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山口 尚『日本哲学の最前線』/森岡正博+山口尚「【討議】未来の大森哲学」

☆mediopos2597  2021.12.26

哲学者の大森荘蔵が生誕一〇〇年ということで
『現代思想』で特集が組まれている

大森荘蔵はある意味で
現代の日本の哲学の
源流のひとつともなっているのだが
その特徴のひとつが
哲学者とその思想の翻訳紹介や
その延長にあるような哲学ではなく
オリジナルテーマを哲学した
ほんらいの哲学者だということだ

大森荘蔵については
あらためてとりあげてみたいと考えているが
今回はその孫世代にあたるともいえる
二〇一〇年代を代表する六人の哲学者の哲学が
J哲学として紹介されている
山口尚『日本哲学の最前線』を主にとりあげる
テーマは不自由と向き合う本当の自由のための哲学だ
(山口尚は今回の『現代思想』の特集の最初で
森岡正博と「討議」を行っている)

その「日本哲学の最前線」の六人とは
國分功一郎・青山拓央・千葉雅也
伊藤亜紗・古田徹也・苫野一徳で
(その六人はこのmedioposでも
ここ数年のあいだにご紹介してきた哲学者たちだ)

本書ではそれぞれの思想が紹介されているが
その六人に共通しているとされているのは
〈不自由へ目を向けること〉だという
「真に自由になるために、私たちを縛るものと向き合う」
ということだ

國分功一郎は
「中動態」に関連させながら
「意志」に異議申し立てをおこない
青山拓央は
「決める」という概念がはらむ不条理のもとに
人間的枠組みを超えた境地の「無自由」を指摘し
千葉雅也は
偶然性を活用した
「非意味的切断の善用」を奨励し
伊藤亜紗は
意志を他へ押しつけるという姿勢を脱し
身体をめぐる考察を通じて他者性の倫理を提示し
古田徹也は
言葉に自分の意図する意味を押しつけず
表現の「訪れ」を待つという倫理的重要性を指摘し
苫野一徳は
自分の意志を押しつける低次の「意志」を乗り越えた
「自己犠牲的献身」を真の愛として位置づけている

六人がそれぞれの仕方で模索しているのは
(低次の)意志や言葉やその意味づけなど
私たちを縛っている「不自由」に目を向け
それらに向き合ってていくことだ

それは錯綜して見えにくくなり
解くことの難しくなってしまった糸を
丁寧に解きほぐしていくような
そんな実際的な哲学であるように見えるが
ある意味で現代人は
そんなもつれた糸のようになってしまっている
ということでもあるのだろう

■山口 尚『日本哲学の最前線』
 (講談社現代新書 講談社 2021/7)
■森岡正博+山口尚「【討議】未来の大森哲学――日本的なるものを超えて」
 (現代思想 2021年12月号 特集=大森荘蔵 生誕一〇〇年 2021/11)

(山口 尚『日本哲学の最前線』より)

「「J哲学」はウィトゲンシュタイン研究で有名な鬼界彰夫が使い始めた概念である。それはJーPOPのアナロジーであり、哲学におけるJ−POPの類比物だ。(・・・)「J哲学」と呼ばれる日本哲学の最前線は《日本的なものを哲学に取り入れるぞ!》などの志向をもたない。むしろ、「輸入」と「土着」の区別を超えて、限定修飾句なしの「哲学」にとり組むのがJ哲学である。」

「本書では二〇一〇年代のJ哲学という日本哲学の最新の段階が取り上げられるのだが、この一〇年間の日本の哲学者は「不自由」というものにこだわってきた。二〇一〇年代のJ哲学は〈不自由へ目を向けること〉で特徴づけられる、というのが本書を通じて明らかになることだ。ただし、(・・・)ここでの不自由への眼差しは人間の暗黒面の露悪的な強調ではない。視線の先には〈自由〉がある。真に自由になるために、私たちを縛るものと向き合う−−−−これがJ哲学の旗手たちの取り組んできたことだ。」

