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内田也哉子・中野信子『なんで家族を続けるの?』&諏訪正樹編著『二人称的身体論/「間合い」とは何か』

☆mediopos-2317  2021.3.21

『鶴瓶の家族に乾杯』という番組を
いつも楽しんでみているけれど
「家族」というコンセプトに
疑問をもたないわけではない

家族という形が
多様であっていいというだけではなく
家族という形そのものが
必ずしもなくてもいいと思っているからだ

現代の家族形態は比較的最近の形で
おそらく数十年後には
半数の方が結婚さえしなくなるだろうという
その意味でも人といっしょにいるという形は
ずいぶん今とは変わってくるのは間違いない

家族でいるというならそれもいいし
ある特定の形を好むならそれもいいけれど
ひとりでいるのも
だれかといっしょにいるのも
ひとそれぞれ自由にするのがいいのだと思う
ジェンダーだとか別姓だとか
あれこれいわれているけれど
そんなことなどほんらいどうでもいいことだ

個人的にいえば大原則は
以下の中野信子氏の引用にもあるように
「一緒にいて楽しい人と結ばれたい」ということだと思う
そうでないのに一緒にいるのは理解不能だ
「結婚するべきだ」「常識的な形をとるべきだ」という
「べき」が理由になるのはあまりに悲しい

とはいえ「そうすべきだ」と思いこんでいるひとたちに
真っ向から抗うのも面倒なので
「結婚という形態をとったほうが、
社会を構成する多くの人を納得させることができ、
その人にとって心地よい安定的な状態を
現出させることができる。だから、それを選択している」
というあたりが現在では妥当なところだろう

しかし基本はじぶんがどうありたいのか
ひょっとしてなにかに縛られてそれに従っていないか
そのように意識的に問い直すことは必要だ
その問いのないままに「べき」に従ってしまえば
だれかと「ともにいる」ことはできない

だれかと「ともにいる」ことは
「ひとり」と「ひとり」であることが前提になる
そのうえで「ともにいる」ことで
得ることのできるものがだいじなのだと思う
「ともにいる」ことでこそ
「ひとり」を深めていくことができる
そうしてこそ「ともにいる」ことが活かされてくる

■内田也哉子・中野信子『なんで家族を続けるの?』(文春新書 2021.3)
■諏訪正樹編著『二人称的身体論/「間合い」とは何か』(春秋社2020.2)

(『なんで家族を続けるの?』〜内田也哉子 より)

「「お父さんの職業は?」と、幼いころに誰かに尋ねられると、
 「お父さんは、会社員。お母さんは。ふつうのお母さん。いつもお家にいる」
 と、私は答えていた。こんな真っ赤な嘘を淡々とついていた小学生の私の心理は、一体どういう状態だったのだろう・・・・・・。
 「お父さんはロックンローラーで、お母さんは女優」だなんて、口が裂けても言えず、なにより、子どもながらのダイヤモンドみたいに堅い意志が、その事実を断固として認めたくなかったのだ。とにかく、当時の私の願いは、ただひとつ。目立つことなく、落ち着いた両親のいる穏やかな家族の子であることだった。
 ところが、そんなささやかな願いは成就することもなく、父親が社会の掟を破る度に、私たち家族のあり方は世間に晒され続けた。気がつけば、メディアを通して互いにコミュニケーションを取る始末の家族となり、我が家には秘め事も建前もなく、すべてが公になっていた。挙げ句の果てには、晩年の両親には「逆仮面夫婦」などと言い得て妙な呼び名まで付けられ、若かりし頃は流血を伴う喧嘩が日常茶飯で、最期まで「良い夫婦」の模範とは程遠い実状だった彼らの、何が真実で、何が虚構なのかさえも、もはや区別がつかなくなっていた。」
「たかが家族、されど家族。
 誰にとっても尊くも、如何ともし難い、人と人のつながりの細部を覗くことは、ひいては世の中の構図を見渡すことにも通ずるのかもしれない。
「家族」というテーマが根っ子になるのは確かだが、見事なまでに話は枝分かれしていき、気づけばそれなりの大樹に育ったように思う。
 そして、きっとこの樹は永遠に正解の姿は見つからぬまま成長し続け、時にまた「葛」や「藤」が絡まり、先の世代は、その蔦を剪定しながら自分なりの人と人のつながりを模索するのではないだろうか。」

(『なんで家族を続けるの?』〜中野信子 より)

