園の頃の「しょうらいのゆめ」のひとつは「たびびと」だった。
 人生は己の手で解釈しなければならない。到来する他者。到来するファクト。到来する導きの光。到来する魔の手。それらに抗いつつ魅惑され、時に身を委ねまたは逃れること(魔の手の力を借りてこそ達成できた実践すらあるかもしれない)。そうした折衝。人生とはきっとそのような折衝=解釈の過程であり、人生を自身で解釈する力の増大を、人は自由と呼んできた。活動しよう。
 じぶんに与えられた課題、降りかかってきら悩みを分類し、「類題の解答例」を真似するためではなく、ひとつの謎になるために生きること。己にしか立てられぬ問いを身で以て示すように生きること。そのための「直観」を身に着けること。そのための読書。そのための物語。そのための思想。そのために、「闇の自己啓発」。無数の魔の手が覆い、無数の導きの光が射し込む中、この身体で感じとる、かすかな暗闇を、失わずにつかむための。」

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