「具体的には本書は、日本哲学の最前線たるJ哲学の六人の旗手、すなわち國分功一郎、青山拓央、千葉雅也、伊藤亜紗、古田徹也、苫野一徳のそれぞれの思想を紹介する。(・・・)
 本書では、いま挙げた六人の哲学者の独創性を説明することに加えて、《最新の日本哲学が全体として何に取り組んでいるのか》も論じる。(・・・)J哲学の旗手たちの思索には人間の「不自由」へ目を向けるという共通の視座がある。すなわち、単純に「自由」を希求するのではなく、人間の避けがたい不自由を直視したうえで可能な自由を模索するのである。」

「六人の思想は互いに反響し合いそして共鳴する。國分は「中動態」という言語的古層の概念に依拠して主体性をめぐる人間的過信を批判するが、この道行きは人間の言語的コミュニケーションの枠を超出し「無自由」の世界を露わにする青山の理路といろいろな点で重なり合う−−−−それゆえ私たちは両者を並べることでそれぞれをより深く理解しうる。あるいは千葉雅也は偶然に溢れる人生を生きぬく戦略として「非意味的切断の善用」を推すが、これは伊藤亜紗が重視する「生成的コミュニケーション」で実践されていることだと解釈できる。加えて國分・青山・千葉・伊藤に共通する〈言語への粘り強い注目〉は古田の言う「言葉の立体的理解」の観点からよく分かるものになるだろうし、あるいは本書のJ哲学の旗手たちの〈知への愛〉はそれ自体で苫野の言う「真の愛」−−−−すなわち「自己犠牲的献身」としての愛−−−−の実践として理解されうる。」

「國分は、中動態という言語的古層へ溯り、《主体が活動の過程に巻き込まれている》という事態へ読者の目を向けさせる。「中動態」という概念を通して人間を観察すれば。私たちの生には荒波の上で船を操舵するような側面があると言える。それゆえ〈行為の視点としての意志〉という「意志」の理解は少なくとも一側面である。そして−−−−國分がスピノザの議論に即して指摘する点だが−−−−私たちは、時分の生の不自由を認識するときのほうが、よりいっそう自由になれる。
 青山は、「あなた」などの二人称的表現を用いる言語的コミュニケーションに人間の自由の源泉を見出しつつ、こうした人間的枠組みを超えた境地の「無自由」を指摘する。じっさい分岐問題を考察すれば、「決める」という概念がはらむ不条理が判明する。とはいえ−−−−これが青山の指摘のひとつだが−−−−それにもかかわらず私たちは、人間として生きる限り、ひとを自由と見なさざるをえない。この意味で私たちは「自由意志」の概念に縛られていると言える。
 千葉は、環境のノリが私たちを束縛するという事態に注目し、勉強を〈既存のノリから自由になって別のノリへ移行すること〉という生成変化として特徴づける。そして《コードをどの方向へズラせばよいのか》という問いに対しては、《たまたま自分がもっているこだわりに身を任せるのがよい》と答える。結果を意志的にコントロールしようとするよりも、偶然性を活用するほうが創造性は増す−−−−こうした「非意味的切断の善用」こそが千葉の奨励するものだ。
 伊藤は、身体をめぐる考察を通じて、〈他者が自己へ入り込む余地を除き去らない〉という他者性の倫理を提示する。互いに混じり合うやり取り(例えば自己の身体との対話や接触的コミュニケーション)においては、各人は自己の意志を最優先すべきでない。むしろ−−−−伊藤の中心的主張だが−−−−意志を他へ押しつけるという姿勢を脱し、《特定の誰かが事柄の意味を意図的に決定する》ということのない生成的コミュニケーションに参入することが「よきふれ合い」にとって肝要である。
 古田は、常套句の無批判的使用が思考停止を引き起こすことを踏まえ、しっくりいく表現をめぐって迷うことの倫理的重要性を指摘する。押さえるべきは、しっくりいく言い回しは話し手の意志のコントロールのもとで計画的に作り出されるものではなく、むしろそれは言語の側から到来する、という点だ。私たちは、言葉に自分の意図する意味を押しつける(例えば閣議決定によって言葉の意味を指定するなど)のではなく、言語の伝統を尊重しながらよい表現の「訪れ」を待たねばならない。
 苫野は《愛は理念であり、愛することは意志することだ》と考える。すなわち愛は、たんなる感情や出来事ではなく、行為である。その一方で、真の愛において意志されることは「自己犠牲的献身」であり、ここでの「意志」は自分の意志を押しつけるという低次の「意志」概念を乗り越えたものだ。それゆえ、苫野において「意志」はその積極的な意義を肯定されるのであるが、それは同時に〈我執的な意志〉を退けることでもある。
 このように−−−−あらかじめ述べた点だが−−−−本書で取り上げた哲学者はそれぞれの仕方で「意志」概念を批判する。それゆえこの六人のやっていることを「不自由論」で括ることには充分な根拠がある。」