「家族は、「婚姻関係にある夫婦を中心とした血縁を持つ人々の集まり」と定義されます。
 けれども、単に血縁の人が集まっている、というわけでは済まない、やっかいな何かを、家族という機構は同時に持ち合わせています
 それは、血縁があることを根拠として、家族外の人とは明白に異なる「情緒的なつながり」を内外から期待されてしまう、という重さでしょう。ただ、法的に定められた婚姻関係にある、あるいは、他の人よrも、少しだけ多く同じ遺伝子を共有している、というだけで。」
「家族という機能はたしかに、ごく客観的に、機能面だけで見ても、実に多くの役割を持っています。性、生殖、扶養、経済的生産、保護、教育、宗教、娯楽、社会的地位の付与等・・・・・・。けれど裏を返してみれば、こういった機能は社会の変化に沿って、大きく変容し続けていくものである、ということも言えるのです。家族のあり方というのは、一意的に定まるようなものではなく、歴史的、民俗学的に観れば多彩な様式が存在しました。
 前段に列挙した社会的な機能を十全に果たしていれば、家族というのは決して現在の私たちが刷り込まれているようなステレオタイプなものである必要はないはずです。」
「ただ、私たちの認知では、社会的に発されるメッセージによる刷り込みが強いために、私たち人類が本質的に持っていたはずの戦略の多様性がすっかり忘れられてしまっています。現在、スタンダードだとされているような形が、唯一無二の正しい家族の形であると思い込まされてしまっている。
 この刷り込みによって、自分の家族はその形から外れているのではないか。これでは自分の家は機能不全ではないか、などと、思い悩まされたりもしてしまいます。その形を維持すべきであるという内外からの圧力を強く感じてしまうあまりに、本来大切にすべきものであるはずの、家族ひとりひとりの気持ちを、犠牲にしてしまうということ起きてしまうのでしょう。」

「時間軸を広げて考えると、私たちがいかに、今の常識とされている根拠の稀薄な社会通念に縛られていることかと、慄くような気持ちにもなるのです。とは言え、もうすこし冷静になってみると、そこに縛られている必要も本当はあまりないのだということもよくわかる、さほど合理的な根拠のない何ものかによる束縛を、我々は蹉跌と感じていたんだなということに気づく。
 といって、也哉子さんも私も、今の社会通念に抗って世間の糾弾の矢を浴びようとも思っていない。生硬なやり方で自分の考えを表明するには、私たちは十分、年齢を重ねてきてしまってもいる。 
 家族を続ける合理的な理由がもし一つであるとしたら、こうした経験的な知恵に従って、というところが実は大きいのではないでしょうか。(・・・)
 もちろん、一緒にいて楽しい人と結ばれたいというのは大原則です。けれど、一緒にいるだけなのであれば、結婚という法的な根拠は特になくてもいいわけです。しかし、結婚という形態をとったほうが、社会を構成する多くの人を納得させることができ、その人にとって心地よい安定的な状態を現出させることができる。だから、それを選択しているということになるでしょう。」

「二〇四〇年には、ほぼ半数の人が結婚を選択しなくなる、という試算があります。日本で、です。もう、家族どころか、結婚すら選ばないわけですから、これまでの家族の形についての社会通念は、今後、急速に変化していく可能性が高いでしょう。
 むしろ、家族あり方は多様であるべきだ、などと言っている時点で、実際かなり古臭いのかもしれません。すでに、日本でも離婚率は三割を超えています。家族のあり方は多様だという現実がもうあるのです。そのことを、社会は認めるべきでしょう。」

「本書の第5章では、私たちが社会通念から外れた家庭に育ちながら、それでも結婚という形を選び、家庭を持ったその経緯について、そしてイエ制度というものについて語り合いました。もちろん、私自身も社会の中に存在している人間である以上、そこにある通念を完全に無視して生きることは難しい。というか。それに抗うのは面倒です。その理由も、婚姻を選ぶことの動機として、なかったわけではありません。也哉子さんは、どうだったでしょうか。
 でも、すくなくとも、社会的な圧や、通念や、客観的にみた家族の機能などというものとはどこか次元の違うところにある、この人とつながっていたいなあ、というひとすじ絆を、確かなものにしたくて、私たちはそれぞれのパートナーを選んだのではないか。
 これは、形とは関係のないものだと、勢いあまって言いそうになってしまうものではあるけれど、こういう思慕の気持ちのうつろいやすさも、一方で私たちはどこか醒めた部分を保ちながら、わかっている。
 そのうえで、それでもなお、いつでもその絆に立ち返るために、私たちはわざわざ結婚という形を本能的に選んだのだろうと、私自身ももう結婚してずいぶん長く経つのですけれども、思うのです。」

(『二人称的身体論/「間合い」とは何か』 より)

「一人称視点というと、とかく、主観的で、独りよがりで、自己の殻に閉じこもるという誤解を与えがちです。「一人称視点」の項目で論じたように、一人称視点とは、「一人称の立場から、世界と自身のありさまと、相互作用(インタラクション)を観察する目線」のことを指します。したがって、からだメタ認知は、実は、外界と自己のかかわりのさまを積極的に自覚し、「自身を外に開いていく」行為であると言えます。
 一人称視点を自覚しつつ記述する習慣を持っていると、次第に、相手や、対象となるものごとに対して二人称視点(共感的)にかかわる境地に達するのではないか? 私はそういう仮説を抱いています。
 なぜそうなるのでしょうか? それは、外界が、必ずしも、「優しい」ものごとばかりではないからだと考えています。外界と自己のインタラクションを自覚し、記述しようとする態度を貫くならば、「優しくない」ものごとに心を閉ざすわけにはいきません。優しいものごとも、優しくないものごとも、すべて丸ごと意識下に置き、優しくないものごとには「折り合いをつける」以外に、道はないのです。「折り合いをつける」こと、すなわち、二人称的(共感的)かかわりの誕生です。自己を自覚し、自己と外界の相互作用を強く認識し、自己に優しくないものごとも意識下に置くからこそ、(心を閉ざさないようにする限り)自然に、二人称的(共感的)かかわりに移行するのでしょう。」

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