「本書は、二〇一〇年代のJ哲学の代表的な流れは「不自由論」として特徴づけられる、と主張する。《なぜ不自由がフィーチャーされるのか》への答えには出口の見えない経済的低迷などが関わるかもしれない。あるいは薬物依存などの精神と身体をめぐる不自由への顧慮がここ一〇年ほどの不自由論を喫緊のもとにしている可能性もある。哲学の個別的活動は時代の特性に多かれ少なかれ縛られるので、不自由な世代の私たちはどうしても不自由を無視することができない。とはいえ哲学には時代を超越する面があり、本書で取り上げた哲学者はそれぞれ〈不自由〉をめぐる根源的洞察を提示している。それゆえ二〇一〇年代の不自由論は時を経ても繰り返し省みられるはずだ。」

(森岡正博+山口尚「【討議】未来の大森哲学」より)

「森岡/自由意志論は山口さんがずっと考えてこられたテーマですが、大森の自由意志論はちょっと独特な感じですね。」

「森岡/大森哲学をいわゆる日本哲学、あるいは世界哲学の中にこれからどう位置付けていくのかという話もしておきたいと思います。最近、東京学派という言い方が聞かれるようになりました。戦前から戦後しばらくまでは京都学派があり、それと対比させるような形で東京学派という系譜を見ることができるのではないかという話です。その時に廣松渉、大森荘蔵、坂部恵、井上忠の四人が駒場カルテットと称され、よく名前が挙がります。私も二〇一九年にハワイ大学で「大森と廣松以降の東京学派」という発表をしました。(・・・)大森哲学からちょっと離れた場所で独創的な哲学をしている大森以降の人ということで、永井均さんと入不二基義さんと森岡を、自分の考えたいことを考えたいように考えるという大森的なところを引き継いだ、大森以降の東京学派の哲学者として見れるのではないかという話をしました。
 その後で山口さんの『日本哲学の最前線』を拝読して思ったのは、大森を位置づけるのだとしたら東京学派よりもJ哲学の方がいいのではないかということです。山口さんがおっしゃるように、J哲学を考えるにあたってまず一つの参照項としては京都学派があると思います。そしてその後、二〇世紀の半ばから終わりにかけて京都学派とはずいぶんニュアンスの違う哲学が東京大学を中心に緩やかに形成されていった。そして二一世紀になってその形もまた崩れていって、日本語で独創的な哲学を志している哲学者たちが日本にも継続的に現れている。このような見方がJ哲学だと思います。

山口/(・・・)日本の哲学をまず部分的に始めるとすると、僕の場合はおそらく大森荘蔵が出発点になるでしょう。大森荘蔵がもっていた関心というのはどちらかというと形而上学的と括れます。この日本形而上学の系譜には、永井均さん、野矢茂樹さんも入るでしょうし、また入不二基義さんも入るでしょう。この日本の形而上学の流れが面白いのは、西洋の形而上学の記述のあり方と結構対比できるような仕方になっているところです。
(・・・)

森岡/もしJ哲学の形而上学の部門をアンチフィジカリズムとまとめるとしたら、やはりそれに力を与えた大森さんの存在は大きいでしょう。大森さんは物理学出身でありながらそういう物理学帝国主義に敢然と立ち向かった人ですかた。大森さんがそうやって頑張ってくれたから、われわれ下の世代は、哲学全体が物理主義的あるいは広い意味での自然科学主義にどんどん移っていく中で、大森さんがご健在の時期まではずっと守られていたという印象があります。

山口/そしてわれわれ世界にとってはまた新しい意味もあります。ゼロ年代からの心の哲学のメインストリームはやっぱり物理主義的な捉え方なんですが、その議論が煮詰まってきたとして、ではどこにオルタナティブがあるかというと、実は大森荘蔵に既にあったということになる。われわれにとっても数世代前だけど新鮮に感じられます。

(・・・)

山口/僕は、さしあたり日本語は大事だ、と考えていますが、それは歴史的観点からの主張です。僕は「J哲学」を歴史的な用語として理解していて。「J」に超歴史的な意味づけをすることは避けたいと考えています。(・・・)
 歴史を振り返って日本哲学をどこに見出すかは、今のうちの伝統においては、日本語を使って日本的なるものを更新するということで捉えられると思います。

(・・・)

森岡/(・・・)山口さんもおっしゃっているように、日本語で哲学をするときに日本的になる必要はないし日本文化的になる必要もまったくないのだけれども、日本語で書くということの独自性についてはそれをけっして手放してはならないと思います。だから日本語で考えて書く場は絶対に必要だし、そういう形で世界的に見てユニークなものをわれわれが切り開いていける可能性はたっぷりあるわけだから、われわれはそれを見失ってはいけない。」


◎山口 尚『日本哲学の最前線』[目次]

はじめに 日本哲学の最前線=「J哲学」
第一章 共に生きるための言葉を探して――國分功一郎『中動態の世界』
第二章 人間は自由でありかつ無自由である――青山拓央『時間と自由意志』
第三章 偶然の波に乗る生の実践――千葉雅也『勉強の哲学』
第四章 身体のローカル・ルールとコミュニケーションの生成――伊藤亜紗『手の倫理』
第五章 しっくりいく表現を求めて迷うこと――古田徹也『言葉の魂の哲学』
第六章 エゴイズムの乗り越えと愛する意志――苫野一徳『愛』
おわりに 自由のための不自由論


◎現代思想 2021年12月号 特集=大森荘蔵 生誕一〇〇年[目次]

【討議】
未来の大森哲学――日本的なるものを超えて 森岡正博+山口尚

【ことだまを継ぐ】
大森荘蔵先生がいらっしゃらなければ 中村桂子
移動祝祭日――斜交いからの大森荘蔵論 野家啓一
物と記号 飯田隆
大森荘蔵の衝撃 丹治信春
大森哲学と後期ウィトゲンシュタイン 野矢茂樹
〈頑固〉の哲学 小林康夫

【額に汗して考える】
日本(語)で哲学をするということ――大森荘蔵と細野晴臣 青山拓央
懐疑論・検証主義・独我論から独現論へ 入不二基義
大森荘蔵の何が画期的でしかし私はその何に不満を感じたか 永井均

【過去は物語り】
大森荘蔵と西田幾多郎――現在と身体をめぐって 檜垣立哉
言葉で世界を造形する――大森荘蔵の芸術哲学素描 安藤礼二
昭和三二年の分析哲学――座談会「分析哲学をめぐって」を読む 植村玄輝

【時間・意識・社会】
線形時間なしにいかにして過去を語るか――大森荘蔵とベルクソン 平井靖史
「過去」はいかなる意味で存在するのか?――大森荘蔵とポール・リクールの交叉 山野弘樹
大森荘蔵の時間概念とマンガ P・ボネールス(森岡正博訳)
大森哲学と社会秩序 桜井洋
大森哲学と○○論という問い 戸田剛文

【資料】
大森荘蔵主要著作ガイド 山名諒

連載●科学者の散歩道●第八一回
「科学」を科学的に――武谷三男とロマン・ローラン 佐藤文隆

連載●「戦後知」の超克●第一六回
柄谷行人における「日本」の問いかた 下・1――その「起源」と「構造」 成田龍一

連載●ポスト・ヒューマニティーズへの百年●第二一回
二つの死――ブラシエ(5) 浅沼光樹

連載●タイミングの社会学●第一三回
解釈労働 上――文化資本論を読みかえる 石岡丈昇

【研究手帖】
撮影を通して経験すること 江本紫織

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